見出し画像

ナイン・ストーリーズ Ⅲ 虹

 「あ、虹が出てる。」
 陽が言ったので慌てて外を見ると、真っ青な秋空に確かに一筋、虹が出ていた。それは色と色の境目のグラデーションまで肉眼で見る事が出来そうな、はっきりとした色彩の大きくて正しい虹だった。陽はベランダの淵に肘を付いて頬づえをついて、空に架かった虹を見ている。奥二重で睫毛の長い瞳をきらきらと輝かせながら。
 「紅茶、飲む?」
 うん。とぼんやりした返事が聞こえる。
 テーブルに手を付いて立ち上がると、木のテーブルの淵がぎしっと軋んだ。スリッパを履き、優しい気持ちと一緒に暖房の効いていないキッチンへ向かう。
 使い慣れた白いホウロウのポットに水を入れ、ガスコンロにかけて火を付ける。真っ白な鍋の中で、透明な水がゆらゆらりと揺らめく。 
 戸棚から紅茶の缶を取り出す。 
 ブルーの四角い缶に入ったこの茶葉は濃い色のアールグレイで、深く枯れた森の匂いがする。驚くほど美味しいこの紅茶は、陽のお気に入り。戸棚にはいつも、一番大きな缶が常備してある。 
 ティースプンにすり切れ2杯ちょうどをマグカップに入れ、お湯が沸くまでのつかの間、戸棚に置いている読みかけの本のページを開く。私のはミステリー小説で、隣にあるツルネーゲフは陽の本だ。私よりも随分と進んでいる。何行か読み進んだところでリビングの陽を見ると、テーブルに肘を付いたまま、まだぼんやりと虹を見ていた。 リビングにある小さなダイニングテーブルはアンティークの物で、郊外にある海の見える線路沿いの小さな家具店で見つけた。 
 手を付くと左右にギシギシと揺れ、少し力を加えると壊れてしまいそうなそのテーブルはとても濃いカラメル色で、陽の好きな紅茶の葉と同じ色をしていた。所どころに傷のある四角いテーブルを私たちは一目見て気に入って購入し、人の良さそうな店主はサーヴィスで小さな本棚までつけてくれた。
 しゅわしゅわと湯気がたち、湯の匂いが立ちこめる。かちん。と音を立ててスイッチを切り、濡らした布巾で熱くなった取っ手を掴む。マグに湯を注ぐと茶葉の良い香りが一気に部屋中に広がり、私は目を閉じて肺いっぱいに香りを吸い込む。沸き立ての新鮮なお湯の匂いと、枯れた森の香りで身体が満たされ、私自身が枯れた森になった様に感じる。
 「あれ、紅茶入れたの?」
 陽が振り返る気配がする。

 目が覚めると雨の匂いがした。雨を感じる時、音ではなく匂いを先に感じるのはどうしてだろう。目覚めたばかりの頭でぼんやりとそんな事を考えながら、暖かなブランケットから両腕を出し、大きく伸びをする。換気の為に一年中少しだけ開けている窓からは薄暗い雨の空が見えた。ベランダの観葉植物。その向こうのビルや、電柱や屋根々々。私はしばらくの間、ベッドの中から世界の濡れる様を眺めていた。
 
 陽と別れたのは二年前だった。日の当たるダイニングや暖かなベッドルーム、大きな本棚、心地よいバスタブ。六年の時はゆるやかに流れ、私たち二人の生活は終わりを迎えた。
 原因は何だったのだろう。今でも分からなくなる。私たちは終わりを迎えた。ただ、終わりを迎えたのだ。終わりという、そのもの。それ以下は無く、従ってそれ以上も無い。ともかく私たちは別れ、二人で買ったテーブルは今、私の家のリビングにある。時に言葉は、何も意味を為さない。

