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視点を変えよう。そもそも支援教育の中の一部分が今の「通常教育」なのだ。

みなさん、どうイメージするかためしてみてほしいな。

「療育」とか「特別支援教育」などの個別に特化した支援教育がある。
その人その人に合わせて発達や教育を促す物だというのは、だいたいみなさん知っていると思う。
いわゆる個性が強い子や障がいのある子のための教育、とされているものだ。

では、この個別に特化した支援教育と、一般的に通常の学校で行われる教育は、
どちらがどちらを内包しているか。
どちらが主でどちらが副か。
どちらが上位概念でどちらが下位概念か。

「通常教育」というおおきな括りの内側に「個別に特化した教育」が含まれているように、僕らは捉えがちなのではないかと思う。
一般が主で個別が副。
一般が上位概念で、個別が下位概念。

「個々の特性に合わせて」という支援のための本質がなんとなく「何かの一部分」であることを、イメージさせてしまうんじゃないかとおもうんだけど、

この関係性で教育を捉えているから、いつまでたっても教育にやわらかさが出てこないのだと思う。

「みんなでできる授業」というようなインクルーシブな環境の教育があれば、その中には、発達や感覚において個性的な子、障がいを持った子、いわゆる普通の子みんなが含まれるのだから、
療育や特別支援においておこなわれる教育方法や教育環境のほうが上位概念にあると考えられる。

そして、そのなかに母数が多い平均的な発達の子にあわせて効率よく教育する「通常教育」というものが一部分としてあるのだ。

個々の特性をデータ化していけば、当然平均がうまれて母数も大きくなり、「普通」となるのは当たり前なんだけど、いつのまにかそれが「基準」に変わって正しさを持ってしまい、個で見た場合にそこからはみ出す子が「特別」だと思われてしまう。

はみ出してくる子だけを支援する方が効率は良いが、平均ばかりを教育している先生は、先生自身もそこからはみ出せなくなってしまう。

個別支援の現場では、個々の特性を見極めて、それぞれに合わせた配慮や方法をとるのだから、いろんな経験や知見が必要で、思わぬ専門外の知識が役に立つ事も多いのだ。

そういう意味で柔軟でやわらかい、教育そのものがトライ&エラーを繰り返すようにできている。

だから支援教育というのが、たった1人に特化したせまい一部分の教育に見えるけれど、個の特性を網羅して計画する教育だと考えれば、学校の通常教育こそ非常に限定的なのだ。

ただ僕は、データ化することや平均値を出すこと、そしてそれをシステム化するノウハウの方に興味がある。それがまた別のかたちで支援の現場に還元できるはずだからだ。
そのシステムを支援の現場に応用するにあたって、いまさらだけど教育がもっと「やわらかく」なればいいのにと思う。

そう、ぼくの授業のように、ゆるくてまるで緊張感のない感じが文科省から推奨されたら、僕が講座の前におなかが痛くなる事もないのに。

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