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【連作短編】先輩ちゃんと後輩君 その1

第1話 先輩ちゃんはとろとろハンバーグがどうしても食べたい

 西向きの窓が夕陽で赤く燃える。大学で出されたレポート問題は、まだ終わらない。目の邪魔になるのか。高田 春人たかだ はるとは椅子から立ち上がり、手早くカーテンを閉めた。集中が途切れた合間に机上の時計を見やる。午後六時を少し回っていた。
「……急がないと」
 壁の照明のスイッチを入れると改めてレポートに向かう。大学の図書館で借りた参考資料の内容と何度か照らし合わせて、ようやく結論を書き上げた。そこで気を抜かず、目は序論に戻って通しで読み込む。二箇所の誤字を修正すると顔を上げた。椅子の背もたれに上体を預けて、疲れた、と虚脱した姿で呟いた。
 軽やかな音でチャイムが鳴った。机上の時計は七時半を示している。常識の範疇の時間帯ではあった。が、春人は静かに瞼を閉じる。その対応を予想していたかのようにチャイムが鳴り続ける。三三七拍子を耳にして不覚にも笑ってしまった。
「わかりましたよ」
 春人はゆらりと立ち上がる。通り過ぎる前に電気炊飯器をちらりと見た。
 玄関の靴を踏み台にして無言でドアを開ける。
「私だ」
 黒のリクルートスーツを着た青山 陽葵あおやま ひなたが素早く腰に両手を当てる。どんぐりまなこを細めて満面の笑みを浮かべた。
 春人は背筋を伸ばして左右に目をやった。
「おかしいな。誰もいない」
「そこまで小っちゃくないわ!」
「そうですね。今日はなんの用ですか」
「よくぞ聞いてくれた。社会人一年目で多忙を極める私が後輩君のために『生活環境抜き打ちチェック』にわざわざ来てあげたのだよ」
 頬っぺたをほんのりと染めて言い切った。
「そのチェック、三日前にもしましたよね」
「したな。親子丼が美味だった。赤だしの味噌汁が意外と合うことに気がついた」
「それは良かったですね。あがりますか?」
「もちろんだ。『生活環境抜き打ちチェック』だからな。まずは冷蔵庫の中身を確認しないと」
 溢れる食欲を全く隠そうとしない。春人は遠い眼差しで部屋に通した。
 宣言通り、陽葵はキッチン横に据えられた冷蔵庫へ大股で向かった。遠慮なく開けると吟味するような目で物色を始める。
 春人は机の上で開きっ放しになっていた本を閉じた。完成したレポートは机の上段の引き出しに収める。
「まだリクルートスーツなのですね」
「そうだ。これ一着しか買っていない。一人暮らしだから倹約《けんやく》しないと。卵はあるな。これは牛と豚の合い挽きミンチか。なかなかやるな」
「私服を利用したオフィスカジュアルなら、簡単に増やせますよ」
「……確かに増やせるが、肝心のキャベツがないぞ。ロールキャベツは断腸の思いで諦めるしかないな」
 耳から入った情報は漏れなく、食欲によって上書きされるようだった。
 理解した春人は濡れティッシュで座卓の上を黙々と拭いた。二人分のクッションを向かい合うように添える。床に落ちていたテレビのリモコンは拾い上げて綺麗になった隅に置く。
「後輩君、決まったぞ。今日は料理の腕前を重点的にチェックする」
「三日前に親子丼を作りましたが」
「一品や二品では十分と言えない。人間が一日に必要とする栄養素は多い。満遍なく摂取することは非常に難しい。だからと言ってビタミン剤に頼れば消化器官が弱まる。噛むという行為も大切だ。脳の血流を良くして能力の向上が望めるからな」
 握り拳を震わせて力説する。
「なにを作ればいいですか」
 長引きそうな話をやんわりと断ち切る。気付いていない陽葵は笑顔で言った。
「ハンバーグだ」
「わかりました。中にナチュラルチーズを入れますか」
「定番ではそうなるが、私の今日の胃袋は納得していない。卵を使う」
「ファミレスのメニューにもありますね。ゆで卵を丸ごと入れたハンバーグが」
 その反応に陽葵はニヤリと笑う。立てた人差し指をゆっくりと左右に揺らした。
「もしかしてハンバーグの上に置いた、目玉焼きハンバーグですか?」
「後輩君、どれもはずれだ。私の希望は卵黄だけを中に仕込んだ、そうだな。名を付けるとするなら『とろとろハンバーグ』なのだよ」
「さらりと凄いことを言い出しましたね」
「後輩君から見たら私は偉大で巨大な存在だからな」
「あれ、声がしたのに。どこに行ったのだろう」
 春人はキョロキョロと周囲を見回す。
「だから、そんなに小っちゃくないよ!」
「冗談です。先輩ちゃんは座ってテレビでも観ていてください」
「わかった。季節限定のビールを貰うぞ。あとコップもいる。泡が美味いからな」
 気を良くした陽葵はビール缶とコップを持ってクッションに座る。リモコンを操作して音楽番組にチャンネルを合わせた。
 春人は横目で陽葵を眺める。
「……先輩ちゃんの呼称は?」
 どこか腑に落ちない様子で料理に取り掛かった。

