ナイン・ストーリーズ Ⅳ 空と海の物語
空と海の物語
わたしの言葉を紡ぎなさい
これは 貴方への呪縛
わたしの言葉を紡ぎなさい
これは 貴方への呪縛
波の音が聴こえる。
ゆっくりと柔らかく、ゆっくりと、優しく。
目を開けると、目の前に海が広がる。あまりにも、圧倒的で美しい、青い海。
波が立ち、きらきらと、光が溢れる。眩しくて僕は、また目を閉じそうになる。
ふいに、思い出す。あぁそうか、僕は海に来ていたんだ。
「大丈夫?」
彼女の声が聞こえる。
「大丈夫だよ。ありがとう。」
僕は答える。
そうか、彼女と海を見に来ていたんだ。
くすくすと、彼女の笑い声が聞こえる。
足首が冷たい。下を見ると、僕の両足首は透明な水に浸かっている。波は僕の足のぶつかり、しゅわしゅわと白く泡立ち、また透明な水に溶けていく。
ああそうか。と、また気付く。僕は波打ち際に立っているんだ。
もう一度前を向く。其処には青い、青い、青い、海がただ在る。
僕は一体いつからここに立っているんだろう。
「ねえ、海がどうして綺麗だか知ってる?」
不意に、彼女の声がする。
透明感のある、清潔な彼女の声。
声のする方を振り返るが、太陽が眩しくて、彼女の顔が良く見えない。
「ねぇ、海がどうして綺麗だか、知ってる?」
繰り返す彼女の声が、遠く聞こえる。甘ったるく、澄み切った僕の好きなその声。なのに一体どうしてだろう、僕には彼女の顔も思い出せない。
目を細めて、彼女を見ようとするけど、上手くいかない。
「さあ、分からないな。」
彼女は帽子の淵辺りに手を翳して、こちらを見ている。その瞳は僕を通り越して、きらきらと光る、ただただ美しい青い海を見ているような気がするが、どんなに目を凝らしても、彼女の顔が見えない。
波の音がする。僕ももう一度海を見つめる。
「海が、こんなに美しいのはね、空を映しているからなの。」
彼女の声が、また、遠く聞こえた。
「或る日ね、
海が空に恋をして、落ちてきたの、太陽と一緒に。」
耳元で、彼女の声が聞こえた。
「ずっとずっと昔から、空はあったの。美しく、無限の空。それは全てであり、ひとつだった。風と戯れ、太陽と踊り、雲を踊っていた。
ある日、強い風が吹いて、雲ひとつなくなり、空は見付けてしまったの。青い海を。それはあまりにも美しく、あまりにも唐突に、空の心を奪ってしまった。海はあまりにも美しかった。あまりにも、永遠だったの。どこまでも青く、青く、青く、美しい永遠。
そう、空は海に恋をしてしまった。
・・・そして、あの美しい海が欲しくてたまらなくなったの。
太陽は言ったわ。止めなさい、空。あなたは永遠なのよって。
でも空は聞かなかった。空の心は既に、海に奪われてしまっていた。
空はただひたすらに願ったの。海が欲しい。海に抱きしめられたい、と。 そうしてある日、空が落ちてきたの。太陽と一緒に。
落ちていく空の目の前には、初めて見た時と変わらない、青く美しい海があった。空は手を伸ばして落ちた海の中に飛び込み、夢中で海を抱きしめた。でも・・・其処にはもう、何も無かった。空が愛したのは、鏡に映った自分自身の姿だったの。」
彼女の髪が、風に揺れた。
陽の光が波に反射をしてキラキラと輝いている。
僕の脳裏に、風を引きちぎり、雲を破って太陽をからげながら海へと落ちてくる空が見えた。
「それで、空と海はどうなったの?」
太陽が眩し過ぎて、僕は目を細めた。
「空が落ちた後には、何もなくなっていた。立ち上がると其処には、焦げた太陽が転がっていた。海に落ちる前、太陽は空に言っていたの、やめなさい、空。それはとても悲しいことになるのだからって。きっと太陽は全部を知っていたのだと、空は気づいた。
空は泣いたわ。幾日も、幾日も、焦げた太陽を胸に抱いたまま・・・。 そうして、とても長い時間が過ぎた後、気がつくと其処には美しい海があったの。」
彼女の話は終わったようだった。
僕はもう一度前を向き、青い海を眺めた。それは紛れも無い、青く美しい永遠だった。
「自分に恋をした空は、いまも何処かで笑っているわ。」
彼女の声が、すぐ近くで聞こえた。
幾時間、そうしていたのだろう。気がつくと、陰が随分と長くなっていた。
「帰ろう。」
振り返るとそこに彼女の姿はなく、彼女の居たはずの足元には、何か焦げたような黒い塊が転がっていた。
fin.
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