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人生に文学があってよかった

先日、無事口頭試問が終わり、大学の全ての講義が終わりました。

卒論を書き始めた頃は、終わりが見えず、いつ解放されるんだろうという辛さの方が勝っていました。
しかし、いざ口頭試問が終わり、卒論に関係することはもう終わりになってしまうと、想像以上の寂しさに襲われてしまいました。達成感よりも寂しさ。

私は文学専攻で、以前少し書いたことがありますが、世間からは「無駄」とされている学問に、4年間浸っていました。

大学か大学院に入り直すぞ!とでもならない限り、卒業後に仕事に関係するような資格の勉強等ではない「学問」に触れることは、ほぼできないと思っています。お金のため、生きていくためではなく、何の心配をするでもなく、ただ関心があることに没頭できる。そんな幸せな時間が、死ぬまで訪れないかもしれないという、歪んだ想像力が虚無感を連れてきました。

私の卒論

私が卒論で取り上げた作品は、某リベラル・ヒューマニストのイギリス人男性作家の処女長編小説です。(あえてタイトルは言いません)
20世紀初頭のイタリアを舞台に、イギリス中産階級の人々とイタリア人青年の交流を描いた作品です。異なる価値観の衝突をテーマにした作品が多い作家で、私はこの作品において登場人物がどのように他者を理解しようとし、関係を築いているかを分析しました。

私はこの作品の中で、かなり思い入れのある登場人物がいます。
その人は、イギリス中産階級の物静かで奉仕活動に励む平凡な女性です。彼女は物語の途中から中心人物になっていくのですが、彼女の存在は作品のテーマにおいて重要な役割を果たします。
彼女は、因習的なイギリス中産階級の人々の価値観に嫌気がさし、イタリアに旅に出ます。体裁を取り繕うばかりの地元の人々の生き方を「死んだような人生」と批判します。
そして、近所に住む自由奔放な一人の年上の女性の生き方に影響を受け、「自分自身に誠実に生きる」ことを切望し、感情を重視した生き方を志します。
しかし、現実はそう優しくありません。社会の常識や規範の壁は厚く、自分の感情よりも体裁を重視する価値観の方が、結局は勝つのだと思い知るのです。
現実と理想の間で葛藤を繰り返しながら、彼女は変化していきます。最終的に彼女はイギリスに帰国し、元の生活に戻ることを決めます。彼女は葛藤の中で彼女なりの答えを見つけ、生活こそ元に戻れど、新しい人生を歩み始めるのです。

(彼女自身はこの作品の中で重要な人物ではありますが、私が注目して勝手に大事にしている部分は、これまでの研究では重要視されていないというか、この作品の中でそんなにメインの部分ではないです(笑)重大な事件が起きるそちらがメインです)

文学が開いた心の扉

私は小説を読むとき、登場人物に感情移入をし、読み終わったときには何かしらの教訓、人生訓を得るような読み方をしがちです。卒論執筆においては、そういう読み方はあまり適切とは言えないでしょうが、無意識のことです。今回もその女性に自分を重ねて読んでいました。
同じ作者の小説を何冊も読んだ中で、この作品を選んだ理由は「面白かったから」。でも、振り返ってみれば、実際には彼女の存在が大きかったからだろうと思います。
自分の望んだ生き方を猪突猛進で実現していくのではなく、自分の内面と社会、内側の世界と外側の世界との間で葛藤しながら、自分なりの答えを出していくような姿は、とてもリアルで、共感できました。
(現実世界で、少年漫画のように「山あり谷あり!でも結果的に夢は叶えたよ!」ということは、あまりないと思うので、、、)

試験の最後、面接官の先生(ゼミの先生)に、「あなたにとってどんな作品ですか」と聞かれました。
私はこの質問に答えようと最初の一音を発した瞬間に、思わず涙がこぼれてしまいました。(皆さんは絶対に口頭試問で泣かないでくださいね)
朝食も戻してしまうほどの緊張から突然解放され、やっと終わったという安堵と、本当に終わってしまうんだという寂しさで。
そして、HSP特有の「本心を口にすると涙が出てしまう」という性質を発揮し。