 薄いグレーのニットカーディガンを羽織り、リビングでヒーターを付ける。昨年買ったオイルヒーターはとても静かで、控えめに、けれども確実に、ゆっくりと部屋を暖めてくれる。電気ケトルにミネラルウォーターをどぼどぼと入れながら、まるで雨の様だ、と私は思う。
 
 水の事をアクアと教えてくれたのは陽だった。イタリアだかフランスでは、ウォーターという表記はメニューにはなく、ウォーター。と言ってもほとんど通じないらしい。
 「アクア。て言うんだ。そうしたらペットボトルが出てくる。」
 もっとも、ウォーターでも通じるんだけどね。通じる場所ではって事だけど。発音の問題。ワラ、って言うんだよ。ワラ、プリーズ。
 すっげぇ高いんだぜ?と、陽は笑った。
 陽の髪は褐色に近く、太陽に透けていつも、とても綺麗に輝く。日に透ける、柔らかな髪。日に透ける、陽の、柔らかな、髪。
 
 ニャア。とサーモンが冷えた足元にすり寄って来た。私の足を何度も往復し、ごろごろとしきりに喉を鳴らす。
 「おはよう。ご飯が欲しいのね?」
 風鈴の様な喉を掻いてやりながら訪ねると、灰色と猫はミャア、と一度小さく鳴いてから餌入れのボールをカラカラと手で撫でて朝ご飯の催促をした。私は戸棚から缶詰のキャットフードを出し、賞味期限と味の種類を確認する。ここのキャットフードは全てがオーガニック素材で少し高いけれど、流行の海外ブランドのオーガニック商品よりは安く、栄養満点でラベルのイラストがとても可愛い。味の種類も豊富で私はとても気に入っている。今日のは帆立とツナで、白地にブルーのラインが入ったラベルの真ん中に真っ白で触り心地の良さそうな、品の良い雌猫(多分)が澄ました顔で佇んでいる。
 缶を開けると、サーモンが待ちきれないように中立ちで手に飛びついて来た。昨日切ったばかりの爪が、右手に食い込む。
 「待って。今お皿にあけるから。」
 白いマグの中で湯気を立てる紅茶をすすりながら、がふがふと帆立の筋にかぶりつくサーモンを眺める。アールグレイの香りが部屋に充ちる。枯れた深い森の香りのするそれは、今も、私のキッチンに常備されており、私は今も毎朝、深い森を味わう。
 
 ある時、友人が旅行に行った。海外旅行の好きな友人でお金を貯めては何処かへ旅に出掛けていた。彼女は腕の良いエステティシャンで、いつも綺麗な色のマニキュアをしていた。彼女は見知らぬ土地に出掛けては、いつも私にお土産を買って来てくれた。変な味のするお酒や不気味な人形。甘ったるいチョコレート。ポストカード。そうして何処かの国で買った、枯れた森の香りの紅茶の青い缶。
 「苔の匂いがする。」
 陽は言った。 
 「苔?」
 「うん。雨に濡れた苔。苔って言うより、森かな。とても古くて深い森。雨上がりの、とても濃い緑。」
 「森?森の匂いがするの?」
 ほら、と陽は私に向けて缶を差し出した。                  
 茶葉の香りを嗅ぐと、乾いたアールグレイの香りがした。
 「違うよ。缶のまま持って、こうして目を瞑って深呼吸するんだ。」
 陽は笑って目を閉じて、鼻からゆっくりと静かに香りを吸い込んだ。そして少し息を止め、ゆっくりと吐いた。
 「やってごらん。」
 私は陽を真似て、もう一度香りを嗅いだ。肺に満たされる乾いた香り。緑と、雨に濡れた土と葉、木々達が見えた様な気がした。
 「ね。」
 陽の顔を見ながら、私の見た森が陽の森と同じである様に願った。
 その後、私たちはソファで愛し合い、窓辺に並んで二人で枯れた森を飲んだ。
 「うん。やっぱり苔の香りがする。」
 私はずっと、陽の喉が動くのを眺めていた。深く枯れた森を飲み込む美しい陽の喉。翌日私は友人に電話を掛け、御礼を告げたあと、例の茶葉の国内取扱店を聞いた。彼女は私たちが土産を気に入った事をとても喜び、すぐさま調べてくれ、後日、とあるデパートの名前を教えてくれた。
 「緑の香り。濃く枯れた緑。枯れた森に降る雨。雨に濡れた深い緑。古い時間。いいね。」
 陽が静かに微笑む。
 滑らかな肌が夕焼け色に染まって、私は陽をとても綺麗だと思った。 

