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正油のだべり

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正油のエッセイを収録。作者の思うところとして、マンガよりこっちを読んでほしいとか欲しくないとか
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高速道路 120 km/h、30 km/hでときに走りたい

高校時代、自分はとんでもない強迫観念で潰されかかっていた。毎日決まった時間に登校時間がやってきて、学校で日中を過ごし、放課後家へ帰って団欒のひとときを送るその間に、また来る翌日の登校時間に怯える日々だった。決まった曜日に決まった教科の授業を受け、ルーティン化したタスクに向き合っていく。 とりわけ、高3時分にはセンター試験対策の模擬試験が日々立て続けにあるような学校だったから、そのルーティン性は余計に強かった。各設問ごとにシステマチックに配点がなされ、一つ一つのミスが合否の判

【美術鑑賞備忘録】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

モネの睡蓮を観た。ゴッホのひまわりを観た。いずれも数々の美術書、それにとどまらず各所の本や雑誌やテレビなど、あまた目にする機会がある。だから、そこまでアイコニックになった絵を目の当たりにしても、「ああ、かの睡蓮だなあ」「かの向日葵だなあ」と、どこかその感慨を昔に置いてきてしまった印象を受ける。 ただ一つ、際立った感覚としてあったのは、特にひまわりの方を観たときで、絵の具をキャンバスにだくだくに盛ってあるために、黄色の渦の中に種を表す黒い渦が出来ていた、そのことへの興味だ。こ

ドラマが苦手で観れないんですが…

 俳優が出演するドラマや映画が、自分は好きではない。流行の作品がCMで宣伝されていても、観たいという気が起こらない。  今年話題になった「半沢直樹」さえ、話題になったシーン以外あまり知らない。その場面だって、家族が観ているから知っているものの、一人暮らしならまず観なかっただろう。それらドラマや映画の何がダメなのかが、最近ようやくわかった。人間が出演しているからいけないのだ。  身も蓋もないような理由だが、人間の俳優が演じなければ、自分は物語に没入することができることがわか

ヒトの視覚体験を問う [作品公開]

《記憶されるオレンジ》(2019) 組写真 作品公開によせて 自分ははっきり見ているはずなのに、人は自分と同じように見たはずのものを覚えていない。逆も然り。 たとえば、服に興味のない自分は、あまりにも流行遅れな服装をしているのは嫌だけれど、街に出て同年代がどういった格好をしているのかを見逃してばかりなので、いざどんな服を買えばいいかわからず、よく困る。そもそも人の服装なんぞ、だいたい似たようなものに見え、メンズはシックな色合いばかりだという印象だ。 ファッション

20代がふと考えた「老学(おいがく)」

人生何度でもやり直しが効く、とよく耳にする。 その言葉の裏に、老いによって身体的理由から不可能になること、あるいは精神的モチベーションが上がらず出来なくなることは、考慮されているのだろうか。20代半ばの自分はふと疑問に思った。 というのも最近、アニメを視聴する機会が増え、登場キャラクターが死んでは生き返ることを何度も繰り返す(あるいは死にかけた段階でリセットする)作品にも、多く触れているからだ。 たとえば、「魔法少女まどか☆マギカ」や「ひぐらしのなく頃に」、「Re:ゼロ

こんなのどうでしょう [作品を作ってみたい]

ある日の夕方、テレビを観ていたら、漫才師のミルクボーイが出ていた。よくできたネタのフォーマットだなぁとつくづく感心させられる。落語のように何度も聴ける、様式美がある。 ちなみに、初めてテレビで観た時に、内海さんにはデジャヴを覚えた。それはモナカだ、モナカじゃないとひたすら叫ぶ、向かって右手に立つ角刈りの人だ。その内海さんは、なんというか、奇品珍品を辻でひっそり商っていそうな……そうだ、丸尾末広氏の『少女椿』に出てくる山高帽のおじさんっぽい人を想起させる。 いやいや、それは

勉強することとは

 アフター・コロナに思索が大いに巡らされる今だからこそ、考えておきたいことを記します。既存の仕組みや体制が否定され、あるものに取って代わられようとする場面がこれから多いはず。挨拶代わりに初投稿します。(以下、本文)  常に世に幅を利かせる一大勢力はいる。既にあった勢力が転覆させられても、それにとって代わって大きな力を持った勢力が現れる。そうした牛耳を執る勢力の絶えざる存在、それ自体は悪いことではない。危惧すべきは、それら勢力がそれ以外の集団の勢力を利用し、搾取したときである

