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ナイン・ストーリーズ Ⅱ ワールズ・エンド


ワールズ・エンド

 タケルはHANESのTシャツを着てソファに座り、TVショーを観ている。私はソファの橋に座り、TVショーを観ているタケルの細くてきれいな指先を見ている。HANES のTシャツは身体に良く馴染んで着心地がとても良い。タケルのTシャツは小柄の私には丁度良く、ワンピースみたいになる。タケルが空のグラスを持ったまま、席を立った。
 「あ!”うすはり”頂戴!」
 タケルは私を少しだけ見つめ、O・Kと呟いてキッチンへと向かった。
 シャラシャラシャラ。
 キッチンの入口にはお気に入りの映画の真似をして掛けたビーズの飾りが掛かっていて、キッチンに入る時にビーズが揺れて小気味の良い音がする。
 待ちきれなくなった私は、タケルを追って裸足のままキッチンへと出掛ける。まだ揺れているビーズを上手にくぐると、タケルは丁度、自分のグラスにグレープフルーツジュースを注ぎ足している所だった。   
 コカ・コーラのマークの付いたぶ厚く透明なグラスに大きな氷が5つ、きっちりと入っている。
 室温に触れて表面が白くなった氷一杯のグラス。ジュースを注ぐと、パキパキパキと小さな音がした。グラスはとても冷たいので、タケルの手の上に耳を当てて手のひら越しにその音を楽しむ。
 パキパキパキパキ。
 とても綺麗な音だったので、もう一回やってとタケルにせがむと、タケルはなみなみのグレープフルーツジュースをごくごくと一息に飲み干し、何でも無い顔で冷たいジュースで白くなったグラスにもう一度たっぷりと黄色いジュースを注いだ。
 角が少しだけまあるくなった氷は、今度はさっきよりも小さく遠慮がちに、ぱきぱきぱちんと音を立てた。音が消えるとタケルは何も言わずにジュースを飲み干し、少し屈んで私にキスをした。タケルの舌はとても冷たく酸っぱかった。目をゆっくりと閉じる。
 「ねぇ、”うすはり”、頂戴。」
 長いキスの後、甘えた声でせがむ。タケルの指はもう少しでベルトを外す所だったので、少し考える仕草の後で、やっぱり何も言わずに冷凍庫を開けた。ひんやりとした空気が顔を撫で、喉に入ってくる。沢山の、目に見えない氷の粒。
 タケルは私の胸元にキスをして、氷嚢機を取った。私は待ちきれずにうずうずしてしまう。
 タケルは両手を上手に捻って、大きい方の氷を一つ取り出した。美しい四角形の透明な塊の端に、薄い氷の膜が出来ている。タケルはその小さく密やかな膜を上手にパキンと折って、私に差し出す。
 「あ。」
 タケルの舌で冷えた舌を差し出す。タケルは薄い薄い氷の膜を、私の舌の上に優しく乗せてくれた。
 薄く脆く小さいそれは、私の舌の熱さで飴のようにすうっと溶ける。一瞬だけ冷たくなって、熱い様な感覚が走る。
 「ん。」
 私がもう一度舌を出すと、タケルは氷嚢機をもう一度器用に捻って氷嚢機の端に出来た膜を舌上に乗せてくれた。氷の膜は私の舌にぴったりとくっつく。きりり、と舌が痛む。口を閉じると、氷はくっついたままじんわりと溶けていく。私はとても幸せに、幸せになる。
 ”うすはり”は私の楽しみの一つだ。これを作るために私は毎朝早く起きて、大量に氷を作る。一つの氷嚢機に必ず溢れんばかりの水を注ぎ、氷が半分固まった頃(あるいは完全に固まった頃に)もう一度表面に水を注ぐ。多すぎても、少なすぎてもだめ。それをタケルが上手に捻ると、薄くて完璧な”うすはり”になる。握力の問題なのか、私が捻っても上手には出来ない。
 不意に大きな氷が一粒、口に投げ込まれた。驚いて吐き出そうとした時、熱いものが差し込まれた。苦しくて逃げようとするが、タケルの指が許さない。口内が酷く冷たい。氷は口いっぱいに収まり、私の舌や上あごの熱を奪っていく。冷たく苦しいのに、タケルの熱い指が口内を掻き乱す。冷たくて意地悪で熱い。息も出来ない。頭も、脳みそまで氷浸けにされてしまう。
 不意に、熱い指が氷を引き出す。
 「苦しかった?」
 舌がかじかんで何も喋れない私に、満足そうに微笑む。
 タケルの舌は、もう冷たくはなかった。
 カチャカチャと、ベルトの外れる音がする。耳元にタケルの息がかかった。・・・タケルの熱で溶けてしまえば良いのに、と私は思う。
 氷の私は、タケルの熱にとても弱い。
 「・・・溶けてる。」
 タケルの声が、した。