 完成したハンバーグの見た目は上々と言える。フライパンを駆使した焦げ目が香ばしい。形は綺麗な楕円でふっくらと仕上がった。春人は手早く平皿に盛り付けてモヤシを添える。ティーカップには野菜スープを注ぎ、電気炊飯器の早炊き機能で炊き上げたご飯を茶碗によそう。
 実家から持ってきたお盆に二人分の料理を載せて座卓に運んだ。
「完成しました」
「意外と早いな。まだ三缶しか飲んでないぞ」
「要するに冷蔵庫のビールを全て飲んでしまったと」
「そうなるのか」
 陽葵はコップに目を落とす。半分ほど、ビールが残っている。上目遣いで春人に笑い掛けて、そっと前に押し出した。
「少し温いが、どうだ?」
「遠慮しておきます」
 一言で座卓に料理を並べた。陽葵は一気に飲み干して平皿のハンバーグに顔を近づける。
「見た目は普通のハンバーグだな。味付けは醤油ベースか。香辛料は黒コショウで、かなり香りが良いな」
「ミル付きの物を選んでみました」
「あの手首を回す行為はそれだったか。添え物のモヤシにも当然、一工夫があるのだろう」
 期待感を込めた目が春人に注がれる。
「ナムルを意識して味付けしました。そこに少々の酢を加え、和風に寄せています。先輩ちゃんはナイフとフォークで食べますか?」
「そのつもりだ。後輩君は箸か」
「愛用の塗り箸が手にしっくりくるので」
 二人は向き合い、いただきます、と声を揃えた。
 陽葵は早速、ハンバーグの中央にナイフを当てた。目にした春人が一声かける。
「端の方でも大丈夫ですよ」
「どういうことだ? 一つの卵黄を真ん中に埋め込んで焼いたのではないのか」
「違います。三つの卵の卵黄を掻き混ぜて使っています。ちなみに白身はメレンゲにして生地に練り込みました」
「液体の状態なのか? どうやって中に仕込むんだ」
 ハンバーグに当てたナイフを引っ込めた。興味は調理の方法に移った。
「生地の整形を変えてみました。中央に楕円の窪みを作って焼きます」
「その段階では溶き卵を入れないのだな」
「そうです。あと中央に窪みを作ることで中の焼け具合が目でわかります」
「焼く時間の短縮にも繋がりそうだ」
 納得した直後、先を急ぐように言葉を続ける。
「そのあとはどうなるんだ」
「窪みの赤みがなくなった頃合いで溶き卵を注ぎ入れます。その上から薄く整形した生地を重ね、全体に馴染ませたあとで日本酒を掛けてフライパンに蓋をします」
「蒸し焼きか! 表面の色が変わるまで焼いて裏返しにするのだな」
「その通りです。そろそろ食べませんか? 中の黄身が余熱で固まってしまうかもしれませんよ」
「それは一大事だ」
 陽葵は前のめりの姿でハンバーグの端にナイフを入れる。三回、前後に動かして切り分けた。切れ目からとろりとした黄身が漏れ出ると、ほああぁ、と愛らしい珍獣のような声を上げた。
 フォークで切り分けた肉を荒々しく突き刺し、急いで黄身に塗りたくる。艶やかな黄色をまとったものを一口にした。数回の咀嚼そしゃくで笑みが零れる。春人の視線に気付くと素早く親指を立てた。足りないとばかりに人差し指を膨らんだ頬へ、ぐりぐりと押し付ける。
「グッドサインにボーノですか」
 何度も頷いて陽葵はハンバーグを頬張る。茶碗のご飯をフォークで掻っ込み、口直しにモヤシを口に押し込む。
 春人は微笑みを浮かべながら箸でハンバーグを切り分ける。溢れた黄身に肉を塗して少量で楽しむ。残りが半分になるとモヤシを混ぜて口に運んだ。
 陽葵は長々と息を吐いた。平皿と茶碗は空となり、最後の一品の野菜スープをゆっくりと味わう。
「この締めの野菜スープが胃に優しいな。四角く切ったニンジンはクルトンに見立てているのか」
「そうです。味はコンソメと鶏ガラの顆粒をベースにして作りました」
「味の配分がいいな。野菜のほんのりした甘さも感じる。合格だ」
「ほっとしました」
「抜き打ちチェックとは言え、一食を提供された身。褒美として後輩君が望むものを与えようではないか」
 目に力を込めて顔を近づける。春人は柔らかい笑みを返す。
「ありません」
「いや、あるだろう。考える時間はあるぞ」
「食器を洗いますか?」
「そんな子供のお手伝いじゃないんだから、他にもあるよね? 女っ気のない生活をしていたら思い付くんじゃないか? そう、例えばだぞ。この私の胸を見たいとか」
 僅かな恥じらいを見せながらも胸を張る。低い身長に反して程々の大きさを有していた。
 春人は一瞥いちべつしてにこやかに言った。
「前に見たので今はいいです」
「そうか、やっぱ、ウソ!? いつの話だよ!」
「覚えていませんか? 先輩ちゃんの卒業間際、立ち寄った居酒屋の話です」
「そんなこともあったような……それで私はどうした?」
 泳ぐ目で耳を傾ける。
「その時、先輩ちゃんは珍しく日本酒を呑んでいました。一時間くらいが過ぎた頃、身体が熱くなったことを理由に自分からブラウスを捲り上げて、その時に」
「いくら私でも、それは考えられない。作り話をして、からかっているのだな。悪い後輩君だ」
「右胸の下側に小さなホクロがありました」
 その一言が決め手となった。陽葵は突っ伏して、最悪だ、と呟いた。
「片付けますね」
 春人は空になった食器をお盆に載せてキッチンへと運んだ。シンクに入れて軽く水を掛けている最中、陽葵に目を向ける。
「一つ、望むものがありました。今から見て貰えますか」
「まさか、そちらも……どうしてもと言うのなら、私は拒まないからな。後輩君の想いをしっかりと受け止めよう」
「助かります」
 陽葵は背筋を伸ばして正座となった。唇を湿らせるようにして春人の動きを目で追い掛ける。
「このレポートの出来を見て貰えますか」
「そっちかよ!」
「はい?」
 小首を傾げる春人を他所に陽葵は力尽きたように再び座卓に突っ伏した。

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