「自分の感情に誠実に生きたいという女性に自分を重ねて読んできました。社会の常識に抗う人はいつも苦労し、結局は潰されるという厳しい現実を突きつけられました。それでも、理想の生き方を志す姿に少し希望をもらっていました。私にとって大切な作品です」

というようなことを、グッダグダに話しました。
なぜ、この言葉を発すると涙が出たのか。その理由は、そのとき

「自分に誠実に生きる」ということが、1番自分の求めていることであり、1番難しいことである

と痛感していたからです。
私は、やりたいことや将来の理想が何パターンもあり、自分の欲望に振り回されているところがあります。
でも、それらをまとめた根本的な私の望みは「自分に誠実に生きること」だったと、自分で話しながら実感したのです。
私はこれまで「これが私の望むもの・生き方だ」と気づいても、すぐに飛びつけたことがありません。
いつも、「このまま進んだら周囲からの評判は?家族は何て言う?将来どうなるの?」という声の波に飲まれて、確実に大丈夫だと思える道だけ歩んできました。
あれがやりたい!これが欲しい!というとめどなくあふれる欲望に、瞬発的に従えるほど、私は自分を信頼できないし、強くないのです。

自分の生きたいように生きられないのは、社会や家族のせいではなく、それを跳ね除けるだけの勇気と覚悟、バイタリティがない自分のせいなのです。
私は、周囲からはミーハーとしか思えないほどの自分の強い好奇心を、愛おしく思っています。その好奇心を満たし、望む人生を生きていけるくらいの、自分への信頼と勇気、強さがほしい。ただわがままを貫き、自由奔放に生きたいということではないのです。
真に自分自身に誠実に生きるという生き方は、自由で楽そうに思えますが、実は1番大変だと思います。

長年気づかなかったのか、見て見ぬふりをしていたのか、心の奥底にあった閉ざされたドアを開けてしまった感覚です。
心に住むもう一人の私が、「やっと気づいてくれたの?(笑)」とも言っているようで、解放されたようなほっとしたような気分にもなりました。

試験中に(笑)

文学をやっていると、長い人生における無数の点と点を、あるとき突然結び付けてくれる瞬間があります。閃光が走るようなその瞬間がたまらなくて、私は‟食べていけない”学問に縋ってきたのかもしれません。

文学というお守り

「文学」とはひとまずお別れです。
4年間で、文学作品を読むことと文学は全く別物だと実感したからこそ、読書はできても文学は当分できないと思っています。

人生に文学があったこと。

今までも、そしてこれからも、私の救いになり、お守りのような存在になることでしょう。
誰も味方がいない、分かってくれる人がいない、私は孤独だと思っても、帰って来れる場所がある。私を否定することはあっても、勝手に置いて行ったりしない。それが私にとっての文学です。

また泣いてしまいそうです。というか泣いています。

一つのことを続けられたことがなく、これまで「頑張った」と思えることが何一つないことを恥じていた私が、初めて「頑張った」と思えるものが卒論です。完成した卒論という紙の束そのもの以上に、泣けるくらい頑張れた経験、それだけ頑張れるものに出会えたことそのものが本当に宝物です。
大学に行ってよかったなぁ。しあわせ!

卒論はほとんどの学生にとっては、厄介なものだと思います。就活の邪魔ですし。でも、私のように、卒論が人生において「卒業単位取得のため」以上の意味を持つ場合もあります。どうせやらないといけないものなら、ちょっとだけ頑張ってみてもいいかもしれません。取り組み方次第で、自分の一生消えない財産になります。

決して見捨てず根気強く指導してくださった尊敬する恩師、共に乗り越えたゼミ生、そしてこの道で頑張ると決め、頑張った自分。

本当にありがとうございました🕊


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