 シャワーを浴びた後、お天気なので久しぶりにキッチンで朝食を採ろうとタケルが言う。
 私たちの住んでいる部屋のキッチンはとても広く窓が幾つもあって、晴れた日には光が沢山入ってとても気持ちが良い。先の住人が作ったのか、流し台の上の小さな窓にはステンドグラスがはめ込まれており、日が当たると赤やピンクや青の光がダイニングテーブルや白い床や壁を染める。床は木組で出来ていて、越したばかりの時にタケルがペンキで白く塗ってくれた。
 ホウロウのポットで湯を沸かし、タケルの為に紅茶を淹れる。昨日作り置いておいたピクルスを保存瓶ごと取り出し、テーブルに置く。炭酸入りの水のペットボトルも。朝はこれが無いと身体が目を覚まさない。
 今朝届いたばかりの卵を10個ボウルに割入れる。ミルクと塩、胡椒、それから蜂蜜を少しだけ入れて、菜箸でかき混ぜる。ボウルの中で卵達は混ざり合い一つになり、やがて白っぽい液体になる。
 「朝食っていっても、ブランチなんだけどね。」
 一人ごち、コンロに火を付けてフライパンを温める。充分に温まったら、固形のバターを取り出し、フライパンに入れる。バターはゆっくりと溶け、甘い香りが部屋に満ちる。
 私は銀色の紙に包まれたバターが好きだ。宇宙みたいな銀色の感触と、包み紙を剥がした時に現れる乳白色のバターの美しさ。
 私は歌を歌う。ヘヴンズキッチン ヘヴンズキッチン OH,アイム、イン
 「ヘヴンズ・キッチン、だな。」
 この部屋を見た時、タケルが言った。私たちの、天国の台所。
 チーズ、明太子、茹でたマッシュルーム、小ねぎ、麩、ベーコン、鰹節、千切りしたポテト、茹でたササミ、コンカッセしたトマト、納豆・・・を小さなボウルにそれぞれ小分けして並べる。
 「タケル、どれにする?」
 カリフラワーのピクルスをつまみながら、新聞を読んでいたタケルがボウルを覗き込む。 「チーズと、ベーコンと・・・この黄色いのは何?」
 タケルの指差したボウルには、黄色い粉が山盛りに入っていた。
 「これは、ウコン。」
 「ウコン?」
 タケルが素っ頓狂な声を出す。
 「そう。毎日飲み過ぎの可哀想な二つのストマックに。」
 タケルが可笑しそうに笑い出す。
 「まずそう。」
 馬鹿みたいに、愛しい、笑顔。
 「じゃあ、チーズとベーコンと、ウコンね。ピクルス、もう少し頂戴。」
 タケルの手が私の頭を撫でる。私はたちまちに嬉しくなって、ウコンの粉末をたっぷりと卵に混ぜた。タケルの手。私たちの天国。
 Yes,I'm here.
 昔流行った歌を口ずさむ。
 
