水汲みを終えて家に帰ろうとしたら、森の中で動く影が目に入った。男。4人。やつらだ。切り落とした木々を束にしている。懲りずにまた来やがって。
「おい!」
今汲んできた水を地面に置き、大声を出す。男たちがびくりと反応した。互いに指示を出し合い、木を担いで逃げようとする。
「待て!」
やつらは木々の中を素早く移動するのに慣れていない。すぐに統率が乱れ、ばらばらに逃げ出す。俺は男たちから目を離さず足元の石を拾い、一番多くの木を担いだ男に狙いを定めそれを投げた。石がまっすぐ飛んでいく。標的に向かってというよりは、木々の間の何もない空間に向かって。引き寄せられるようにそこに現れた男の左頬に、湿った土に覆われた石が命中した。
狩りと同じだ。腕を振り、石が手を離れる直前にはもう獲物に当たるかどうかわかっている。だから命中を予感した瞬間俺は走り出す。動きを鈍らせた相手を逃さないためだ。石が当たった衝撃で男の頭がぶるんと揺れ、男が体をよろめかせたその時、俺はすでに半分以上距離を詰めている。ふらついたまま逃げようとした男が足を滑らせて転ぶのと、俺が男に追いついたのが同時だ。先ほどの石を拾い、太腿に投げつけて男の動きを止める。
「こいつを殺す!」
俺はばらばらに散った他の3人にも聞こえるように声を張り上げた。森全体に意識を張り巡らせるように鋭く周囲に視線を送る。3人とも足を止めてこちらを見ていた。捕らえた男を踏みつける足に力を込める。
「ここは俺たちの森だ! 俺たちの川だ! 俺たちの土地だ! なぜ勝手に入る! なぜ奪う! この森の木々はお前たちのものじゃない! 勝手に切って持っていくなら俺は絶対に許さない! 俺だけじゃない、一族が許さない! 歴史が許さない!」
男たちに聞かせようとしたのはもちろんだが、これは彼らの背後に存在している漠然とした何か、俺たちの生活を脅かすことを正義と認める何かに対しての叫びでもあった。
俺たちは遥か昔からこの土地で暮らしてきた。自然と共存する生き方で、誰からも奪わずに。こうして一方的に侵入し、勝手に大切な木々に刃を入れ、奪い、逃げていくやつら。自然とは何か、命とは何か、それらは支配しようとすればあっという間になくなり二度と戻ってはこないという絶対の真理を理解せず、平気で踏み込んでくるやつら。そんなやつらのせいで俺はこうして戦わなければいけない。不要な戦いのためにこうして時間を使わなければいけない。それがどうしても許せなかった。
「木は全部置いていけ! 一本でも持っていけばこいつは殺す!」
張り上げた自分の声に、ごく小さな震えが混じっているのを感じた。いつまでこんなことを続けなければならないのか。この怒りは誰にぶつければいいのか。3人の男たちは俺の足元でうめく仲間を気にしながらも散り散りに逃げていった。
「二度と来るな! 次はない!」
俺は捕らえた男を力を込めて蹴りつけた。何度蹴ったとしても、どれだけ力一杯蹴ったとしても、それによってこいつが死んだとしても、この怒りを表現するのにはあまりにも足りない。俺は男たちが置いていった木々を拾いに向かった。やつらが現れてからほんの数分しか経っていないはずだが、どっと疲れていた。
*
暑くて夜中に目を覚ますのはよくあることだ。寝苦しい夜は、外の空気を吸いに出るのがいい。昼間とは別人の顔を見せる自然に包まれゆっくり深呼吸をすれば、徐々に自分が自然の中に溶け出していくのを感じて眠れるようになる。
しかし、今日は何かが違った。暑さの中に強い敵意を感じた気がして跳ね起きる。パチパチと音を立てながら、壁際で炎が揺らめいていた。
「母さん! 父さん! 起きろ! 家が燃えてる!」
母さんを抱えて家を飛び出す手順を考えながら、父さんの背中を蹴った。父さんが呻いて身じろぎする。父さんは俺が一番に尊敬する男だ、すぐに状況を理解して一人で逃げられるに違いない。飛びつくように母さんの肩を掴んで揺り起こす。俺が母さんを抱え上げたのとほぼ同時に、父さんも起き上がっていた。
「急げ! 早く外へ!」
目を覚まして言葉を失う母さんを抱え、俺は外に飛び出す。父さんもそれに続いた。
10分と経たないうちに、家はほぼ全焼した。あるだけの水はすべて使ったが、森に燃え広がらないよう食い止めるので精一杯だった。畑もすっかりだめになっていた。
火が消えてからもずっと、両親は焼け落ちた家を見つめていた。
俺は二人の顔を見ることができなかった。こうなったのは全部俺のせいだ。これは昼間のやつらの報復だ。俺が甘かった。やつらを生かして帰してはいけなかったんだ。どうして見逃してしまったんだろう。狩り用の毒矢を持っていたのだから、迷わず使うべきだった。報復などできないよう、殺しておくべきだった。次に見つけた時は絶対に許さない。必ず全員殺す。二度とこんな思いをしなくていいように。
