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350°の感覚

 道を歩きながらスマホをいじっている人間は、いったいどういう料簡でいるのだろうか。第一、歩きながらだと手もとがブレて入力もままならず、立ち止まって打った方がかえって短時間で入力が済みそうだ。お情けでこのように心配してやったが、自分の本音は「危ないやろ! ア…(自粛)」である。自転車を漕ぎながらスマホを操作している輩に至っては、その手に持っている機械で「いのちの電話」に繋ぐことをお勧めする。

 そんな彼らは夜道で増殖する。日中より交通量が減るためか、気が緩んで「ながら」をしてしまうのだろう。ふと、彼らを見ていて自分はしばしばこう思う。「簡単に後ろから襲えるよな」と。まあ、もちろん“善良な市民”である自分は、そうした蛮行に及ぶことはない。しかしながら、そうした彼らの行為にも示唆的な学びがある。現代人がおよそ横に2〜8°くらいの視界に価値を見出しがちであるということだ。逆に言えば、自分を取り巻く 352°ほどの世界には、あまり意味が見出されていない、とも言える。そんな現代の視覚偏重社会に、自分は大きな違和感をもっている。

 人間の視界についてあれこれググってみたところ、それは横におよそ180〜200°ほどあるそうだ。とはいえ、自分の顔の横に文庫本を置いて読む人がいるだろうか。もちろんいない。字を判読できるのは、一点を注視した目の、左右それぞれ1〜4°の視界にその字が入ってくるときに限られるからだ。この視界を「中心視」という。さらに、左右それぞれの目で正面から20〜30°は、視覚情報を有効に取得することが出来るという。これを「有効視野」といい、その外にもれた残りの視野を「周辺視野」という。いま、あなたが読んでいるこの文章は「中心視」で、あなたがスマホを持っている指のささくれは「有効視野」で、あなたのいる部屋の壁紙の大体の色調は「周辺視野」で認識しているということになる。一点を注視したときの、という但し書きはあるものの、スマホに目を一点集中させる人たちの世界は大体40〜60°、没頭していれば10°にも満たないことが言える。

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 物事をハッキリさせることは良いことだ。現代のネットを中心とする経済社会は、ハッキリしたもので溢れている。わかりやすく示し説明できる能力は、社会に生きる現代人に強く求められる。用件を数的に示したり、論理的に文章化したり、あるいは図や絵、写真でその理解を容易にすることに、人々は腐心している。ネット上に溢れるwebサイトやSNSは、そうした意味でとてもよく磨かれている。それじゃあ、数や論理、ビジュアルで示せないもの、全てひっくるめて視覚で認識できるもの以外は、あまり気にしなくていいのだろうか

 常々こんな社会は違う、と漠然と思っていながら上手にその解決案を示せずにいた。そんな自分は、街灯もない夜道を懐中電灯も点けず、適宜Googleマップを確認しつつ歩くのが好きだ。最近もそうして歩いたのだけども、何が楽しいのかというと、道路のどの辺りを歩いているか、文字通り「感覚」を頼りにする、その感じがいいのである。夜道で自分の横を通り過ぎるドライバーには、そんな光景は、なかなかのホラーであることも承知の上(怖がらせてゴメンね!)。後ろから来るクルマや、なんとなく現れそうな気のする野生動物に配慮しながら歩く感覚は、日中の視界良好な世界では味わえない、「野生の感覚」を研ぎ澄ませる。

 おそらく、そういった道を歩くとき、半規管の作用や足下の触覚など以外に、かなり複雑な感覚が綜合して働いているのだと思う。あの、後ろから来る風とか空気感に敏感になるのは何故だろう。あの、大気を腕ですくい、身に纏う感じは何処からくるのだろう。人は、道すがら出会った風景を視覚的に知覚し、整理・理解しているようだけど、もし風景の感じ方がそれで全てならば、暗い道をそうやって楽しむことは出来ない。まちづくりを標榜する開発団体が、「マイ○クラフト」感覚で構築したような都市空間をときどき見かけるが、視覚情報や論理性で空間を捉えようとした末路ではないか。

 自分はVRにもあまり納得がいかない。一度ゴーグルを装着したことがあるが、仮想空間を体験したと言い切るには、とても満足のゆく代物ではない。やっぱりこの技術も、空間は視覚的に捉えられるものだと考える開発者の産物なんだろう。VRには「全感覚的没入感」が無いのだ。空間にコミットする身体の全てが、そこの空間情報を受け取る感じのことだ。それが無い。厳めしい造語を使ってでも、視覚以外のこの「感じ」を理解していただきたい。この感覚をもっとキャッチーに表すなら、先ほどさんざん説明した中心視の話から、「350°の感覚」と名付けたい。

 たとえば次のような実験をしたら、「350°の感覚」を広く理解してもらえそうな期待がある。ついさっき不満を垂れたVRを、ここで活かそう。ふつう、VRといえば自分の周囲360°を見渡すことが出来る技術だ。ところが、ここで提案するVRゴーグルを付けると、前方10〜60°ほどは真っ白で何もよく見えないのだ。そして、グルグル辺りを見回してもその白い画面が追いかけてくるので、大して何も見えない。いっぽうで体験者は、自身が立っている場所の空気感を体感することは出来る。ちなみに、残りの300°ほどには、自分のいる場所の風景が映し出されているというのも、ミソだ。要は、周辺視野を活かしながら、視覚を完全に封じられたわけではない状況を体験できるのだ。ゆるゆるのマスクを掛けられた、あなたの唇の気分を味わえる。
 
 冗談はさておき、何となくこんな体験があったら、人はVRの外にある情報に、豊かなものがあるのだと気付かされるのではないか、と閃いた。VRの体験者が今いる場所で行うという設定にしたが、送風設備や温冷の設備等を整えて、遠隔地の当地の状況を再現できるなら、「真っ白な旅行」だって体験してもらえるだろう。もちろん、こんなVRは売れないことはわかっている。世の当たり前クリティカルに問うアートとしてのVRを提案したまでだ。

 「350°の感覚」をフルに働かせて街を歩けば、「ながらスマホ」で得られる情報には無い、重層性に富んだ情報が得られる。視覚偏重の社会に新たな楽しみを提供することだって出来るかもしれない。インスタブームが助長したオーバーツーリズム問題だって、視覚的な現地情報を人々が頼りに訪れ過ぎた結果だと、自分は要因のひとつに考えている。世界はもっと広く複雑なのに、纏められ分かりやすい情報だけを見ていて幸せなんか見つかるのか、と今こそ問いたい。とても月並みなクエスチョンだけれど。

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