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あきらめコンテンツの時代と森田童子 中

この記事は前回の記事の続きです。

森田童子のことを簡単に紹介する。

東京都出身(札幌のコンサート会場で配布されたチラシ「森田童子ラフスケッチ」によると、1952年に青森で生まれたとなっている)。全共闘などの学園闘争が吹き荒れる時代に友人が逮捕されたことをきっかけに、1970年に高校を中退。気ままな生活を送っていたが、20歳のとき友人の死をきっかけに歌い始める。
                             ーWikipediaより

彼女の歌にも、”あきらめ”が漂っている。いくつか歌詞を引用したい。

地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた 悪い夢のように 時がなぜてゆく
                             ーぼくたちの失敗
春はまぼろし 淋しいだけのふたりなら 何にも云わずに せめて君と軽やかに 踊ろうヨ 踊ろうヨ それともこのまま 君と落ちてしまおうか 君と落ちてしまおうか
                                ー蒼き夜は
夏がめぐりめぐってもぼくはもう決して 泳がないだろう
                              ー雨のクロール
どうして生きていいのか 解らぬぼくが 畳の上にねそべっている
                              ー孤立無援の唄
美しき明日についても語れず ただあなたと un deux trois すべてが帰らぬ un deux trois すべてが終る un deux trois せめて最後に ラスト・ワルツ
                             ーラスト・ワルツ

変れない。どうしていいのか、分からない。明日への希望を持てない。彼女の詩には、そんな気持ちが歌われている。全共闘時代に仲間が捕まり、その後、友人の死なども重なった彼女には、時代には抗えないというあきらめがあったのだろう。

しかし、同じ”あきらめ”でも、彼女の歌と、現代の歌には、決定的な違いがある。

それは、あきらめの先に”死”を意識しているかどうかという違いである。

森田童子の歌には、死が臆面もなく表現されている。彼女は死を強烈に意識しており、彼女の歌は、私達にも、死を強烈に意識させる。彼女のあきらめは、死という概念に直結している。

彼女の歌っている死を引用する。

春はまぼろし やさしいばかりの今夜の気持 君はぼくのひざまくら 眠れそうかい 眠れそうかい 眠れそうかい それともこのまま 君と死んでしまおうか
                                ー蒼き夜は
深き眠りのうちに 時よ終れ
                                ー哀悼夜曲
安全カミソリがやさしく ぼくの手首を走る 静かに ぼくの命はふきだして 真夏の淋しい 蒼さの中で ぼくはひとり やさしく発狂する
                                 ー逆光線
夏草の上にねそべって いまぼくは 死にたいと思う
                             ーG線上にひとり

このように、彼女の歌には、死という言葉や、死を思わせる表現が頻繁に出てくる。

こういった歌詞を見ると、暗い、陰気だ、と、眉をひそめる人が多いのではないだろうか。こんな歌を聞いていたら、自殺する人が増えるのではないかと、不安になる人もいるかもしれない。

そういう人々の意識もあってか、現代の歌に死が歌われることはほとんど無いように思う。現代の歌には、死が出てこない。死は隠されている。

確かに、死のことなど、積極的に考えたくはない。そんなことは考えてもしょうがないし、考えれば考えるだけ憂鬱にもなりそうだ。できることなら、そんなことは忘れて生きていきたい。

しかし、本当にそれで良いのだろうか?

続く


最後までお読みいただき、ありがとうございました!