「ウヌラス。こっちへ来なさい」
母さんが俺を呼んだ。顔を上げると、両親は優しい顔をしていた。
「ウヌラス。お前に全部背負わせてすまなかったね。これはお前のせいなんかじゃないよ。大丈夫。安心しなさい。私たちには味方がいる」
母さんはそう言うと、俺に向かって微笑んだ。
「味方なんて、みんな殺されたじゃないか! もうこの村には俺たちしかいない。勝手に木を切って持っていくやつらに、何もかも奪われた! そうだろ? あんなに頼もしかった村長だって、卑怯な武器で一撃で…」
「ウヌラス。この村にはたしかにもう誰も残っちゃいない。でも味方はちゃんといる。本当に困ったとき、絶対に助けてくれる味方がね」
母さんは懐から、手のひらより少し小さいくらいの四角い紙を取り出した。父さんに向かって「いいわね?」と言う。
「ああ。頼む。ウヌラス、これまでよく頑張ったな」
俺には二人が何を言っているのかわからなかった。問いただそうと口を開きかけた俺を制するように、母は取り出した紙を顔の前に掲げる。そしてそれを、一息に破いた。
*
「あー、これはひどい。全焼だね」
何者かの声で俺は目を覚ました。家がなくなってしまったため、俺たちは朝まで木にもたれて眠ることにしたのだ。両親は家の一番近くに立つ木のそばでまだ眠っている。俺は素早く立ち上がった。一瞬目線を落とし武器になりそうなものがないか探す。
「敵じゃない。味方。安心して。呼ばれて来た。ほら、君のお母さんに」
そいつは緊張しているのか、一文を短く区切って発声した。体型を予測しにくいふわりとした装束に、顔全体を覆う木の葉色の布。装いからして、こいつは明らかに俺の知らない場所からやってきた人間だ。
「何しに来た」
俺もつられて短く言った。
「何しにって…助けに。ニッポンって知ってる?」
「…いや」
「まあそうだよね。じゃあスシは?」
「知らない。それがなんだ」
「これなんだけど」
そいつは丸い容器を取り出した。蓋を開け、中身をこちらに見せてくる。食べ物なのだろうということはなんとなくわかった。やはり見たことはない。何種類もの光沢のある鮮やかな色が、綺麗に並べられている。そいつはそこに黒っぽい液体を垂らし、一つ摘んでこちらに寄越した。「食べて」と言う。
「世の中にはさ。いるじゃん。頭のおかしいやつが。戦ってきたんでしょ。君らもそいつらと。長いことさ。でも、頭のおかしいやつには二種類いる。君らが戦ってきたようなのが一つ。もう一つはわかる?」
俺が食べないでいると、そいつは差し出したものを自分で食べた。毒なんか入っちゃいない、安全だ、と顔で語り、もう一つ取ってまたこちらに寄越す。
「それはね、いいやつだよ。たとえばこのスシ。ニッポンって国の料理でさ、その国にはスシを出す店がたくさんあるんだ。数えきれないくらい。頭のおかしいやつはさ、スシ屋にもいてね。でもそいつは、いいやつだった。毎日ほんの少しずつ、自分が作ったスシを困ってるやつにあげてたんだ。近所の貧乏人にさ。でもそれじゃただのいいやつだ。そいつは頭のおかしい、いいやつなんだよ。それを世界中でやろうとした。世界中の、困ってるやつらに、スシを食わせようとしたんだ。変でしょ?」
俺はまだ食べなかった。害はないのだろうが、どうも食べる気にはならなかった。そいつはおどけたしかめ面で、また自分でそれを食べた。
「頭のおかしいスシ屋はその後驚くことになる。他にもいたんだ、自分みたいに頭のおかしいスシ屋がさ。しかもびっくりするくらいたくさんね。彼らは協力を始めた。ニッポン中のスシ屋が本気を出せばそれくらいできるに違いない、ってね。そして」
目の前の不思議な人間がスシを持ち上げた。そいつはそれをゆっくり角度を変えながら朝日にかざしていく。スシが光を反射してきらりと光った。
「こうして困ってる人に届くわけだ。まあ今のシステムにたどり着くには長い道のりがあったけどさ。遠い国の何千人という人が、今日この時も、君たちのために作ってるんだよ。こいつをさ。ほら、食べてみなって」
今度は俺は拒まなかった。今聞かされた話を理解したわけではない。ただ、なぜか食べるべきだと思ったのだ。
「うまい」
時間をかけて咀嚼しそれを飲み込んだ後、俺は言った。本音を言えば、よくわからない味だった。見た目からは味の予測がつかず恐る恐る食べたのだが、案の定経験したこともない味で、うまいのかどうかの判断がつかなかった。
俺が「魚に似た味だ」と言うと、そいつは喜んだ。顔を布で覆っているが、笑顔なのがわかる。俺はもう一つ取って食べ、「両親にもあげていいか?」と聞いた。
「もちろんだよ。君たちのために持って来たんだ。あ、そうだ」
そいつは何やらごそごそと自分の体を探り、一枚の紙切れを取り出した。昨日母さんが破ったものによく似ている。
