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短編小説 耳栓 ② (1448文字)


ドアを開けると、小刻みに震える右手に包丁を持ちキラっと光る刃先を私に向けた中年の男が立っていました。
「うるせーんだよ、うるさくて頭が変になる、静かにしろ、殺すぞ」
男が怒鳴りました。
私は咄嗟に、ドアを小さく締めてドアチェーンを掛けました。
「どなたですか、引っ越しで荷物も来てないんです、音のする物なんてありません」
私自身もびっくりする位強気で返しました。
中年男は、相手が若い女性だった事が以外だったのか、声のトーンが下がり
「下の部屋の沢田だ。うるせえんだよ、ニワトリを飼っているだろう、ニワトリと足音が、うるせえんだよ」
私は、分けが分からず、兎に角ドアを閉めなきゃと思って、全身の力を両手に集中して、何とかドアを閉め、ドアノブの鍵を閉めました。
そして、泣きながら叫びました。
「帰ってください、静かにしますから、お願い、帰って」
中年男は泣き叫ぶ女の声にたじろいだのか
「静かにしろよ、俺を苦しめんな、分かったな」
少し間をおいて、階段を下りていく足音がしました。
私は、震えの止まらない足から力が抜け玄関にへたり込んでしまいました。
怖くて、怖くて涙が止まりませんでした。
その夜、私は決死の思いでスーツケースを抱えて、細心の注意をはらい
音を出さないようにして、アパートを抜け出しビジネスホテルに泊まりました。不動産屋には、事の次第をメールしました。心配をかけたくなかったので実家には知らせませんでした。結局眠れぬ夜を過ごし、朝一で不動産屋に行きました、すると既に事情を知っている不動産屋の社長が私を待っていました。
「申し訳なかったね、話しをつけに行きましょう」
社長は解約の話をしに来た私の話も聞かず、私は車に乗せられ沢田の部屋に向かったのです。車中での社長の一方的話を訊いていると、どうも今回の様な事は何回かあったようです。アパートの部屋の前に着くと
社長は、ドアが壊れる程強く叩いて、
「駅前の伊藤不動産だ、沢田、開けろ」
と、怒鳴りました。すーとドアは開き、中年の小男が顔を出しました。
私が前夜イメージした顔とは、ぜんぜん違い弱っちい感じがしました。
社長が暗い部屋に入り私を呼び寄せました。
薄暗い部屋に入ると、壁と言う壁にウレタンの様な防音シートが張り付けてありました、床にも緩衝材の様な柔らかいシートが全面に引いてありました。居間にあるテーブルには、大型のヘッドホーンが二つあり、灰皿には吸い殻の山、よく見ると、豆撒きでもしたのか、パチンコ球位の大豆の様な物が、テーブルの上、床全体に飛び散っていました。低いソファにドカッと座った社長は、
沢田を睨み
「さあ、説明してもらおう、この人が、うるさくしたのか、何で包丁で脅したんだ」
社長の迫力の前に、沢田は小さく下を向きながら、
「聞こえたんです、ニワトリの音と足音が、頭がガンガンするするんです、耳栓をいくらしても、どの耳栓でもダメなんです」
私は、ハッとしました、大豆の様な丸い物は、全部耳栓なのです、社長が暗い部屋の電気を点けると、床一面赤、青、緑、黄色、カラフルな、素材の違う耳栓だらけなのです。
沢田は小声になり「確かに頭が割れる位、聴こえました。ゴメンナサイ」
私は戦慄を覚えました。沢田には確実に間違いなく聞こえていたのです。
ゾッとしました。早くこの異常な世界から逃れたいと思いました。
結局、沢田は謝り、謝罪文を書きました。私は社長の勧めで駅と反対方向のアパートを借りる事に成りました。今度は一階にしました。しかしこの時私は心に重大なキズを負っている事に気付いていませんでした。
続く。















音は自分に聴こえる程度で、でした。








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