 雨は止みむ気配すら見せず、ひたすらに降り続けている。窓の外は灰色に濡れ、ざーざーという雨の音しか聞こえない。サーモンは朝餉を食べ終え、忙しそうに毛繕いを始めた。時折、シャリシャリという音が聞こえる。私は気まぐれに彼女の喉を撫でる。彼女は喉を鳴らす。ごろごろと喉が鳴っている感触はするのに、雨の音で聞こえない。
 
 サーモンと名付けたのは陽だった。
 ある夜、陽は小さな子猫を連れ帰って来た。灰色で目つきの鋭い、やせ細った子猫。陽は驚く私にその灰色の塊を差し出し、サーモン。と言った。それが腕の中の塊の名前だと分かる迄に、40秒くらい掛かった。陽は既にソファで寝転んで本を読んでいた。
 「どうしてサーモンなの?」
 茹でたささみをミキサーにかけたものを子猫に与えながら聞くと、陽はうーんと少しだけ考えて、可愛いから。と答えた。
 「可愛いじゃん。サーモン。」
 鮭と呼ばれた子猫は、呼応する様にミィ。と小さく鳴いた。

 雨の降る日、目覚めると必ず陽が先に起きていた。陽はずっと窓の外を見ていた。指先でTシャツに触れ、何を見ているの?と尋ねると、陽は笑って、世界。と答えた。
 陽の横顔を見ていると私は何故だかいつも胸がいっぱいになり、陽の指先を強く握った。雨の音と、陽の暖かい指先。私は雨を見る陽の長い睫毛を見ながら、もう一度指先に力を込めた。陽は少しだけ振り返って私の前髪に触れ、また窓の外の濡れた世界を見つめていた。陽は完璧に美しく、陽の髪や背中や爪や肩の骨に、私はなりたいと思った。
 本当に美しいものは、いつだって哀しい。

 洗濯を終え、掃除機を部屋中にかけた。食器を荒い、家具を水拭きした。洗濯物はベランダには干せないので、寝室の窓の淵に丁寧にかけた。コーヒーを淹れ、サーモンにブラシをあててやり、鍋もぴかぴかに磨いた。
 雨は実に色んな音を奪っていく。私は諦めて、昨日の夜脱いだ黒いワンピースをクリーニング用のクローゼットにしまった。

「これ、貰ってもいいかな。」
 私が部屋を出る日の朝、ふいに陽が言った。手にはいつも使っていた、あのホウロウのポットがあった。
 「これで沸かしたお湯で飲む紅茶が好きなんだ。」
 陽の目はあまりにも真っ直ぐで、私は息が出来なくなった。陽がお湯を沸かした事なんて一度も無いじゃない。言いたいけれど、声が出なかった。陽の瞳はまるで空みたいで、自分の心臓だけがばくばくと音を立てた。
 「だめかな?」
 声が出ないので、首を左右に振って答えた。 陽は少し笑って、
 「ありがとう。」
 と言うと、くるりと後ろを向いて行ってしまった。私は遅れてようやく、うん。と言ったけれど、そこに陽はもう居なかった。
 部屋を出る前に陽が少しだけ微笑んだ様な気がしただけだった。
 引っ越しのトラックが発車をする時、私はトラックの助手席から、かつての私たちの部屋を仰ぎ見た。部屋はほとんど空っぽで、広いベッドとステレオと汚れた小さなテレビと冷蔵庫、あとは青い縁取りの古いホウロウのポットとマグカップと青い缶の紅茶だけが残った。陽は何も要らない、と言った。

