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雨の日に会いましょう


6月に死のうと決めた。


高校生の母は、持病のため修学旅行で鳥取砂丘に行けず、誰もいないフロアの、誰もいない教室で1人自習をしていたという。
うつ病になって一年目だったか。母がそう語るのを、私は布団の中で聞いていた。

その時から、ずっと、母に鳥取砂丘を見せてあげることが夢だった。叶うかも分からない夢。明日自殺をしないなんて、どんなことをしても約束できない私。
しかし、ビー玉越しに見る世界のような、曖昧な境界線で作られたその夢は、私の中の心地の良い場所へ落ちていった。私は、厳酷な日々を生き抜くなかで、いつか、いつか必ずこれを叶えようという、小さな宝物を抱えていた。


去年の3月、母の膝が悪くなった。
12月には、父の足も悪くなった。ゆっくりとしか歩けなくなった。

期限が迫っていると思った。両親の命の期限が、ゆっくりと、しかし確実に。
二人の老いを、受け入れられなかった。今もそうだ。
特に、父は仕事が忙しく、朝方までパソコンに向かっていることや、そのまま徹夜をして過ごすことも多くある。それがどれだけ父の体に負担を与えているのか。いつ事故や病気へと繋がるのか。

テレビから流れてくる、母と同い年の著名人の訃報が、追い打ちをかける。


恐れていた「いつか」が、迫ってくる。


耐えられなかった。なんとしても、約束を果たしたいと思った。

両親の足がまだ動くうちに。
体力のあるうちに。
遠出ができるうちに。
飲む薬の少ないうちに。
景色を楽しめるうちに。
会話ができるうちに。
美味しい食事を食べられるうちに。


そうして今年の一月、半ば押し切るような形で、旅行会社へ出向く予定を入れた。


それから二ヶ月経った今。
日程と予算を組み、泊まる宿を決め、着々と両親の旅行の準備が進んでいる。


両親の喜ぶ顔が見たい。父には、誕生日にみんなでプレゼントしたカメラで、たくさん写真を撮ってほしい。
二人が帰ってきたら、その写真を見ながら、山ほどのお土産話を聞きたい。何を食べたか、温泉はどうだったか、旅先のハプニング、どんな小さなことでも、教えてほしい。


そうやって、私の宝物が、私の手から離れたら。みんなのものになったら。
私の夢が叶ったら。
少しでも、みんなにお金を遺せたら。

もう、私は必要ないよね。



父と母が死ぬことが恐ろしい。二人のいない世界で生きていくことができない。
うつ病が治らない。これを書いている今だって、重い希死念慮に襲われている。兄妹の前では、「死にたい」と言えない。話せない。


両親が死んだら?

高卒、一年分しかない職歴、精神疾患持ち。
そんな人間を、どこの会社が雇おうとする?仮に運良く就職できたとして、まともな仕事をさせてもらえるのか?すぐにうつが再発するんじゃないか?


あなたはとても優しい人ね。昔からそう言われてきた。
思いやりがなければ叱られた。与え続けなければ、認めてもらえなかった。


社会に出て知った。
優しさなんてものは、あってもなんの感謝もされず、誰かにとって都合の良い人になる原因にしかならないことを。
そばにあるティッシュで鼻をかみ、それをゴミ箱に投げるように、人が懸命に差し出したものを、いとも簡単に消費する人がいることを。
他人のことを、自覚も無しに扱き下ろし、まるで自分とは違う生き物のように扱う人がいることを。
自分へ向けられる本当の言葉は、瞳が言うということを。
優しさや真面目さ、努力だけでは、決して縮まらない格差があることを。

社会はきっと、私を必要としていない。
私もきっと、この社会では生きていけない。


だから、私の夢が叶ったら、私の役目を果たしたら、終わりにしようと思う。


結局は、社会や家族から逃げたいだけ。そんなことは分かっている。
分かっていても、立ち向かえない。
私は私になんの期待もしていないから。なんの可能性も感じていないから。私は私を諦めているから。


もう戦えない。私は自分が思っているより、ずっと弱かった。
逃げることを許してほしい。責めないでほしい。
どんなに励まされても、どんなに頑張れと言われても、もう私には、できない。


プールの授業終わり、髪の毛に染みついた、塩素の香り。喉を潤していく、キンキンに冷えた麦茶。蚊取り線香の煙。茹で上がった素麺。あの日の川遊び。最後に残った線香花火。蚊に食われたところに、爪でつけたバツ印。冷房の効いた部屋で食べるアイス。遊び疲れて、父に背負われて帰った夕方。先輩たちと行ったひまわり畑。祖父母の家に泊まって進めた、算数のドリル。あの厚い扉の向こうの、二度と掴めない細い肩。


すべてを置いて、私はいくよ。

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