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20代がふと考えた「老学(おいがく)」


人生何度でもやり直しが効く、とよく耳にする。

その言葉の裏に、老いによって身体的理由から不可能になること、あるいは精神的モチベーションが上がらず出来なくなることは、考慮されているのだろうか。20代半ばの自分はふと疑問に思った。

というのも最近、アニメを視聴する機会が増え、登場キャラクターが死んでは生き返ることを何度も繰り返す(あるいは死にかけた段階でリセットする)作品にも、多く触れているからだ。

たとえば、「魔法少女まどか☆マギカ」や「ひぐらしのなく頃に」、「Re:ゼロから始める異世界生活」といった、放送終了後も頻繁にメディアミックスされる粒揃いたちだ。登場人物らは死の淵から生き返ることで、過去の選択ミスを推理・分析し、軌道修正していく。

それらアニメは、諦めないで信じてやり抜く登場キャラクターの頑強さやひた向きさを描き、観るものにやり直す気力を与えてくれる。が、よくよく考えてみれば、別に死ななくてもやり直しはできる。というか、死んだらそれまで。「ゲームオーバー」だ。

生きているうちのやり直しが何度でも効く社会であって欲しい。どうせなら、生き返った先が若い歳のままでやり直せる、アニメのような設定が理想ではあるけれど、生憎それは叶わない。私たちは老化する。どれだけアンチエイジングの技術が発達しようと、逃れられない宿命だ。

歳をとったら再チャレンジしようにも出来ないことだってある。それを分かった上で「やり直し」について考えましょう、ということだ。とはいえ、どれだけ想像力を逞しくしても、実際の身に起こらないと、精神的なレベルでの老化を理解することは限界がある。老化体験のように、若い人向けに重りを四肢に着けて歩かせる体験もあるそうだ。


それもいいだろうけれど、もう少し手軽なものはないか?たとえば、「老いることとは」と下の世代に向けて、高年の人が発信できるような場が必要なのではないか。

懸念されるであろう、年長者が下の年齢に対して説教臭く、ややもすればなることは避けなければならない。「最近の若者は〜」といったお決まりの文句を、お爺さんお婆さんが垂れる場にしてはいけない。

そうした常套句を聞けば若者は老いに対し、世間の変化を受け入れるキャパシティが狭まるイメージを抱くだろう。老いが悪印象に映るきっかけとなってしまう。若い人が老いを肯定的に捉えて、何がどう変わるかを具体的に知れる場でなくてはいけない。

社会の健康寿命が伸びて、人生のやり直しを漠然と認識している人は多いだろうけれど、人間的なスケールの範囲内でそれは成り立つことなのだ。若いうちに「できないやり直し」を知っておく機会は必要だろう。




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