子育てハウツーとか、幼児教育とか。方法論を盲信すると目の前の自分の子どもまで見えなくなる。
こどもとつきあうのは普通にたいへんだ。
子どもと関わることは、とにかく楽しいけど、とにかくたいへん。
なぜ楽しいかというと、子どもたちはいつも「予想外」なことをするからだ。そしてなぜ大変かというと、これもやっぱり「予想外」なことをしでかすからである。
実はこの「予想」とは、大人のルール上の予想で、しかもこうなってほしいという理想まではいっている。
そもそも子どもはそのルールすら知らないのだから「予想外」なのは当たり前なのだ。
園や学校では保育・教育環境やオペレーションがあるし、接する側も仕事という意識でいられるけれど、これが自分の子育てとなると子育てメソッドもへったくれもない。
よっぽど胆力がないと、あっという間に我慢の限界が来て怒鳴りちらしてしまい、どうしてこうもうまくいかないのか?と自己嫌悪で親は迷走してしまう。
映えは幻想、わかっているのに理想を求めて苦しくなる
ファッション誌にはキラキラママがいるし、ハウツー本には自信をもって教育するママがいる。
SNSで「映え」るように見せてるのはわかっていても、写真に映るインテリアやイベントかというような日常風景に理想を抱いてしまう。
いつしかそれは辿り着けない幻想になり、楽しく知育したりオシャレに部屋を飾ったりが「できない自分」をつくり、追い込んでしまう。
子育てが思ったようにならない不安が募ると、自分のやり方が間違ってるんじゃないかと、いろんな子育てハウツーを調べる。
スマホで検索すれば、有益な情報はすぐ手に入り、いろんな工夫や子どもとの向き合い方を教えてくれるのだけど、それは親の求めている「子育ての理想系」には導いてくれない。もうすでに、理想でありたいということと、子育ての問題を解決することが乖離してしまっている。
どんなにハウツーを実践して、悩み事が解決していても、親が「理想」に目を向けている限り、まるで何にも解決していないように感じてしまう。
さらに、さまざまに意見の違う子育てハウツー、教育論が混在していて戸惑う。
けれど本来それこそが情報社会の1番のメリットで、ビュッフェのように好きなものを自分にあわせて選べば良いのだけど、何を選べばいいのかわからなくなり、さらなる混乱に陥っていく。
信念をもてないことが不安を生み、気づきがいつしか盲信に。
なぜこんなに理想にかられ、不安になり、調べれば調べるほどわからなくなるのか。
それは自分の中に「信念」を持てていないからだろう。
目の前の状態にとにかく苛々として、それはそもそも問題なのか?ではどう解決したいのか?と、本質的なところに目が向かず、子どもにも自分にも問えなくなっている。
そして自分の信念がないと、たまたま気づきや共感を与えてくれた対象にハマってしまう。
ハッとして気持ちが楽になり、この教育論や子育て論は絶対に間違いない、とますます考えることをやめてしまう。
それはもう共感というより盲信である。
同じ子育て方法にハマっていたとしても、一つの方法論で的を絞ってじっくり実践することと、盲信してそれしかやらないのは違う。
盲信すると他の意見が耳に入らなくなり、自分の頭で考ることができなくなる。
一番まずいのは実際に目の前にいるこどもを観察しなくなることだ。
溢れる情報の中にはそもそも正解は存在しない。
多くの人がどの情報が正解なのかを探して(そもそも正解なんてないのだけど)何を参考にどこまで信じれば良いのか自分では判断できないでいるようだ。
子育てや保育、教育について情報発信している人たちは大きく分けると「専門家による実務経験」と「親による子育て経験」に分けられると思う。
単純に僕の好みは「専門家による実務経験」が語る内容の方が好きだ。
園や学校や自身の教室など、いろんなタイプの子どもを見てきた人は、子どもの数だけ視点をもっている。子ども社会の中にある、本人のきもちと、言動行動など事実として起きている現象、必ずしも一致しない両側面から子どもを見ることができる。
カバーできる問題の幅がとても広いのだ。
では「親による子育て経験」はどうか。これは「子どもを〇〇に育てあげたママ」とか「〇〇学者はこうやって子育てする」のような個人の教育法ということになる。
やり方云々よりも、実際の子育てをベースにしているので共感しやすく、家庭でできる工夫など具体的に提示されている事が多い。そこから自分もやってみようというモチベーションが生まれる。
ただし個人の教育法というのはあくまでも一つの家庭の「体験談」であり、子育ての方法論として学術的に体系化したり効果を検証しているとは限らない。
ピタッとハマれば最高のバイブルになる可能性もあるけれど、あくまでも著者の子の話だということを理解したうえで、自分の子どもに押しつけてはいけないと思う。
「人の数だけ個性がある」のなら、できるだけたくさんの子どもの個性に触れている人の話のほうが役にたつだろうと考える一方で、とびきり個性をもった子の親の「見守り方」や「接し方」は同じ悩みを抱える親を助けられる突破力になり得るのでは、とも思う。
自分の感覚を信じないから痛み止め薬にはしる
あるひとつの情報だけを盲信すると、きもちは楽になっても視野はせまくなっており、自分の子どもまでみえなくなっていることがある。
特にわかりやすく切り取られた情報というのは、実践しやすく達成感を得やすい。自信が高まるのはいいけれど鵜呑みにしやすい情報とも言える。
有名な子育てや教育の方法論には「信念」がある。理念とか哲学ともいう。大切な信念があるから、それを守り実現するために工夫と実践をかさねて方法が体系化される。これを実践することで、その中にある信念を理解するのだ。
信念と方法までがしっかりと繋がっている。
だから安易なハウツーは悪い、ということではないけれど、現代のネットや書店に溢れているハウツー情報は、「信念」から「方法」を切り離してしまい寄せ集めたものが多いのだ。
これではまるで痛みの原因は治療せずに痛み止を処方しているだけのようになってしまう。
信念とは自分の判断を信じるから生まれる。
子育てが楽になる方法がいくら身についても、それで自分の子育てに納得できたり、自分の子育てはこうやるんだ、という信念がうまれてこない限りはずっと芯がなくて気持ちがフラフラしてしまう。
信念は吹っ切れて芽生える
信念とはそんなにむずかしいことじゃない。「そうだもうこれで良いんだ」と吹っ切れたり、諦めたりすることでもある。判断ができるようになれば、そこには信念がある。
子育てに自信がない、子どものことがわからないと思うことはもちろんあるけれど、自己嫌悪して動けないのは本末転倒だとおもう。
だって、自分のことを一番知っているのは自分だし、自分の子どものことを一番知っているのは親なのだから。
その組み合わせが、この世の中に1組しかいないのだから、自分たち親子の正解はどんな本にも書かれているわけがない、それが当たり前。
そうすると結局、最適な答えも自分たちで見つけていくしか仕方がない。
そう割り切れることこそ、自分の子育て論に信念をもつ一歩目なのだと思う。
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