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ナイン・ストーリーズ Ⅴ  シルバーリング

 シルバーリング

 だって私、ケイちゃんの事が好きだもん。結婚したい位好き!

 咲はまだ子供だからなー。あと3キロ痩せたら考えてやるよ。

 もー!すぐ子供扱いするんだから!

 あはは、とケイちゃんは爽やかに笑った。

 ケイちゃん。じゃあ、手、触っていい?

 ケイちゃんは細い目を三日月の形にして、いいよ。と言った。

 ケイちゃんの手の甲はすべすべして柔らかく、草原みたいだった。

草原みたい。

ケイちゃんは、行ったことない。と笑った。

 テーブルの上の、ジェリービーンスのボトルを取って蓋を明け、一番きれいな緑色の粒を一粒取り出す。メロンの甘い香りがする。

 ケイちゃんの薄い唇に押し込んだ。

 甘。

 甘い物が苦手なケイちゃんの顔が歪む。

 あはは。と私は可笑しがる。

 あ、とケイちゃんが口を開ける。

 もう一個?

 うん。

 ケイちゃんが頭だけで頷く。

 ジェリービーンズのボトルをカラカラとかき混ぜて、今度はピンク色の粒を取り出す。ケイちゃんの唇に挟むと、ケイちゃんが違うと首を振る。
 
 こっち。

 とんとん、とケイちゃんの指が、私の唇を叩く。

 ケイちゃんの唇からバナナの様に曲がったピンク色の粒を取り出して、自分の唇に挟む。私の唇は、ケイちゃんのよりもずっと厚くて柔らかい。

 ちょーだい。

 ケイちゃんが意地悪に微笑む。

 ケイちゃんの唇は、薄くて柔らかくて、温かい。

 ジェリービーンズを唇から離す時、ケイちゃんは少しだけ唇を噛んだ。

 やっぱ甘い。

 ケイちゃんはもう一度顔を歪ませる。

 お風呂に入ろっか。

 もごもごしながら、ケイちゃんが言う。

 風呂は温かく、ケイちゃんの肌は滑らかだ。
 ゼラニウムとラベンダーのオイルを数的垂らしているので、とても心地が良い。肺いっぱいに、湯気を吸い込む。古い、外国の本を、思い出した。

 私を後ろから抱きしめたままのケイちゃんは、時折、思い出した様に肩にキスをする。 眼鏡を外したケイちゃんの顔。お仕事ではなく、いつもの、いつものケイちゃん。たまらなく愛おしいと思う。

 あ!

 素っ頓狂な声を出したケイちゃんの指す方を見ると、シャワーのホースに真っ赤なてんとう虫がとまっていた。

 どこから来たんだろう。
 ほんとだ。かわいい。

 ケイちゃんはバスタブから出て、動けなくなっているに違いない、真っ赤な子をそっと指先に乗せて、少しだけ開けている窓の淵に移した。

 ケイちゃんの出た後のバスタブのお湯が、ゆらゆらと揺れる。

 好きな時にでていけばいいよ。

 ケイちゃんの身体は、彫刻みたいに、美しい。

 ケイちゃん。
 ケイちゃん、来て。

 ケイちゃんが振り向く。

 ケイちゃんはいつも、とても優しい。私はケイちゃんを、驚くほど好きだという事を、再発見してしまう。

 向かい合わせに抱き合ったまま、何度もキスをする。私はとても幸せで、とても切ない。 何故か悲しくなって、ケイちゃんにぴったりとくっついてみる。濡れた、柔らかく暖かな肌。

 ケイちゃん。

 ん? 

 ケイちゃん。

 なーに?

 ケイちゃん。ケイちゃん。ケイちゃん。

 何万回呼んでも、足りない。
 濡れたケイちゃんの胸に噛み付くと、ラベンダーとローズマリーの香りが口いっぱいに広がって、ケイちゃんに見つからない様に、少しだけ泣いた。ケイちゃんの胸に、赤く、小さな私の歯形が残る。
 温かく大きな手が滑り込んでくる。目を瞑って、ケイちゃんを感じる。

 好き。


 ソファでケイちゃんが歌を歌っている。

 とんとん、とん。とと、とん。ケイちゃんの指が、リズミカルにソファの淵を叩いている。静かな夜。開けっ放しの窓から入る風が気持ちいい。 濡れた髪のまま、私はケイちゃんと私だけの為に、キャベツを刻んでいる。

