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生きづらさの紐とき。やみくもに熱い想いはヤケドを負わせることだってあること。

熱い想いで人を元気づけたり、立ち直らせることは確かにできるよ。けれど僕は、そういうのは、もういいんじゃないかと思ってる。

前を向くのも立ち直るのも、気がつくのも元気になれるのも、全部その人のタイミングで訪れるのがベストなのだから。

支えたり、育てたり、寄り添ったり、そのためにできることというのは、そのひとが自分で前を向けたり気が付けたりする瞬間に、ただ近くにいて一緒に喜んであげられる、そのことでいいと思う。

「何もしないでいい」くらいでちょうどいいんだ。

こころが不安定になっている人は、自分で何がなんだかわからない。知らない間に、迷宮に放り込まれたようなもの。

まだまだ「そんなのは気持ちの問題」と言う人は多い。よくわかりもしないから、とりあえずそう言うんだよ。

「気持ちの問題だ」と言えば解決したようにいう人に言ってやりたい。
そのとおりだよ。気持ちの問題だから、それはたいへんなんだよ、と。

どうしたらその気持ちの問題を解決できると考えてるのか、教えてほしいもんだよ。

「ストレスだ」と言われたほうがまだ楽かもしれないけど、当事者というのは何がストレスかの自覚もないことが多いので、これも無限回廊になってしまうんだ。

鬱やパニックを患っているひとは、重度になるほど自分が何にストレスを受けていて、どんな事に反応して症状が出るのか自覚を持てない。

これは感情や感覚が鈍っているうえに、自分が「我慢して当たり前」と思っているものが原因になっている可能性があるからだと思う。

すると、周りから体調のことで励まされても諭されても、本人はまるで実感がない。誰の話をしてるのかという感覚になる。
自分で制御できない苦しさだけが続き、励まされるほど、いったい自分の何がいけないのかと余計に自責にかられる結果になってしまう。

気持ちを「アゲればいい」わけじゃない。多くの人は、気持ちの問題なんだから気持ちが高まれば、いろんなことが治るだろうと考える。

そもそも気持ちが弱る原因なんて、簡単に説明がつくわけがない。ものすごく単純だが根が深いことかもしれないし、あまりにも糸が絡まり過ぎて解けないほど複雑かもしれない。

それを周りが憶測で無理やり「アゲよう」とするのは、弱った心臓でいきなり全力ダッシュさせるってことだ。そしたらどうなるか、取り返しのつかないことになるかもしれない。

大丈夫とか元気出せとか、きっとやればできるとか、そういうことをやみくもに言うと。
今すぐにでも棄権したいと思っている選手が、それを言い出せなくなって、休んでいればまたチャレンジできたのに、選手生命を絶たれるまでがんばってしまうんだ。

僕は、ひとの想いとか愛情って残酷だと思う。

それがあたかも正義のようになって
誰も逆らえない、抗えないようにしてしまうときがある。

「熱い想い」や「熱血指導」はあっていいけど、それが効くのは、受け取る側が負けないくらい熱血で健康な場合だ。それを必要としている人は少ない。

多くの普通の人にとって、そのやり方は昔からただのハラスメントだったかもしれないよ?情熱があるから正義だなんて、そんなわけがないよ。

親や先生から、「熱い想い」を「本気」なんだぞ、と言われて、その価値観を浴びせられて、逆らえなくなってそれにずっと縛られてきた人たち、たくさんいるだろう?

「愛情」とか「想い」とか「情熱」とか、それは確かに尊いと思うよ。それは本当に思う。
ただそれが、みんなを振り向かせるために正しい方法で、特効薬だ、みたいな時代はもう過ぎたよ。

それは陰陽でいえば、あまりに陽のエネルギーが高すぎる状態だ。

太陽が熱すぎたら生命に害がある。

情熱を正義のように振り回せば、弱っている人、不安定な若い人や子どもが、こころに重症の火傷をおってしまうことがある、それは知っておいて欲しいな。

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