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「つながろう」の恐怖 – 自分のケータイ史を振りかえって豊かさを考える –

 「人とface to face で会えない今を乗りきろう」。とりわけ数週間前まで、こういったニュアンスのフレーズをテレビ番組などでけっこう見かけた。僕にはこの言葉が馴染まない
 「乗りきろう」なんていうのは、マイナスの出来事に立ち向かったときの人間が使う言葉だ。つまり、「face to face で会えない今」はマイナスの時期なんだろう。世の中の幸せの基準は、人と人とがその場で同じ時間を過ごすことにあるそうだ。果たしてそうだろうか?

 僕はかえって、猫も杓子も人に会うことを控える社会に、居心地の良さを覚えている。おうちでめいめい好きなことや、自分の時間を楽しむ風向きになっていることには、生きやすささえ覚える。人にアポを取って会うことを積極的に勧められた、あんな社会だったのに。これまでは。

 現実社会だけではない。スマホの中にも人間が“いて”、“会いに来る”ときさえある。こうしたつながりは美化され、ソーシャルメディアはこれを大いに勧める。けれど、つながったもの勝ちのような社会に、自分の何かを削り取られているように思うときがある。なにもSNSの急発達ばかりがその原因ではない。


 思い返せばケータイを初めて持ったとき、喜びよりも恐怖感が先立ったのを憶えている。「削り取られた感じ」の原体験である。

 僕は平成一ケタ台生まれ。幼稚園生だった頃には、今で言うガラケー(ピョコっと、アンテナが出ていたような)が、一般的に持たれていた記憶がある。むろん、そんな時期のお子様にケータイなど必要ない。それどころか、親でさえ「当時は今後一生、お世話になるシロモノとは思ってなかった」と言う。

 ところが、小学6年の頃に塾通いの生活となった折に、ケータイが必要となった。夜遅くまで授業があるから、防犯のため。また、それ以前に通っていた別の塾が職員室でボヤを出し、急遽、授業中の僕たち生徒らは帰ることになったという、ケッタイなエピソードがあったから。こうしたイレギュラーなことが二度とないとも限らないので、ケータイを持たされた。
 
 そうして初めて持ったケータイに、感慨深いものは何もない。さしづめ、防犯ベルを供与された小学生の気分と変わりない。お年寄りでも電話がかけやすいよう設計された、①②③とボタンのついた機種だった。このケータイは中学に上がる頃だったか、iモードの使えるものにランクアップされた。

 この時期からだ。ケータイを所持していることと、それがもたらす闇の部分を意識したのは。
 中学生にもなると、ケータイを持っている者も多く、同級生にメアドを聞かれる。帰宅後、ほぼ触る習慣のなかったケータイに目をやると、緑の受信ランプが点滅していた。そのとき拒絶感がこみ上げた。

 家にいながら、メールを通じて、学校の同級生が自分のところに踏み込んでくる気がした。僕は幼稚園、小学校と、同級生を一度も家にあげたことが無かった人間である。家の中は、絶対的な領域だと思っていた。そこに、ケータイの画面を通じて、同級生がニュッと現れたも同然だった。ランプが点くたび、恐ろしかった。

 手紙のように、手書きの文字から感情を推測するわけでもない。ワンタッチで送信できるから、手紙ほどの長文でもない。そうした、推敲や清書が軽くなり易くもある、ケータイでのメールのやり取りは僕にとって、毎回毎回、緊張しながらすることだった。自分の便りが相手にどう読まれているか、いつ返事が来るかと、首を長くして待つ点でも、手紙のほうが性に合う(もっとも、筆不精なので手紙もそう送らないが)。

 メールのペースが関の山で、それで生活は成り立っていた。だから、僕は高校のクラスの同級生たちが、現役のころからLINEでやり取りしていることすら知らなかった。既に自分もスマホに換えていたが、大学で彼らと再会するまでLINEには触れたことさえなかったし、「そういうアプリ? 聞いたことはあるなあ」ぐらいの認識でしかなかった。ちなみにその当時で、アプリのローンチから3年ほど経っている。

 LINEのペースはもっと早い。“メール・ショック”には及ばないけれど、やっぱり強迫観念に駆られた。既読をつけて放っておくのも気が引ける。自分の好きなタイミングで返信したらイイとは言うけれど、一週間後に返すのが当たり前でもいいのかい?

 とはいえLINEを使うのが習慣化するまでには、それほど時間がかからなかった。ただ、LINE特有のペースのやり取りで、半年ほどほんとうに誰とも会いたくない気分になったことがある。

 大学サークル(とは言っても、ほぼ個人活動が主のゆるいつながり)で、内容は詳しく書けないけれど、珍しくプロジェクトを進めていくことになったときだ。音頭を取る立場に、自分がなった。
 基本的に、ミーティングの場を離れたら、次のミーティングまで各自、案を練っておくように、というスタンスの人間である。ミーティング外、すなわちオフのときは必要事項をまとめて、事務的にメールで連絡をすればいい。しかし、LINE的コミュニケーションが当たり前の世の中では、オフの時でも、ミーティング中との見境がない状態で、話が進んでいくときがある。
 僕もLINEのチェックと返信をやむを得ず習慣化した。そうしてそのプロジェクトが終わったとき、ぷつんと緊張感と、人と会うときに使う気力が切れてしまった。誰にも会いたくなくなった。

 既読と返信がハイスピードで行われると、社会的、経済的には、集団での意思決定が早くなってプラスになるのもわかる。しかし、四六時中よそ行きの気分にさせられ、人間的な会話のあり方ではない気がする。人によれば、このハイペースを快く思う人もいるだろうけれど、万人的ではない。


 巷に聞く、「つながろう」という言葉には、「そうすればきっと良いことがある」というフレーズが続くのだろう。僕はこれを鵜呑みにしない
 人脈だの、つながりだのを美化した宣伝は、ソーシャルメディア全盛の時代において仕方のないものなんだろう。けれども、それを自分の行動方針にすることまでなかろう。固い言葉に直すと、内在化する必要はない、と僕は思う。

 人とつながるのに最適な、自分なりのペースを見つけた時にやっと、「つながろう」の先にある喜びと出会えるかもしれない。SNSのような匿名から始まる付き合いの場合だけじゃない。学校や職場で友人だと思う人に対しても、密すぎるやり取りをしているかもしれない。知らず知らずのうちに、空虚さを埋めるために人と会う約束を作っているのかもしれない。そこに自分の適正ペースはあるだろうか?

 リモートで連絡を取り合う機会が多くなり、雑談もなくシステマチックに用件だけをすませ始めた結果、人と関わる時間が減ったという話を聞く。すると、当人は意外と孤独(日本語では区別しづらいが、英語のlonelinessは専ら消極的意味なのに対し、solitudeは積極的なニュアンスもある。後者を推したい)が肌に合う、との思いに至った例もあるそうだ。コロナ禍を機に、図らずも適正ペースを知った人も多いのだろう。

 「つながりの魔法」を盲信して人に会いまくって、かえって自分を潰している人は、世の中にどれくらいいるのだろう。出会うというのも、手段にすぎない。魔法の効果を得るには、自分なりに合った用法用量を知ることが必要だなと思う。そして、そんな魔法に頼らなくても、自分の中とか身近な出来事に、得たいものが見つかるときだってあるはずだ。

 僕はとりあえず、ケータイの着信を完全ミュートにして、大抵は見ないことにした。自分のペースで、豊かなときを過ごせている。

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