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ドラマが苦手で観れないんですが…


 俳優が出演するドラマや映画が、自分は好きではない。流行の作品がCMで宣伝されていても、観たいという気が起こらない。

 今年話題になった「半沢直樹」さえ、話題になったシーン以外あまり知らない。その場面だって、家族が観ているから知っているものの、一人暮らしならまず観なかっただろう。それらドラマや映画の何がダメなのかが、最近ようやくわかった。人間が出演しているからいけないのだ。

 身も蓋もないような理由だが、人間の俳優が演じなければ、自分は物語に没入することができることがわかった。彼ら俳優といえば、複数の作品に出て、ドラマ宣伝のためにバラエティ番組にも出て、挙句には休日の様子までペラペラと喋る始末だ。これのために、物語の世界観に耽っていた自分の心に、水をさされたような体験が幾度となくあった。


 決定的な体験をピックアップできないほど、大なり小なりこうした体験を繰り返している。強いて例をあげるなら、草彅剛と柴咲コウがW主演だった「日本沈没」(2006)を観た時の、小学生の頃のエピソードだろうか(※敬称略)。草彅演じる潜水艇パイロットの小野寺が、地殻変動により沈みゆく日本を、新型爆薬によって命をかけて救う、ヒロイックな話だった。子どもなりに物語の世界に没頭し、「(草彅の風貌の)小野寺、カッコイイ!!」となっていた。

 とても好印象のまま、彼を観つづけていられれば良かったのだが、その後に三枚目チックな役柄を演じるどころか、私生活の失態があったりSMAP解散後にまた脱いだりと、事件が重なった。「日本沈没」視聴時に感じた物語の世界観は、大いにかき乱されてしまった。

 「いつまでそんな昔の感動を、引きずってんだよ!」と突っ込まれそうだが、あくまで一般に分かりやすい例を取り上げた迄なので悪しからず。とはいえ、自分の中で少なからず、複雑な気分になったのは確かだ。


 願わくば物語中のヒーローには、好印象のままでいて貰いたい。ドラマはファンタジーなのだからそこは割り切って、視聴後も演じた俳優を一人の人間として見、清濁あわせのむような態度をとるのが、良き視聴者なのだろう。

 けれどもその一方で、ファンタジーは、視聴後に心のデトックス効果を得るために観るものではないか。登場俳優にはたいして興味がなく、作品が面白そうだからといって観たとする。その後の俳優の演じる作品だけでなく、私生活での失態や、ヒーロー役だったあの人が財テクで大儲けだとか聞くと、キャラクターイメージが台無しになる。これでは、デトックスは失敗だ。

 ファンタジーと現実は別だから、などと冷めた正論で言いくるめられるのは勘弁だ。じゃあ、もう観ないとなってしまう。没入してもガッカリさせられるのだ。アホくさい。



 ところが、大学に入ってからのこと。深夜にテレビをつけながら作業をしていると、アニメが偶然流れていた。いわゆる日常モノと呼ばれる、キャラクターたちが只々、平均点な日本人の一年の生活を送る、コメディを交えたアニメだった。各キャラクターの見た目と特徴際立つ設定が、脚本もさることながら、作品の魅力を左右するようなジャンルだ。

 このジャンルに、自分は今日の今日まで、非常にのめり込んで過ごしてきた。登場人物の存在が、その作品内で完結した存在だから、安心して観られるのだ。2年ほど前までは、登場人物に没入できないから、ストーリーが緻密で、人どうしのやり取りと心の機微を描いた作品はほぼ観なかった。一方で、アニメは心置きない没入を自分に許してくれる。「裏切らない」ファンタジーなのだから。

 そういう理由から、偶然観た洋画に没入することがある。作中の、よく知らない外国人俳優に、問題なく感情移入することもある。日本国内に住む以上、あまりガッカリするような後日談を聞く機会はないお蔭だ。ストーリーの構成が自分に嵌れば、安心してのめり込める。


 アニメだって、同じ声優が演じているじゃないかと指摘されそうだが、それは違う。同じ声優が担当していても、演技が上手ければうまいほど各キャラクターの魅力は確立され、声が多少似ていても、見た目は異なるのだから、両者が同一に見えることはない。見た目の魔力はあまりにも大きいのだ。

 救われない運命のアニメキャラクターが、他所の作品で意地悪なキャラクターを演じていた、なんてことはあり得ない。ドラマでは大いにあり得ることだが。哀しみの底に落ちた主人公なら、最後までその深淵にい続けて欲しいのだ。


 書いていて気づいたが、どうやら悲劇の中で描かれる登場人物が、他所の作品に現れるのが自分は嫌なのかもしれない。悲劇に立ち向かう人、悲劇の中で沈んでいく人……、彼らが別作品で正反対の役を演じておどけたり、憎まれ役だったりを演じていれば、「美しい」過去の視聴体験の記憶が、乱暴に混ぜ返された気分になる。幸せな役を演じていた俳優が、別作品で壮絶なイジメの被害者役を演じていてもやり切れない気分になるが、虐めていた役が他でおどけている方が、よけい複雑な気分になる。

 アニメ特有の絵柄が生理的に受け付けないという人を見かけるが、自分にとって、一貫したキャラクター像を保ってくれる方が断然マシだ。マスコット的愛着さえ湧く。無類のネコ好きな自分には、日常劇を淡々と見せてくれるキャラクターたちは、ネコのようだ。ネコを可愛がるときの気分に近い感情で観られる。ネコたちが喋って、じゃれあって、ときに夢のような世界を見せてくれるのだ。


 人の演じる時代劇ではなく、戦国武将たちの性格をデフォルメして描くアニメが、一定数の熱狂的ファンを獲得するのも、一貫した人物像を守ってくれるからではないか。この原理は、コマーシャルにタレントを起用する際にもはたらく。クリーンなイメージが欠かせない企業CMにタレントを起用するのは、なかなかのリスクを伴うことでもある。

 某鬼の作品で、アニメは市民権をこれまで以上に得るようになった。子どもの観るものと揶揄されがちだったアニメだけれど、むしろ、人間が演じる芝居以上に、没入感が強いコンテンツなのかもしれない。


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