ナイン・ストーリーズ Ⅵ ダイ・インザ・ブライト
DIED IN THE BRIGHT
緑が死んだと聞かされたのは、月曜日の午後4時を過ぎた所だった。
私は受話器を持ったままぼんやりと、二階のクローゼットの奥にかかったままの黒いワンピースの事ばかり考えていた。
去年の夏、おばあちゃんの葬儀の時に着た以来なので、クリーニング屋のビニールを被せられたままくしゃくしゃになっている筈だ。ホコリは平気かしら。匂いとか・・・
「K、聞いてる?」
隆の声で我に返った。
「○○教会だからな。仕事、はねたら迎えに行く。」
「うん。」
「・・・じゃあ。」
「うん。」
「K。」
「何?」
「・・・何でもない。じゃあ、後で。」
かちゃり。と音がして、受話器が死んだ。窓の外を見ると、恐ろしい程美しい夕焼けだった。
緑が最初に死のうとしたのは一週間前の月曜日の朝だった。電話を貰い川沿いの病院に駆けつけると、白い部屋の白いベッドの中に横たわった緑が居た。緑は透明な瞳でぼんやりと天井を眺めていた。白い顔と白いベッドが奇妙に美しく感じた。
細い腕に銀色の針とチューブを通されたままの緑の柔らかな髪をそっと撫でると、病院の匂いに交じり、蜂蜜の様な匂いがした。ふわふわと飛んでいってしまいそうな、柔らかな緑の髪。
「K。」
消え入りそうな声で、緑は私の名前を呼んだ。
「ん?」
「・・・。」
緑の瞳は透明に透き通っていた。窓の景色を見ている筈の瞳には何も映っていない。
「寝てなよ。ここにいるから。」
ブランケットを掛け直そうとする私の手に、緑の指が触れた。緑の手は冷たく、少しだけ震えていた。
緑は窓を見たまま、ゆっくりと続けた。
「朝、中目黒のホームに立っていたの。
今日はやらなければいけない仕事があって、いつもより早めに家を出たの。 中目黒の駅はいつもより少しだけ空いていて、私は日比谷線の乗り換える為にホームに立って電車を待ってた。風はまだ少し冷たくて、心地良く私の髪を揺らしていた。とても神々しく、気持ちの良い朝だった。
私の前には、白いシャツを着た太ったサラリーマンが居て、彼は左手に黒い大きな鞄を持ったまま、右手に持ったハンカチで何度も汗を拭いていた。彼の背中はじっとりと汗のシミが拡がっていて、私はその地図の様な汗のシミを、ずっと眺めていた。
ふいに、強い風が吹いて、サラリーマンのハンカチが宙に飛ばされた。ハンカチは、サラリーマンの汗をたっぷりと吸ったまま、ふわりと巻き上がり、線路へ飛んでいった。
あ、とサラリーマンが声を上げた。私は自然とハンカチを目で追い、空を見上げた。そこには、太陽が輝いていたの。
・・・私は一瞬で目を奪われてしまった。 太陽は輝いていた。ただそれだけ。それだけで、言葉を無くしてしまったの。太陽はそれほど圧倒的に、美しかった。
太陽は其処に在って、温かく金色の光で、世界を包んでいたの。私はそれに気付いてしまった。音楽が鳴るように。
その時アナウンスが入って、電車が到着した。電車はベルを鳴らしながら、光を遮った。屋根と、電車に遮られた光は、一筋の光となって、真っすぐに私を突き刺したの。」
緑はそこで、小さく呼吸を整えた。緑の目は、その金色の光を未だ、見ているようだった。
「光が・・・あまりにも綺麗で・・・あまりにも・・・美しくて。涙が止まらなかった。」
「死ななくちゃって、思った。光が、あまりにも美しかったから。」
緑はその場に泣き崩れ、気がつくと彼女の乗る筈だった電車も、サラリーマンも居なくなっていた。緑は足を踏み出してホームに飛び込もうとし、側に居た駅員に止められたのだ。光を変わらずに誰もいないホームを照らしていた。その一週間後に、緑は浴室でばっさりと手首を切ったのだ。
私は夕焼けを見ながら、白いシーツに溶けてしまいそうな緑の白く細い手首が、赤く染まる所を想像しようとしたが、上手くいかなかった。
「だめよ。六時に隆が迎えに来るんだから。」
その男は、私の言う事など構わずに、黒いワンピースを脱がせ、下着のホックを外した。レースのたっぷり付いた黒い下着が、忘れられた子猫の様に、部屋の隅に佇んでいた。男は真珠の首飾りにキスをし、私をうつ伏せにした。ベッドが軋むたびに、私はどうしようもなく男を求めた。
「また来るよ。」
男は情事の後、部屋を出て行った。後にはティッシュペーパーに包まれたピンク色をした半透明のラテックスの素材と、男の吸う、甘く香ばしい煙草の香りだけが残った。
男の残した吸いさしの煙草に火をつけ、ベッドに横たわり、私を見た。
すらりと伸びた脚。黒のストッキングが驚く程に良く似合っている。しっとりと塗られた、赤い、ペディキュア。
あと15分で、隆が来てしまう。私はシャワーを浴びる為に、重い身体を起こして。バスルームへ向かった。
車は混んでいて、中々進まない。
八月の夕方。まだ充分すぎる程に暑く、空はようやく薄紫色に染まった所だった。首都高から、オレンジと薄紫のグラデーションが良く見渡せた。
「暑いな。」