緊急事態宣言 解除後の未来 前夜に語ろう

・コロナと暮らす社会を想像しよう 飲食店の自粛要請も緩和がすすんでいる。人の出が街に戻りつつある。とはいえ、日常生活を送るなかでの身体感覚は、コロナ社会以前のそれとはやっぱり、違うものになった気がしている。私のそうした変化や近ごろ得た所感から、今後の社会はこうなっていくんじゃないかというのを、牛のようにのんびりと語ってみよう。 ・近ごろの体験談 今日、私は久々に開館した図書館へ足を運んだ。館内に入るとすぐ、貸出カードの呈示を求められ、カードのバーコードを職員さんが読み取る。

「つながろう」の恐怖 – 自分のケータイ史を振りかえって豊かさを考える –

 「人とface to face で会えない今を乗りきろう」。とりわけ数週間前まで、こういったニュアンスのフレーズをテレビ番組などでけっこう見かけた。僕にはこの言葉が馴染まない。  「乗りきろう」なんていうのは、マイナスの出来事に立ち向かったときの人間が使う言葉だ。つまり、「face to face で会えない今」はマイナスの時期なんだろう。世の中の幸せの基準は、人と人とがその場で同じ時間を過ごすことにあるそうだ。果たしてそうだろうか?  僕はかえって、猫も杓子も人に会うこ

noteから祝われたので30日連続投稿のこれまでを振り返る

小さい頃に作ったアイツに、もう一度、日の目を見せてやりたかった。  5月半ばに始まった連載マンガ「4コママンガ とんかつさん」。毎日投稿する気もなかったから、当初は思いつきだったり気まぐれだったりで描いていけたらいいな、くらいに思っていた。自分は最初に根を詰めると、失速しやすい人間だ。そのつもりだったので、とりあえずひと月持ったのかもしれない。30日連続投稿を一昨日に祝われたので(良い機能ですよね)、なんとなくここでコメントを軽く残しておきたくなった。  そもそも、とんか

盗めるアート展が教えてくれた「芸術の無力さ」

 same gallery(東京・品川)にて行われたアート展が、オープニングと同時に、まもなく終了した。7月10日〜19日までの会期を予定していたものの、展示作品がごっそり失くなったためである。  事情をご存知でない方は、こんな書出しに面食らうだろう。「盗めるアート展」なるものが催されたのだ。「美術手帖」のような美術情報専門誌はもちろん、「Yahoo!ニュース」でも会期前の6月に取り上げられ、世間的な耳目を集める結果となった。 https://bijutsutecho.co

《2020年の光》 五山の送り火と信号

 昨夜の京都は五山の送り火が執り行われた。大の字が6つの火の点で表される、異例の送り火となったことはご存知の方も多いだろう。とはいえ、どんな形であろうと、LEDで代用することもなく、毎年変わることなく松明の火でこの行事を続けてこられた、保存会の方々には敬服するばかりだ。  さて、“変わることのない明かり”という話題で、こんな面白い話があった。信号機、とくに歩行者用信号のデザインが変わっていることに、皆さんはお気づきだろうか? 別に自分は信号機オタクではないので、専門的なこと

「勧酒」を聞いて早ウン年 あれからどうしてますか

この杯を受けてくれ どうぞなみなみつがしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ 「高校最後の古典の授業」  そう称して、卒業式にハナムケの言葉を送られた、我が担任の古典教師。井伏鱒二が口語で解した、唐の于武陵の「勧酒」。まだ飲めない我々に、この言葉を送られたのは、再び会えるのを祈られてのことだと、思えてやまない。  十年ひと昔というならば、もう半昔以上は経ってしまった。小まめには、当時の同級生と連絡をとっていない。気になる人はいっぱいいる。けれども、訊ね

350°の感覚

 道を歩きながらスマホをいじっている人間は、いったいどういう料簡でいるのだろうか。第一、歩きながらだと手もとがブレて入力もままならず、立ち止まって打った方がかえって短時間で入力が済みそうだ。お情けでこのように心配してやったが、自分の本音は「危ないやろ! ア…(自粛)」である。自転車を漕ぎながらスマホを操作している輩に至っては、その手に持っている機械で「いのちの電話」に繋ぐことをお勧めする。  そんな彼らは夜道で増殖する。日中より交通量が減るためか、気が緩んで「ながら」をして