無意識に感じるデジタルの趣き

人々は毎日カオスを感じている。しかし、それを無意識に無視している。

アナログデジタルの最大の違いは、連続的か離散的かだ。

例えばお風呂にで見る水面の波は非常に連続的である。その水分子同士の繋がりはどこにも途切れがなく極限の滑らかさを持つ。それに対し、CGで再現さえた水面は細かい単位で途切れている。デジタル世界では0と1のビット列で表現することで機械が処理できる限りのデータ化をしているからだ。つまり、家のお風呂とCGの海では圧倒的に家のお風呂の方が情報量がある

人間が感じるレベルでは、レコードとハイレゾ音源の違いである。「レコードの方が音質は劣るが”温かみ”がある」という意見をよく耳にする。これは正しい。なぜならビニールに刻まれた音の波は連続的に記録されていてるのに対し、MP3やハイレゾ音源では結局デジタル化としてデータを離散化している。人間は非常に繊細な密度で、その”温かみ”とされる部分を感じ分けている。これはフィルムカメラとデジタルカメラでも同様のことが言える。

ここで大事なことは人々は主にアナログに趣きを感じているということだ。我々の脳は現代のCPUの処理能力に比べると圧倒的に及ばないが、ハイレゾ音源よりも情報量の多いレコードを耳と脳で処理しきれているということだ。

つまり、これまでにデジタルテクノロジーが進化してもアナログの心地よさには敵わなかったということだ。

しかし、現代に生まれた僕や人々は、時にデジタルに趣きを感じることがある。

例えばシンセサイザーの登場だ。シンセサイザーは電流を操作し合成をしたりするものだが、それまで雑音(ノイズ)をされてきた物に対し、音楽的な趣きを感じたアーティストたちが普及させた。オシロスコープなどでモジュールに流れる電流の周波数特性を確認すると、ノイズは非常に離散的な波形を描いている。しかし、この一種のカオスに感性を揺さぶられた者たちが今のシンセサイザーのあり方を定義した。そしてそれはディスコなどを通して普及し、一般人にもその感性が広がった。

また最近では機械翻訳などで突如現れる意図しない文字列も時に、文学と感じることがある。機械翻訳はある文章に対して要素をデジタル的な離散関係に基づいて、似た時に使われるほかの言語の単語を並べる。その時、間違った関係や予想よりも激しい言葉遣い、ニュアンスの違いにより変な言葉が発生することがある。機械翻訳された文章を明治時代の文豪に読ませても彼らは怒りを覚えるかもしれないが、現代に生きる我々にとっては、荒唐無稽なカオスな文字列による心に残る心地よいムズムズが何か趣き深く、文学として成立することがある。

僕は頻繁にカオスにインスピレーションを受けることがある。

このnoteを今読んでいるあなたにも、そういう時があるかもしれない。例えば、朝のホームに溢れんばかりの人混みの流動性や、妻子持ちが不倫をする映画、そしてこの文自体。全くのカオスだが、どこか意味ありげで考えてしまう。

ここで僕が伝えたいカオスというのは、普遍ではないが、全くの特殊ではない。例えば、人混みの流動性はそれ自体の再現性は低いが、似た環境は良く発生するし、人々の動く方向などは規則的に乗っ取っている。そして、またカオスは秩序は成り立たないが、全くの矛盾ではない。不倫は道理から外れているが、付き合いたい異性と結婚したい異性の理想像の相違に基づいて発生する現象で、人間が知らずのまに抱いてる当たり前のような感情でもある。

このようにカオスを再定義してみると、デジタルの世界も実にこのカオスに当てはまり興味深い。本来連続的だったものを機械の都合で断片的にし、時にノイズを含み。普遍性と特殊性・秩序と矛盾の繊細な境界に位置していて、非常に無茶苦茶なものである。

人々は毎日カオスを感じている。しかし、それを無意識に無視している。

それは今我々が手にしているスマホやPC、SNSそれ自体である。

18歳、学生、クリエイター、未来創造者、過去探索者。