 ダイニングの小さなテレビで、私たちは   オムレツを食べながら古い映画を観ている。(私はチーズオムレツを2枚と、ネギと明太子を一枚。今はマッユルームのを食べている。タケルはチーズとベーコンを1枚と、ネギとお麩。今は明太子チーズに取掛かっている。(勿論すべてにウコンパウダーがたっぷり入っていて、まずいねとか、意外とうまいとか言いながら食べている。今はウコンと合う組み合わせを探しているみたいだ。)
 映画の中では長い髪の裸の女の人がバイクに跨がり荒野を走っている。風に揺れる、金色の長い髪。音声は消しているので、何枚もの絵を観ている様な気分になる。小さなCDデッキからサティが流れている。雨の日のサティは好きだけど、晴れた日のサティも悪くないなと思った。

 ふと見ると、廊下に並べられた色とりどりの長靴が目に入った。 
 「ねえ。もしも世界の終わりが来たら。」
 納豆ウコンオムレツを食べているタケルがこっちを見る。
 「そしたら、長靴をソテーして食べましょうね。」
 私は何を隠そう、ちょっとした長靴のコレクターなのだ。有名店の高級長靴から、商店街の小さな靴屋で見つけたビニールの長靴、真っ赤な物や柄もの、シンプルな物から派手なもの迄揃えており、廊下にずらっと並んでいる。
 「あの赤い長靴はトマト煮込みにするでしょ、あっちの緑色のはソテーしてキウイソースをかけて。あのブランドの長靴は衣を付けてフライにして、キャベツをたっぷり添えてウスターソースをたっぷりかけるの。奥から3番目のカラフルなのはシチューにするでしょ。それからあのアニマル柄のものは、香辛料をまぶして、パイにしましょう。良かったわね。私たち、これで世界が終わっても大丈夫だわ。」
 トッピングを全部混ぜたオムレツを頬張りながら、革靴の方がいいな。とタケルが呟いた。
 食後に私たちは紅茶を飲み、映画の続きを観た。汚れたチャレンジャーが猛スピードで駆けてゆく。ブルドーザーは彼らをどこまでも破壊してしまった。地獄の天使。国境。まっすぐに続く道。この映画はいつも、私を少しだけ悲しくさせる。
 
 猫たちの楽園について。私たちの住んでいる部屋から少し離れた公園の先に、使われていない寮がある。コンクリートで出来た二階建ての建物はL字型になっており、真ん中に広い広場がある。恐らく駐車場か何かの跡だと思うが、今では背の高い草や雑草が生い茂り、野良猫たちが沢山住み着いている。寮の門は閉まっており、頑丈な鎖と錠でぐるぐる巻きにされていて、立ち入る事は出来ない。
 猫達はとても平和そうに過ごしている。灰色の美しい猫。三毛猫。太った白い猫。薄いベージュの小さな子猫達。日の当たる草むらの中で、猫達は穏やかに生活をしており、彼らを見ると、私はとても幸せは気持ちになった。
 遅めの朝食の後、リヴィングのソファでもう一度セックスをしてから、私とタケルは散歩に出掛けた。オムレツを沢山作ったせいで冷蔵庫の牛乳が切れてしまったのだ。私たちは少し離れた場所にある、オーガニック食材の店に行くことにした。そこの牛乳は少し高いけれど格別に美味しい。
 手を繋いで、公園の角を曲がる。猫たちは今日も幸せに過ごしているだろうか。子猫は大きくなっただろうか。おちびちゃんたちはわんぱくで、こんな風に暖かい日には蝶々を追いかけたり、バッタを追いかけたりして遊んでいる。オーガニックのお店にキャットフードがあれば、買ってこよう。
 角を曲がる。真っ白いビニールの布に覆われた、門。
 幾つもの鉄組が敷地を覆い、そこには建物も草むらも無かった。工事中の看板と、一等地の大きなマンションの看板だけがある。猫達は一体どこへ行ったのだろうか。タケルの手をぎゅっと握った。
 都会はコンクリートに埋め尽くされて、息も出来ない。どこもかしこも、全部。ここには猫達の楽園さえ無いのだ。
 「大丈夫だよ。」
 タケルが言った。
 「本当?」
 「うん。ほんと。」
 タケルが言うと、全てが本当になる。
 「良かった。早く牛乳を買わなくちゃね。」
 タケルがいなければきっと、私は息の仕方さえも忘れてしまうかもしれない。