隆がクーラーを強にした。カタカタと、古いエアコンが鳴った。隆の愛車は古い型のクーパーで、中古で買ったものだ。誰かが変えた黄色いマフラーが心地良い音を出して走り、高速に乗ると今にも屋根が吹き飛ぶんじゃないかという位に頼りなく軋んだ。緑はいつもはしゃぎ、この車を愛を込めて、おじいちゃん。と呼んでいた。ミスター・グランパ。
車の中は5分経っても涼しくならなかったので、隆に断って窓を開けた。 心地良い風が頬と髪を揺らした。車の音。廃棄ガスの匂い。隆の車のステレオから流れる、カントリーのカセットテープの古く軋んだ音。緑の好きだった曲。鈴の様な笑い声が、聞こえる。
宵の明星が、暁の空で輝いていた。緑もあの星を見たのだろうか。
私たちは教会に着くまで、一言も喋らなかった。
緑は真っ白な棺の中に横たわっていた。真っ白な手首には、赤黒い線がべったりと貼り付いていた。私は沢山の白い花で、それを隠した。
ステンドグラスからは色とりどりの光が降り注ぎ、パイプオルガンの奏でる厳かなバッハをBGMに、神父様がくだらない説教をいつまでも説いていた。
「光が、あまりにも美しかったから。」
緑の声が聞こえる。
手を光に透かしてみたけれど、手のひらが少し、ピンクに染まっただけだった。
葬儀が終わってからも、私と隆はしばらく教会の中にいた。静けさと、荘厳さが私たちを包んだ。古い教会の中はどこか温かく、時間を感じなかった。聖域とは、そういうものなのかもしれない。
聖母はやわらかな微笑みで世界を抱き、尊い大工の子は神に愛され、この世の罪を被った。教会には沢山の光が降り注ぎ、幾千もの空気中のホコリ達が、光を浴びてきらめいていた。
郊外にある、この小さな教会に、私は一度だけ来た事がある。
緑は敬虔な・・・とは言えないが、クリスチャンで、私はたまに日曜日のミサに付き合った。朝からおびただしい程の人間が居て、彼らは聖書や聖歌のカードを携え、教会に入ってくる。彼らは厳かに神の子の前で十字を切り、満たされた顔をしている。緑に手を引かれて、一番後ろの長椅子に着席をした。パイプオルガンの音と共に、聖歌の合唱が始まり、まるで聖歌隊の様に彼らは歌い始める。私は聖歌の本も持っていないので、歌っているフリをしてやり過ごした。無神論者ではないが、無宗教の私は、この場所には酷く場違いに思えた。ふと緑を見ると、小さな声で歌っていた。長い睫毛が影を作る。祈りの様な旋律。歌い終わると着席をし、神父の説教が始まった。
「おはようございます。」
神父の声がすると、前後左右の人達が、互いに挨拶を交わした。互いに見知らぬ筈の彼らは、満ち足りた笑顔のまま、本当に心から挨拶を交わしている様だった。汝の隣人を愛せよ。なんて他人行儀で残酷なんだろう。
私には到底無理だと思った。彼らの笑顔を見ていると、自分が酷く汚れている様な気がした。ミサの間、緑は小さく、真剣な眼差しで祈りを捧げていた。私はせめて、神様が緑の願いを聞いてくれます様にと願った。
辟易する様な時間の後で、緑は少し待っていて欲しい。と言った。大聖堂の横の小さなスペースには懺悔室があり、ミサに居た人達が何人か、その小さく白い部屋へと消えていった。私が微笑むと緑は安心したらしく、切れかけた細い鎖の様な笑顔で、ありがとうと言った。
懺悔室にはクリスチャンしか入れない。
小さく薄暗い部屋の中で自らの罪を告白し、神様に許される場所。例えば神父の子供や妻が殺されたとして、犯人が懺悔をしたら、神父は例えばそれさえも許すのだろうか。私はずっと、そんな事を考えていた。汝の隣人を愛せよ。汝の隣人を愛せよ。
「お願い!」
突然、緑の声がした。私は慌てて、その声の方へ駆けた。
「お願い神父様。私を助けて!」
緑は床に座り込み、泣いていた。格子の向こうで、神父様は明らかに戸惑っていた。
「お願い。助けて。助けて・・・。」
私は緑を後ろから抱え込み、抱き上げた。緑は泣きながら、されるがままになった。私なんて見えていないみたいだった。
「緑。」
緑は泣いていた。
「緑、落ち着いて。」
「愛が・・・」
「愛が、私を殺そうとするの・・・」
緑の瞳から大粒の涙が溢れた。小さな爪が、腕の皮膚に食い込む。
「愛に、殺されちゃう。愛に殺されちゃうよ・・・。」
緑の叫びは、人気の無い教会に響いた。私はしばらく、緑を抱きしめていた。目の前には、真っ白な聖母が両腕を拡げて佇んでいた。
「帰るか。」
隆が口を開いた。
「そうね。煙草、吸いたいわ。」
「お前はすこし、吸い過ぎ。」
隆が言うので、思わず吹き出してしまう。
「んだよ。」
隆の照れた顔。
「ううん、何でも無い。」
「帰ろう。」
昨日の夕方。
窓から見えた、あの燃える様な夕焼け。あまりにも美しくて、私はしばらくの間、世界に見蕩れていた。緑があの日見た世界も、こんなに美しかったのだろうか。
「死ななきゃいけないって、そう思ったの。世界があまりにも美しかったから。」
緑の声が蘇った。
fin.
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