 トラックのエンジンが掛かり部屋が遠ざかる時、ベランダに真っ白なホウロウのポットがちらりと見えた。
 陽はあの日と同じ様に空を見上げている。
 冷たい涙の様なものが溢れた。私も陽と同じ方を見上げてみたけれど、どこにも虹は出ていなかった。

 風呂掃除が終わった後、バスタブに湯を張った。ラベンダーのオイルを数滴垂らし、ローズマリーの葉を散らした。甘い香りが脳をしびれさせ、途端に身体が安らぎに満ちる。
 服を全て脱ぎ、髪をうしろでぎゅっと縛った後、湯に赤い指の爪先からゆっくりと身体を沈めていく。肩まで浸かったところでサーモンがニャアと鳴きながらバスタブの淵に乗ってきた。足を器用に使いながら、湯の匂いを不思議そうに嗅いでいる。濡れた手を伸ばし触れると、サーモンは嫌がって何処かへ行ってしまった。私は目を閉じる。
 湯は温かくゆるやかで、私を安心させてくれる。目を開け足を伸ばすと、赤い爪が10本、礼儀正しく並んでいた。私はまた目を閉じる。
 私のペディキュアはいつも陽が塗ってくれた。陽は決まって赤い色しか塗らず、綿棒も使わずに一本一本とても綺麗に仕上げてくれた。私の爪を塗り終える陽は真剣そのもので、一つの爪に充分すぎる程長い時間をかけた。陽が爪を塗っている間は少しも動く事を許されないので、私は本やミネラルウォーターや耳かき、小顔ローラーやテレビのリモコン、レモンの輪切りや女性誌など、ありとあらゆる物を手の届く範囲に置いておかなければならなかったけれど、私はいつも本を数ページ読むだけで、ずっと陽を眺めていた。
 陽はいつも美しく、哀しかった。

 陽が死んだ。と電話があったのは昨日の事だった。
 電話をくれたのはエステティシャンの彼女で、彼女は少し前から陽と暮らしていた。と友人が教えてくれた。
 久しぶりに会った陽は、箱の中で少し痩せた様に見えた。私は陽の髪を撫で、白い花を棺に添えた。柔らかな髪。長い睫毛。其処にいるのは間違いのない、正しい陽なのに、肌だけがひんやりと冷たかった。

 ハーブの香りの石鹸で心ゆくまで身体を洗い、熱いシャワーで洗い流す。真新しいタオルで身体を拭き、ローションを付けると、新しく生き返った様な気がした。私はTシャツと短パンに着替え、ベランダに出た。
 雨は既に上がっていた。青い空は限り無く広がり、世界は眩いばかりに輝いていた。心地良い風が吹き、目を閉じて思い切り深呼吸をすると、雨に濡れた後の世界の香りがした。
 
「はい。」
 陽の葬儀の後、エステティシャンの彼女が小さな紙袋を差し出した。中を見ると、白いホウロウのポットと青い缶、それに陽のマグカップが入っていた。 
 立ちすくむ私に彼女は寂しそうに微笑み、雨の中へと消えていった。
 
 「サーモン。サーモンたら。」
 サーモンは興味なさそうにちらと私を見て、窓辺に戻った。日の当たるカラメル色のテーブルの上で前足をクロスして、その上に顔を乗せる。長いしっぽが時々、生き物の様に揺れた。窓辺。光が眩しくて、私は目を細めた。
 白いホウロウのポットが、カタカタと小さな音を立てている。カチリと音を立てて火を止め、青い缶の蓋を開けてゆっくりと瞳を閉じ、深く深呼吸をする。少しの間、深い森の中を散歩した後、枯れた森の葉をポットに入れる。懐かしい香り。
 「あれ、紅茶淹れたの?」
 陽の声がする。
 
 
 

 fin.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?