「頭のおかしい我々はさ、これで目的達成なんだ。世界中の困ってる人に、スシを届ける。それができたらもうおしまい。君たちの家は焼け落ちたまま。燃えた木の実も野菜もそのまま。火をつけたやつらはまたやってくるかもしれない。でもそういうの全部放っておいて、そのまま帰るんだ。スシを食べてもらって、思いもよらないところに味方がいることを知ってもらって、ほんのちょっとでいいから希望を持ってもらう。一瞬でいいからホッとしてもらう。それだけでいいんだ。変でしょ? はい、これ」
そいつはその紙切れを俺に手渡した。
「いつか我々の仲間に加わるもよし、ピンチの時に破ってまた我々を呼ぶもよし。もちろん捨ててくれたって構わないし、丸めて誰かに投げつけたり、お尻を拭いたっていい。使い方は自由だよ。君のお母さんがずっと使わず取っておいたのは、もしかしたら君のためかもね」
その紙には、四隅に色がついているだけで、何も書いていなかった。仲間に加わるなどと言うから破る以外の使い方について何か書いてあるのかと思ったが、なんの手がかりもない。だが俺は、何も尋ねなかった。なんとなく、それがマナーだという気がした。
しばらくお互い何も言わないでいると、そいつは大きく伸びをして、「そろそろ行くよ」と言った。
「起こすのも悪いし、ご両親にはよろしく言っておいて。あ、さっきはああ言ったけど、この後のことも心配しなくていいよ。優秀なチームを手配しといたから。君たちはまた、これまでみたいに生活ができる。それじゃあね」
そいつはスシを置いてあっさりと去っていった。手元の紙切れを見る。今これを破ったら戻ってくるのだろうか。想像してみるが、もちろん破りはしない。
*
目を覚ました両親は、スシを見て目を潤ませた。大事そうに少しずつ食べ、「そうそう、こんな味だった」と頷き合う。どうして起こしてくれなかった、だの、ウヌラスもこっちへ来て食べなさい、だの次第にうるさくなっていく二人から距離をとり、先ほどのことをぼんやり思い出していると、森の中から複数の人間が現れた。
「敵ではありません。頼まれて来ました。ほら、国境なきスシ団に」
なんだそれ、と思うが、スシという言葉ですぐに先ほどのあいつのことだと気づく。
「家を燃やされたと聞いています。いろいろ手伝いをさせてほしい。本業ではないですがいろいろ知識はあります。きっと役に立てる」
警戒を解かず、「何者だ」と尋ねた俺を両親が制した。母さんが口を開く。
「よく来てくれました。ありがとう。本当に感謝しています」
「いえ、彼らの頼みとあればすぐにやって来ますよ。国境なきスシ団は我々の生みの親ですから」
やりとりが理解できず、俺は母さんに顔を向け無言で質問した。母さんは答えず、父さんが代わりにぼそっと「スシ団の下部組織の方たちだ」と言った。
「国境なきイシ団。我々はそう名乗っています。自分で言うのもなんですが、スシで世界を救おうとしてる変人たちを支える、ものすごく優秀な集団なんですよ」
わけがわからなかった。彼らは俺たちなどお構いなしに、手際良く家の残骸を片付け始める。数人は「伐採の進行状況を確認させてほしい」と言って森に入っていった。両親が完全に安心しきった顔をして彼らにすべて任せているため、俺はもやもやしながらも口を挟まず見守っていた。
「大丈夫よ。私たちにはスシ団がついてる」
俺の混乱を察知してか、彼らのうちの一人がこちらにやって来て言った。満面の笑みだ。俺もつられて笑ってしまう。
「スシ、あれはうまかった」
俺が言うと、周りにいたみんなが笑った。
「初めて食べた人はだいたい変な顔するわよ?」
温かい空気に包まれながら、俺は笑った。父さんも母さんも笑っていた。そこにいたみんなが笑っていた。家のあった場所を見る。切られた木々に思いを馳せる。どれだけ時間が経っても、この怒りが消えることはないだろう。だが怒っていても笑っていいのだ。今を楽しんでいいのだ。
「それでは聴いてください。スシの歌」
イシ団の内の一人がそう言って歌い出した。即興だ。ふざけた抑揚がついていて、みんな大笑いしている。俺もそれに合わせて歌った。母さんもこれに加わり、父さんは踊り出した。そのうち全員が作業の手を止め、思い思いに歌い、踊った。俺は心の底から笑った。頭を空っぽにして楽しんだ。俺たちが抱える問題はそう簡単には解決しないだろう。それでもなぜか、もう大丈夫だと思えた。
「スシ! スシ! スシ! スシ! 聞こえてるか、国境なきスシ団!」
俺は空に向かって叫んだ。雄大な自然と、そしてどこか遠くにいる心強い味方が、いつだって俺を見守ってくれている。
<おしまい>
いつもありがとうございます。いただいたサポートはすべて創作活動に投資します。運用報告はきちんとnoteにて公表。そしてまた皆さんに喜んでもらえるものを提供できるよう精進いたしますので、何卒よろしくお願いします。