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ナイン・ストーリーズ Ⅷ  泡沫のひと時

泡沫のひと時

 もう三晩も泣き続けて、いよいよ涙も枯れ果てたと思っていたのに、4晩目の今夜、また涙が溢れてきた。わたしの涙袋には、まだまだ涙が溜まっているらしい。
ティッシュペーパーは足元に丸まり、暗い部屋に溜まり続けている。

ふと壁のなかの自分と目が合った。
眼は真っ赤に充血し、顔はむくみ、涙袋がぱんぱんに腫れている。真っ白でぶよぶよと心許なく、一昔前の映画に出てきたエイリアンのようだ。
涙袋を指で押すと、止まったはずの涙がまた溢れてきた。

 彼と最後に会ったのは先月の終わり。皐月になったばかりの早朝、また来るね。と言ってわたしを抱きしめて帰って行った。それきり、わたしの部屋のドアは開かれないままだ。
 新緑が過ぎ、ドクダミや紫陽花が道道に咲く季節が訪れ10日が経つが、彼からは何一つ連絡はない。

 長く閉まっていた美術館が今日から開館となったので、人ですっかり埋め尽くされた電車に乗り、皇居の近くの駅まで来た。

 日差しは暑く、緑は濃い。

 時計を見ると14時前だった。15時からの予約をしていたが、思いのほか早く着いてしまった。
噴水に囲まれた道を抜け、レトロな造りの美術館にたどり着いた。入り口で待機しているスタッフに、早く入れないかと聞いてみる。

『申し訳ありませんお客さま。15時の回ですと、ただ今ご案内はいたしかねます。どうぞまた15時にいらしてください。』

 白い手袋に透明のビニールのフェイスカヴァーをつけたスタッフは無表情のままそう言い、14時の回にきた客を笑顔で対応し始めた。
 仕方なくその場を去る。振り返ると、他のスタッフも同様に、白い手袋に透明なビニールのフェイスカヴァーをつけている。
 こんにちは。チケットをお持ちの方はこちらへお願いします。こんにちは。ドウゾ、こちらでございます。  
まるで60年代の映画に出てくる宇宙にいるみたいだ。この人たちは若かりし日のジェーン・フォンダのように、無表情のまま相手と手を合わせるだけのセックスをするのだろうか。

携帯の液晶画面は14:02。予約の15時までは一時間近くあるので、美術館の前のオープンテラスのレストランに入った。カウンターにいる女性スタッフにテラスで良いかと目配せをし、一番奥の席に腰掛ける。風が心地よく吹き抜け、目の前の大きな木の葉を揺らす。
 しばらくすると、年若い男性スタッフが注文を取りにきた。
緑色のカバーのメニューを開き、ランチのパスタセットAと、スパークリングワインをグラスで注文した。
 かしこまりました。少々お待ちください。年若い男性スタッフは一礼をし、店内へと戻っていった。

 グリーンの多いテラスは開放的で美しく、清潔で和やかな気分にさせてくれた。
ふたつ隣の席では、昼休み中のOLらしい三人が終わらないおしゃべりに夢中になっている。反対側のテラス席には、中年の夫婦が座っていた。彼らは向かい合って微笑み合い、コーヒーを飲んでいた。どちらもこざっぱりとした、身綺麗な装いをしている。白髪の男性の後ろ姿になぜか目が留まった。ところどころグレーがかり、短く切りそろえられた髪。糊のきいた、サックスブルーのシャツの襟元。
 目の前の緑の木々に視線を戻す。息をひとつ吸い、吐いたあと、イヤホンをつけて音楽を鳴らした。心地よいサックスの音が流れてくる。少しの間、目を閉じる。

 店員が勧めてくれたスパークリングはそんなに辛口ではなかった。小さな泡を立てている鼈甲色の液体をひとくち口に含み、青く澄んだ空を見上げる。ロメインレタスとレモンのサラダは水切りが甘く、パンはぼそぼそと乾燥し、切り方を失敗したのか端が途中で切れていた。複雑な名前のパスタはオレキテッレをこねて長く伸ばしたような形で、見た目ほど美味しくはなかった。パスタの上に雪のように散らばっているチーズもなんの味もせず、デザートのパウンドケーキはベタベタと脂っぽかった。
 これで3000円なら、自宅の近くの美味しいパン屋のハムのサンドウィッチと、コンビニで1000円の赤ワインを買って、目の前のベンチで食べたほうがましかもしれないと思ったが、真っ白いテーブルクロスやシルバーのカラトリーを見ていると不思議と心が落ち着いていく。ざあっと強い風がもう一度テラスを吹き抜けていった。

「抱きたい。」
彼は言った。
「今日は無理だけど、明日なら行けそうだから。」

 わたしは次の日、掃除をし、洗濯をし、布団を干し、午前中に仕事を終わらせたあとに食事の買い物も済ませ、彼からの連絡をただひたすらに待っていた。
 23時半。前日のメールからちょうど24時間後に、彼からメールがあった。

「連絡が遅くなってごめん。溜まっていた用事を片付けていたら、いつの間にか眠ってしまって。」

 ベッドのなか、わたしは一人で泣いた。

 風が強く、膝の上のナフキンが何度も飛ばされそうになった。
片手で押さえながら、緑の木々の揺れる音が聞こえる。イヤフォン越しに。

 携帯の液晶を見ると、15時3分だった。
大きなワイングラスに入ったアイスティーを飲み干し、若いウェイターに会計を告げ、席を立った。

あんな男はやめなさい。
友人に事の顛末を告げると、すぐさま返答が返ってきた。

―それで、あんたはなんて返したの?
彼女はやや呆れ気味に、それでも怒りをにじませてくれていた。
ーうん・・・疲れていたから、ゆっくり休めて良かったねって。
―バカじゃないの?