 オーヴンは程よく温まり、塩と胡椒をしたズッキーニと豚肩肉が、お行儀良くぎっしりと並んでいる。オリーブオイルを回しかけ、ライムをぎゅっと絞って、火傷しないようにバットを持って、慎重にオーヴンの中へ入れる。180度で45分。タイマーをセットしたら、メインディッシュが出来る迄、私とケイちゃんの、ささやかなアペリティフが始まる。
 冷蔵庫から、枝付きの干し葡萄と、手が痛くなる程に冷えた白ワインを取り出す。シャンパングラスに白ワインを注ぐと、何だかとても特別な夜の様な気持ちになるから不思議だ。 
 歌い終わったケイちゃんの唇にキスをすると、甘く乾いた葡萄の味がした。

 ねえ、あれ歌って。

 チーズと生ハムを乗せたお皿を置きながら、ケイちゃんにお願いをする。

 なに?
 私の好きな歌。

 ケイちゃんは少し考えてから、歌い始めた。私はケイちゃんの声が好きだ。この歌と同じくらい。それ以上? 
 とんとん、と、ケイちゃんの指がまた、リスムを刻み始める。

 これ歌う奴ってナルシストだよな。

 一番を歌い終えたケイちゃんが呟く。

 いいから!真面目に歌って!

 はいはい。とチーズを巻いた生ハムをぺろりと食べながらケイちゃんが面倒くさそうに歌い始める。さっきよりもずっと、丁寧に、きちんと。私は目を閉じて、ケイちゃんの声に合わせて身体を揺らす。キッチンからライムと豚肉の焼ける良い香りが漂い始める。

 シャンパングラスに指を浸し、ケイちゃんに差し出す。 ケイちゃんの舌が熱くて、身体がぎゅっとなる。柔らかな舌の感触。ケイちゃんの感触。ケイちゃんの指が、シャンパングラスに伸びる。長く綺麗な指先が、透明な液体で潤む。私は大切なお菓子の様に、それを舐める。ケイちゃんのもう片方の手が、私の髪を撫で、睫毛に触れる。頬に触れる。顎に触れる。唇に触れる。
 どちらの指が、どちらの指か、どちらの舌がどちらの舌か、分からなくなる。私はケイちゃんで、ケイちゃんは私になるみたいに。たまらなくなって、私たちは抱き合ってキスをした。

 ピピピ、ピピピッ

 飯、出来たね。
 すげーいい匂い!

 よしっとケイちゃんがソファから降りて、腕まくりをしながらキッチンへ向かう。

 腹減ったなー

 ケイちゃんの後ろ姿を見て、たまらずに後を追いかけた。
  がこん。と音がして、オーヴンの扉が開く。子供みたいなケイちゃんの横顔。

 どう?焼けてる?
 めちゃくちゃ旨そう。

 ケイちゃんはオーヴンの上に置いてある鍋掴みを取って、鍋掴みの上からそうっと、バットを掴む。そろそろと慎重に、テーブルの上にセットしてあるコルクの鍋敷き迄運んだ。
 
 あち。

 時折聞こえる、ケイちゃんの声。
 ズッキーニは熱で少し焦げて一回り小さくなり、豚肩肉は、チリチリと音を立てながら肉汁を滴らせている。ハーブと、黒胡椒と、ライムの爽やかな香り。
 
うまそ。

ケイちゃんは鼻歌を歌いながら、カラトリーで器用に二人のお皿に取り分けている。私は冷蔵庫から、甘いけれど、辛口な南アフリカの白ワインを取り出して、(さっきのは、チリのだった。酸っぱくて軽い。)少なくなったグラスになみなみに注いだ。
 ケイちゃんの横顔を見ていると、自然と笑顔になる。腕を絡ませて、ケイちゃんの全ての仕草を見つめる。

乾杯。

 BGMにはケイちゃんの好きなバンドのCDを掛けた。小さく響く、トランペット。
 私とケイちゃんの、ささやかな夜。肉を頬張る唇。ワインを飲む喉。長い睫毛。私はケイちゃんばかりを見ている。

咲。

ケイちゃんの優しい手が、髪を撫でている。
目を開けると、愛おしそうに私を見つめるケイちゃんの顔があった。

そろそろ行くよ。眠い?

ケイちゃんの声。
大丈夫。と答えて、シャツを羽織る。
夜の空気は冷ややかで、部屋はとても冷たい。裸足の足が、夜を感じる。玄関で靴を履くケイちゃんの指には、いつの間にか指輪がはめられている。銀色の、シンプルな指輪。
 さよならを言う為に振り向いた彼の首に抱きつく。  温かい、温かいケイちゃん。

 風邪ひくなよ。

ケイちゃんはキスをして、もう一度私を抱きしめた。

おやすみ。ゆっくり眠って。

私は小さく頷いて、おやすみなさいを告げた。

バタン。
閉まったドアを、いつまでも見つめていた。
テーブルの上には、二つのシャンパングラスと、汚れて空っぽのお皿が置かれたままになっている。


fin.



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