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盗めるアート展が教えてくれた「芸術の無力さ」

 same gallery(東京・品川)にて行われたアート展が、オープニングと同時に、まもなく終了した。7月10日〜19日までの会期を予定していたものの、展示作品がごっそり失くなったためである。

 事情をご存知でない方は、こんな書出しに面食らうだろう。「盗めるアート展」なるものが催されたのだ。「美術手帖」のような美術情報専門誌はもちろん、「Yahoo!ニュース」でも会期前の6月に取り上げられ、世間的な耳目を集める結果となった。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/22160
https://news.yahoo.co.jp/articles/61a09d16212abb8166f7f020cd00cf278ed7c570


 「盗めるアート展」は二つのことを僕に教え、考えさせてくれた。「現代の経済生活においてたいていの芸術は無力である」ということと、「経済生活の中でもしぶとくその価値を保つ芸術」の可能性についてだ。それだけでない。この展覧会は芸術を用いた社会実験ではないか、とも考えられる。「芸術の新しい体験を提供」などという、狭いテーマでは語りきれない出来事なのだ。

 本展は、10日午前0時から、24時間ノーセキュリティで開場しつづける予定だった。展示品は一人一点持って帰って良いことなっており、なくなり次第終了というルールである。ところが、時間前から会場周辺に多くの人が押し寄せ、混乱回避のため、前倒しでのオープンを余儀なくされた。企画は半日もつどころか、0時前には閉幕を迎えた。

 当初の企画意図は、「『ギャラリーに飾ってある作品を見て帰る、または買うという体験以外に、もっと違う体験を提供できるのではないか』という考えをきっかけに *」したものだった。

 主催者はおそらく、次のような光景を想像していただろう。ひょっこりと展覧会に訪れたひとりの客。「ふむふむ、これはいいな」と舐め回すように作品を見て、おもむろにそれを持って帰る。作品を手にするとき、ちょっときまり悪そうにあたりを見回した、という具合か。

 現実は違った。盗むというより掠奪というニュアンスがピッタリかもしれない。事の顛末はそれに終わらず、盗まれた作品はフリマサイトに出品されたという。こうした一連のできごとから、現代社会にはびこる思想を少し、垣間見た気分がした。

* * *

【現代の経済生活においてたいていの芸術は無力である】
 
 第一、芸術は衣食住の基本的な生活の、余暇に過ぎない。現代社会を回す経済の文脈において、多くの芸術表現は無力である。現代の経済を力強く動かすのは、衣食住に関連し、目に見えて手に取れるモノを産み出す、そうした産業である。GDPの産業別割合を見ればあきらかだ。どれだけ崇高な意味や価値を掲げても、そんな社会の論理にかかれば、メシの種に変えられる「モノ」でしかない。
 
 今回のアート展に来た人、とくに「盗んだ」人にとって、芸術作品はメシの種と交換可能なものでしかなかった(正確にいうと、特殊な環境下でそう成り下がってしまった)。即物的発想の前では、そこに置かれた作品たちは、しょせん「モノ」なのだ。現代の物質主義は、じゅうらい芸術にもたれた「高尚さ」とか「アウラ」といった曖昧模糊とした概念をも、否定する。

 目に見えない、いわゆる無形文化が、維持に難儀しているところをしばしば目にする。具体的な「モノ」もなく、演じられる一瞬一瞬に価値のある芸術は、即物主義の論理からは無きに等しい。表現の意図や高尚さ、それに派生する威厳というのは、現代において、とても薄弱だ。維持の協力を、そうした社会に求めるのは限界がある。

 また、転売という、近ごろよく耳にする一種のビジネスに、話が収束していったのも面白い。このシステムに、アートも簡単に絡めとられたのだ。芸術などという、実体と想像の境界がおぼろけな存在を、現代社会は身も蓋もないものにしてしまう。ボヤッとしたものは、実体のほうの特徴に、強く焦点があてられる。実体あるモノを理解するときのこうした構造が、社会全体に当たり前のものとなっており、芸術もその構造に押し込められる。

 芸術作品に、作者の感性や感情の発露を遺したり、制作背景となった社会への問いを表したりしても、それら試みはけっきょく、虚しく終わる。そもそも、作品と鑑賞者の間での対峙から生まれる、その先の止揚や昇華を、鑑賞者はどれだけ意識しているかが疑問だ。