彼女はひどく落ち着いた様子でそう答えた。

―優し過ぎるのよ。

 二度目に彼と逢った時、まったく目を合わせてくれなかった。
ひと月振りに逢うというのに、仕方なく、30分ほどくだらない話をしあった。目も合わせてくれず、ぎこちない彼に、どうしていいか分からないまま時間が過ぎ、お互いに妙に距離があった。たまらずに彼の指に触れると、目を合わせないまま、彼が指を撫でてくれた。彼の首に腕を回すと、わたしの髪を撫でながら、ゆっくりとキスをしてくれた。
 その後、わたしの身体をぎゅっと抱きしめながら
―やっと逢えた。
と耳元で彼が言った。ため息とともに。
―冗談じゃなくて、毎日思い出していたんだ。ずっと。

 美術館は、それなりに混雑をしていた。
入口で念入りに手指に消毒をし、スーツを着た宇宙人のようなスタッフに検温を促された。

―はい、ドウゾお入りください。

 エレベーターは4人までです。と声をかけられたけれど、後方の人たちを待たずに一人で通された。

 3階のエントランスに着いて自動ドアが開くと、たくさんの画家の、たくさんの子どもたちの絵が並んでいた。
 目当ての画家の絵は、2番目のブースに飾ってあった。
エメラルドグリーンの背景の中の赤ん坊は、濃いコバルトブルーの瞳が特徴的だった。思わずその瞳を指でなぞりたくなるような、深い色をしていた。
わたしはしばらく、その絵の前で佇んでいた。

 公園で戯れる親子の絵、窓辺で沐浴をする子どもの絵、母親の腕の中で死んでしまった5歳の子どもの絵。ミルクを飲む赤ん坊の絵。暴動の中、笑っている子どもたち。お洒落をして笑っている少女。
たくさんの子どもたちに囲まれながら、わたしはそっと自分の子宮の上に手を触れてみた。

 ―もう10回くらい、我慢してる。
彼は汗ばんだ額のまま、そう言った。
ー好き。
そう伝えると、一呼吸置いて彼が言った。 
―僕も。
ーだいすき。
―僕もだいすき。
 わたしたちは抱き合い、キスを何度も繰り返した。

 セックスのとき、彼はわたしの手を握ってくれる。それだけのことが、ただとても嬉しかった。彼のキスが、彼の瞳が、彼の指が、あることが幸せだと思った。
ー好き。
もう一度そう伝えると、彼の瞳が優しく弛んだ。

 階段で3階から2階に降りて、ミュージアムショップに立ち寄った。
ひと通り見て廻ったあとに、マグネットをふたつ買った。去年から美術館のマグネットを集めている。いく先々の美術館で買ったマグネットが並んだ自宅の冷蔵庫を思い出し、ふふ、と一人で笑ってしまった。

 ―夢の中じゃ絶対に最後までいかないんだよな。
セックスの合間に彼が言った。
―この前、あなたの夢を見たよ。
タバコに火をつけながら、彼を見つめた。
ーどんな夢だった?
彼はタバコを持っていない方のわたしの指にキスをした。
―バリみたいなところで・・・あなたに襲われる夢。
ふふっと彼が笑った。
ーバリ?
―そう。松明みたいなのがたくさん並んでて・・・なんだか、二人とも獣みたいだった。
なにそれ。とわたしも笑った。彼の腕がわたしを捉える。
 キスをして、彼の指がわたしの髪を梳いた。
―よかった、可愛くて。
目を閉じる。
―現実の方が、ずっと可愛い。
彼の舌は、甘くて柔らかい。

 好きな画家の醤油皿を見つけた。
 ベッドに寝そべる夫人と、夫人に手を伸ばす猫の後ろ姿が対になっている。藍色の、素敵な醤油皿だった。
 ポストカードにB4サイズのポスター、冷蔵庫のマグネットに、美術館限定のガチャアイテム。(今回はサコッシュとハンカチ)さすがに買いすぎかと思い、会計を済ませて美術館を後にした。
バーバレラのようなスタッフに会釈をされ、ランチをしたカフェを通り過ぎ、地下鉄の入口に着いたとき、やはりどうしても醤油皿が気になって、美術館へと戻ることにした。

 美術館に着くと、次の回の入場をしているところだった。宇宙人たちは忙しく、あたりを見回すと、グレーのスーツを着た男性のスタッフと目が合った。
 ―どうかしましたか?
 彼は優しく微笑んでくれた。目尻のしわが
美しかった。
 ―ミュージアムショップに行きたいんです。
買い逃してしまったものがあって、どうしても欲しくて。
 彼は優しく微笑み、中へ通してくれた。
 
 迷いなく醤油皿を手に取り、レジへ向かう。
レジの女性は先ほどの荷物を預かり、大きな袋へまとめてくれた。礼を告げて出口へと急ぐ。出口では、グレーのスーツを着た男性スタッフがいた。
 ―ご希望のものはありましたか?
 ―ええ、お陰さまで。
 彼は微笑み、わたしは会釈をして美術館を去った。

 日比谷線のホームへ降りる階段に着く。見上げると、太陽は眩く輝き、世界を照らしている。携帯を見る。彼からの連絡はない。帰ったら、醤油皿をどこにしまおう?胸が少し高鳴る。
 深呼吸をし、ホームへ続く階段を降りた。

fin.


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