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ワクチンを拒否する人々を拒否する私

進化論を否定する人がいる。

地球を平らだと言う人がいる。

ワクチンは危険だと言う人がいる。

そして、世の中の多くの人は、彼らを見て、馬鹿だと言う。

根拠が無い、と。非科学的だ、と。

かくいう私も、そんな傾向にある。

そこで私は考える。

それでは逆に、私の信じる進化論に根拠はあるのか?と。

その昔、ダーウィンなる人物が世界を旅し、その非常に注意深い眼差しを野生動物に向けた。そして、それによって得られた情報を論理的に重ね合わせ、後に多くの人々が納得するに至る説を唱えた。

つまり、少なくともダーウィンその人は、進化論を唱えるだけの根拠がこの世界にはあるとみなしていたということになる。

では振り返って、私という個人はどうか?

「私が進化論を信じる根拠」とは何なのだろうか?

少し頭を悩ませたが、どうしても私なりの理由が出てこない。しかし、考えてみればこれも当然のように思える。

なぜなら、私が進化論を信じている理由は、どうも、”学校でそう習ったから”というものだけらしいからだ。

もしこの言葉が教科書に載っていなっかたら、また、先生がその説明をしていなかったら、私は死ぬまで進化論など信じることは無かったのではないかと思う。

私は生物学者ではないのだ。日々目にする動植物に並々ならぬ注意を向け、それらがいかにしてこの世界に現れるに至ったかなど、真剣に考えることはまず無い。

ましてや、単一の生物から全ての生物が進化し、現在の多様な生態系を形成しているなどということは、考えつこうはずもない。

初めて進化論というものに触れさせられた小学校時代のことともなれば、なおさらである。

その頃、私が考えていたことといえば、「どうぶつの森」でいかに友達を作るかということくらいである。このゲームに出てくる動物との”人間関係”には気を配っても、通学路を跳ねるカエルと自分との生物学的な関係など、想像したことはなかった。

それはちょうど、ゲームを楽しみはするが、それがどのようなプログラムに則って作動しているのかをまるで気にしたことがなかったのと同じように。

しかし、現在の自分を見てみると、”なんとなく”ではあるが、”確実に”、進化論を信じている。

例えばこれは、「利己的な遺伝子」なる本を読んだ際、原始の地球でできた化学物質に、進化という道筋をたどらせ、これだけの生物種を生み出した「時間」というものの力強さに感嘆していた自分を回想などすれば分かる。

そして私は、この生命観を信じない人には、その全人格に対して、怪しい目を向けて生きている。

なんとなく始まったものに対し、それを根拠に他人を非難できるまでに強い確信を抱いて生きていることに我ながら愕然とする。

しかし、何もこれは進化論に限った話では無い。

「定説」や「常識」という名で呼ばれている数多くの”物語”を、私は特に疑うことも無く、なんとなく、いつのまにか受け入れて生きている。

しかし、この状態には注意を向けて生活しなければならない。なぜならここには、2つの大きな危険が潜んでいるからである。

それは、社会に分断を生むという危険と、それによって幸せが遠ざかるという危険である。

分断を生むというのは分かりやすい。すでに述べていることだが、我々はこの不確実な確信を持って、それを共有しない他者を非難し、断罪する。

断罪された側に釈明の余地は無く、有無を言わさず、関係を切る。

そして、この世界は進化論肯定論者と否定論者に二分されるのだ。

二分されたものはいずれ対立し、対立したものはいずれ争う。

この流れが、人間を縛るある種の法則であるように感じるのは私だけではないはずだ。(たいやき頭しっぽ論争や、きのこたけのこ論争などは好例である。植民地の分割統治もこの法則を利用しているのではないか。)

そして、争いが私達から奪うものは、幸福である。

これが、上記の2つの危険性が顔を出すメカニズムである。

そしてこれは現状、世界を支配しているメカニズムなのだと私は考えている。

だれもが、「いつの間にか信じているもの」を絶対の真理として認識し、それを疑う者をだけを疑い、世界を”我ら”と”彼ら”とに分け、小石を(ときには巨石をも)投げては傷つけ合っている。

我々はどのようにしてこの状況を脱することができるのだろうか?

私が考える妥当な解決策の一つは、自分自身のことも疑ってみるということである。

確かに彼らは間違っているかも、しれない。

しかし同様に、我らも間違っているかも、しれない。

ちょっと立ち止まって、そういう意識を持つということである。

私は神と呼ばれる存在が生物を創り出している様子を見たことは無い。したがって、そのような物語を信じる訳にはいかないと考えている。しかしその実、これと同時に、私は生物が目の前で進化していく様子もまた、見たことは無いのである。

また私は、宇宙空間に出て、地球が平らであるということを確認したことは無いが、同様に、それが丸いということを確認したことも、無い。

ワクチンが人類を滅ぼしていく様子を目の当たりにしたことは無いが、人体を構成する約37兆個の細胞それぞれが、打たれたワクチンに対してどのような反応をするのかを、生涯に渡って観察し続けたことも無い。

これらの事実を改めて思い出すこと、言い換えるならば、どこかでこれらを学習してしまう前の、「子供の頃の自分に戻ること」が二項対立の分断を避け、社会に調和を生み出す第一歩になるのではないだろうか。

これはすなわち、進化論にしても、フラットアース(平らな地球)説にしても、その全ては、あくまでも究極的には仮説でしかない、という認識を持つということである。

そして、それらの仮説は、実際に自分の目で確かめたことが無いという意味において、「全てが同様に不確かである」という事実を確認するということである。

さらに言えば、それらの仮説の間にある差異とは、(その内容の違いを除けば、)それをなんとなく信じている人間の数の多寡でしかないということを忘れないようにするということである。

あるコミュニティの中でマジョリティが信じている仮説を信じれば、そのコミュニティの中では生きやすくなる。

仮説には本来、それくらいの意義しかないのだ。

このことを念頭に置いて、自分が今信じている仮説、信じていない仮説、その両方に向き合いながら生きていくことが、社会全体の幸福につながるのではないだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!