 さらに、「芸術作品に常にまとわりつく、ギャラリーや美術館という守られた展示空間との既存の関係性が壊された空間で、現代における芸術作品のあり様を違った角度から捉え直す機会となったら幸いです **」という主催者側の、会期前の発表にも注目してみよう。

https://samegallery.com/S_A_E

 「守られた展示空間」とは、どういうことだろう。セキュリティ面での意味以外にもうひとつ、言うまでもなく、経済至上主義の渦巻く外界との隔絶という意味が読みとれる。たいていの芸術作品はこれまで、経済の合理的な論理を排した場所でようやく、抽象的な事がらを問うたり、空想や形而上の世界を語ったりすることが、出来ていたのではないだろうか。
 
 それは芸術が経済と相反する特性をもつからだろう。そうした特性のお蔭で、芸術はときにコロナ禍の荒む心を癒し、非現実への逃避を許す存在にもなれた。お互い、侵しあわないところにいて、初めて機能する。水と油くらいに交わりづらいのだ。

 美術館の、家やオフィスとは違う独特の空間で、うやうやしく扱われ展示される作品に疑問を持ったことはないだろうか。そうした空間でなら、いっそ便器にサインだけを入れて展示しても、来客はありがたく拝んでいくのではないだろうか、と。
 
 こうした、芸術という壮大なテーマの根本的な問いも、現実社会から一枚の壁で隔たったところでは成り立つ。芸術における「守られた展示空間」は、ここに書ききれないほど、想像以上に深い意味をもっている。

* * *

【経済生活の中でもしぶとくその価値を保つ芸術】

 神も仏もない世界像と、芸術の救いようのなさを、さんざん説いてきた。少し過激な論調もあったかもしれない。けれども、活路はいくつか思い当たるから、それも説明しておきたい。

 たとえば芸術と経済の両者、硬軟兼ね備えた人間の内なるところに、希望はないだろうか。体外ではなかなか混ざらない水と油を、人間は両方とも摂取し、養分に変えてしまう。まるで、その法則そのもののようだ。
 
 水と油を体内で上手く養分に変えた人が、芸術のパトロンとなることに、大きなメリットを感じる。芸術に対する経済人の造詣が深くないと、芸術はほんらい先細りする運命にあるのだ。作家のほうも、世を経(おさ)め民を済(すく)う政治より、よきパトロンに巡り合う努力が、本質的に必要なのかもしれない。

 案として、パトロンの仕組みを社会に浸透させるのはどうか。教養としての芸術、で終わらせてはもったいない。果敢な「表現の自由」に対する理解と、作家への課題提案ができる、よきプロデューサーの登場が望まれる。

 また、芸術が経済や実用と同居する例として思いつくのは、民芸品や工芸品の類いではないだろうか。それらは、白い箱の中よりもむしろ、われわれの生活の中でこそ、活き活きして見える。

 職人のテクスチャに対するこだわりや美意識は、経済至上主義や即物主義の前でも、確かな存在感をもつだろう。テクスチャといえば、手技が光る工芸品が強みとするところではないか。また、あらゆるモノのデジタルデータ化が予想されるなか、テクスチャを追究した結果、それが希少価値にもつながるだろう。
 
 漆工芸はテクスチャを論じるにあたって、好例かもしれない。塗り上げた時が最高の状態というわけではなく、使っていくうちに経年変化し、その艶と鮮やかさを増し、真の美しい質感をみせた、その時が魅力的だ。

 そのお椀でも、4Kや8Kモニタに映してしまえば、それは画面のもつ美しさに過ぎない。ヒトの視力では、繊細な画素の単位まで気にかかることは滅多に無い。けれど、眼の前にあるのは液晶画面のテクスチャであって、塗りのお椀のテクスチャではない。デジタルデータ化の推進と、テクスチャを粒子レベルで追究するモニタやVRが、両輪で開発されない限り、実物に勝ることはない。触感の再現の開発もお忘れなく。

 むろん、工芸品以外の分野が生き残るすべは無いわけではない。ただ、資本主義経済に芸術が上手く伍していくには、経済の求めるような泥臭く、生活感のなまなましく滲み出た創作態度が、やはり必要なのかもしれない。

 合理性と追究される美、営営たる暮らしと諸概念の構想、これらが同居するチャンスを、これからの人びとはどれだけ発見できるだろうか?


引用

* 「美術手帖」サイト(掲示済):「「アート泥棒」になれる? 24時間ノーセキュリティーでオープンする「盗めるアート展」とは」より。表現を一部改変
** 「盗めるアート展」サイト(掲示済)より

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