 「宇宙には、なにがあると思う?」
 夕食を食べながら、タケルに聞いた。
 タケルはソファに座って例のごとく、古い映画を観ている。今日の献立はビーフシチューで、生クリームの代わりにサワークリームをたっぷり添えた。
 電車で30分くらいの川沿いにあるカフェで買った厚めの黄色いお皿はタケルと二人で見つけたものだ。丁度セールをしていて、沢山買い込んだので、帰り道とても重かった。
 「星かな。あとは、ブラックホール。」
 「他には?宇宙人とか、火星人とか。」
 「火星人も宇宙人だよ。そうだな、あとは、時間。」
 サワークリームをかき混ぜながら、タケルが言った。
 「時間?」
 「うん。永遠。」
 永遠。あと、愛かな。タケルが言った。
 「これ、すげーウマいけど、ボルシチかストロガノフみたいだな。」
 もう少し頂戴とタケルが言うので、空のお皿を持って席を立つ。テレビの画面では生まれつきの殺人者たちが、コテージのベッドで抱き合っている。座ったまま抱き合って、男は人質の女を見ている。女の顔は恐怖で歪み、鼻水や涙でぐちゃぐちゃになる。  
 「ねえ、おいで。」
 タケルの声にはいつも敵わない。だから私はいつも、マロリーとおんなじだ。
 銃は警察官と刑務所を破壊し、二人は手を取り合って消える。私は、生まれつきの殺人鬼なの。聞こえない声で、真似をしてみる。

 夜中に目を覚ますと、タケルは後ろから私を抱きしめたまま、寝息を立てていた。
 私たちは裸で、私の中にはまだ、タケルが入っていた。タケルを起こさない様に慎重にゆっくりとタケルを抜くと、ぞくぞくと身体が震える。小さく声を立ててしまったけれど、タケルは起きなかった。私の身体はいつでもタケルを欲しがっているみたいだ。
 タケルの腕を解き、寒くないようにブランケットを掛け直す。タケルの髪を静かに撫でた後、もう一枚のブランケットを身体に巻いて、そっとベランダに出た。
 沢山の星が、きらめいている。まるで黒い絵の具にアラザンや粉々に割れた蛍光灯のかけらを散りばめたみたいだ。
 どうして?私は思う。世界はこんなにも美しいのに。
 カラカラと窓が空き、タケルが出て来た。   
 私は小さいので、ブランケットごとタケルの腕のなかにすっぽりと収まってしまう。
 「泣いてるの?」
 キスをするタケルが、気付く。
 気付かれない様に、でも、何も答えられずに頭を振る。声を出すと、タケルはすぐに気付いてしまう。例えばもう既に、気付かれているとしても。
 タケルの舌が、口の中を侵す。
 「・・・しょっぱい。」
 クスクスとタケルが笑い、愛おしさに苦しくなる。
 「大丈夫だよ。」
 タケルは私を頭ごと抱きしめてくれた。温かいタケルの体温。だいじょうぶ。私はしばらく、声をかみ殺したまま、泣いた。
 すげー綺麗な空。
 タケルがブランケットの向こうで呟いた。

 次の日は雨で、私は今、洗濯機を回している。ゼラニウムとカモミールの洗剤はあまり泡立たないけれど、とても良い香りがして、私を深く安心させてくれる。タケルのHANESのTシャツには、私の汗と、鼻水と涙と、二人の体液がべっとりと付いていた。
 タケルはリビングのソファに座り、TVショーを観ている。私はタケルの為に、カリフラワーのピクルスを作っている。廊下には最後の晩餐。世界の終わりの為に、今度は何色の長靴を買おうか。そしたら小麦粉をはたいてムニエルにしてしまおう。
 冷蔵庫には”うすはり”が入っている。
 「”うすはり”。頂戴!」
 ペプシのおかわりをしに席を立つタケルを呼び止める。タケルは少し間をあけてオーケーと言い、ビーズをしゃらしゃらと鳴らしてわたしたちのヘブンズキッチンへと向かった。
 

fin.


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