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言葉への歩み寄り

2024.1.4
鎌倉に向かう電車の途中で思い立って、文字を書き始めてる。

思考の排水、思考の軌跡観測、自己理解、自分のことを知ってもらう手助けにもなるんじゃないかなんていう下心。

動機を分析したら色々出てきそうだけど、あえてここはこれ以上は言葉にせずに、やってみたい直感に従って文字を書いてみる。
その方が書ける気がする。面白い気がする。

考えてみれば、これも自分の行動パターンのひとつかもしれない。
行動する時は直感に従ってみる。その理由はなんとなく感じながらも言葉にしすぎないようにする。やってみたくなった気持ちを大事にしてみる。

そういう自分は嫌いじゃない。
けど、
言葉を扱ってみようと思って書き出したのに、早速言葉にしないことを選択してる自分を見つけてしまっている。

なんで言葉にしたいと思ったのか。
なんで言葉にしたくないのか。

そもそも、言葉は万能ではないし、表現しようとするこの世界も言葉で表現しきれるほど単純じゃない。

私たちが認知しようがしまいが、この世界で起きていること。
私たちが知覚していること。
自分たちが知覚すらしない些細な刺激や感覚。
それらと言葉で出力されることの間には大きな大きな差がある。

言葉にするということは、
世界にあふれる現象を、
人間の限りある感覚器で切り取って、
脳がさらに編集し、
自分の意図や解釈も加えて、
自分の持つボキャブラリーから言葉を選び出し、
さらにそれを場に配慮した形に編集し、発せられる。

そうして発せられた言葉は、何を、どれだけ表現しているのだろうか。

それでも言葉にすることに迫られて、限りなく丁寧に言葉を選んでみても、自分自信ですら、自分の言葉に暗示をかけられ、わかった気になる。

言葉は、現象を切り分けて整理する力強い味方ではあるけれど、時に無自覚に現象をまとめ上げ、人を盲目にさせる。

それは自分への理解においても同様に起こり続け、自分が自分の言葉に操られる。

自分の選択の訳を言葉で語りすぎないようにしているのは、自分を理解した気になって、可能性を限定するのを避けているのかもしれない。
本当に言葉が器用な人はそんなことはしないのかもしれないが、少なくとも言葉に器用とは言えない私にとって、言葉を使うということは、世界と私をミスリードする危険が伴う。

私がどんなに言葉に丁寧になろうとも、言葉は嘘をつく。

だから言葉が嫌いだった。

そうだ、そういえば、言葉が嫌いだった。

言葉は目の前にあるものを、まとめ上げ、さらっていく。
しかも、ものすごい力でさらっていく。

その力強さに人が動かされ、世界が作られている。
それはもう、否定しようのない頼もしさを見てきた。

本当は、言葉なんか捨て去って、美しい世界にだけ身を置いて、
その美しさに見惚れ続けながら、ただただ浸かっていたかった。

けど、そんな自分の気持ちとは関係なしに、否応なく言葉が世界をまとめ上げ、作っていく。

言葉への不信感が無くなった訳じゃない。お前が嘘つきなことは忘れない。
けど、もうお前に使われるつもりもない。
乱暴で頼り甲斐のあるお前はほぼジャイアン。

でもだからこそ、いつか言葉を味方につけたら、この混沌とした、豊かな世界を、もっと自由に遊べる気がする。もっと世界に見惚れていたい。

仲良くしよう、とまでは言わないし、今更どれだけ仲良くなれるかなんてわかんないけど、少なくとも今なら、もう少しくらいは、上手く付き合える気がする。

だから、もう少し、歩み寄ってみる。
言葉との都合の良い関係を目指してみる。

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