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ヒトの視覚体験を問う [作品公開]


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《記憶されるオレンジ》(2019)  組写真




作品公開によせて

自分ははっきり見ているはずなのに、人は自分と同じように見たはずのものを覚えていない。逆も然り。

たとえば、服に興味のない自分は、あまりにも流行遅れな服装をしているのは嫌だけれど、街に出て同年代がどういった格好をしているのかを見逃してばかりなので、いざどんな服を買えばいいかわからず、よく困る。そもそも人の服装なんぞ、だいたい似たようなものに見え、メンズはシックな色合いばかりだという印象だ。

ファッション観察は抜かりだらけの自分だが、一般に何気ないと思われがちな日常風景の観察にいそしんでいる。そうした田舎なり郊外なり都会なりの風景について人に尋ねると、風景に深い考察を持って、アングルや空間性などを意識して楽しむことは無いというのだ。こうした違いが顕われるのも、13年、写真を撮り続けてきた己の性だろうか。

同じ風景を見ているはずなのに、その美醜の判断が見る者でまるで異なることが、自分には面白い。大学院まで行って、「風景学」を研究したくらいだ。電線のある風景も、光線ぐあい等によって良く見えると思うのだけれど、一般的には地中に埋めて隠すほうが美しいとされている。こうした、他の人が気づいていない美しさや見え方を指摘してやることは、アートのひとつの効用である。近ごろはそうしたアートに惹かれる。研究で、知覚・認識の差が生まれるプロセスやその結果をいくら論じても、それらが示すものと比べ、どこか至らないところや空虚さを感じたからだ。

  *  *  *


電車のある風景だって、その美しさは何もローカル線の専売特許ではなかろう。都心でも、電車はヒトが認識する風景の構成要素中で、大きな役割を演じる。特に、鉄道ファンからすれば、「0系、500系、113系……」のような車両の細かな区別も重要な違いだ。けれど、そうした関心はオタク的だと一蹴されることも多い。

長らくJR西日本の大阪環状線の顔として走ってきた、車体が全面オレンジ色の電車がある。103系車両と201系車両というのだが、前者は2017年に、後者は2019年に営業運転から退いた。いわゆる「引退」の間際には、多くの鉄道ファンで沿線各地がたびたび賑わうばかりでなく、関西のテレビ等でも特集が組まれ、その別れは広く惜しまれた。それほど、オレンジの電車が駆け抜けるさまは、大阪の人間にとって印象深かったのだ。

とはいえ、電車はヒトを運ぶハコくらいに考える人からすれば、103系が引退した翌日に201系が走っている光景は不可解らしく、「結局、引退はどうなったん?」とファンである自分に尋ねてくる友人さえいた。

電車の細かなデザインまで、大抵の人は見ていないし、深く記憶にも留めていないというのが正しいのだろう。それならばと、201系が引退するときには、大阪の人が “本当に見ていた” 201系の姿を記録しておきたいと思った。そうして生まれたのが、冒頭にあげた作品である。1秒間、カメラのシャッターを開いていると、目の前を1秒の間に通り過ぎる電車の残像が記録された。201系ではなく、“オレンジ” が流れていく。これは、どれだけ電車に関心が無い人間でも、皆がほぼ確実に持っている環状線の記憶だろう。

〔資料〕

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  103系

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  201系

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ちなみに、色と造形に関して面白い話を読んだ。1709年にアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーが、「私たちは物体そのものではなく、それに反射した光を見ている」と述べているそうだ(*1)。孫引き資料にしか当たれていないのは惜しいが、今回の作品に通じる論考が300年以上前に書かれていたことを知れて、そのときは大いに感動した。生体の視覚認識は、物体を面的(色面的)に捉え、そこから三次元的に脳内で処理する、「逆光学」という認識の仕方をとる。これはしばしば、誰でも描けそうだと揶揄されがちな、色の面をカンバスに並べた抽象画が、本当に意味するところとも繋がる。1940-50年代に活躍したニューヨーク派の画家は具体的モチーフを、抽象的色面や線描表現を用いて要素還元的に表した。新しくも知覚の核心をついた表現に成功している。自分の撮った作品はかくなる意味で、抽象画と写真の微妙なところをゆく、「半絵画的写真表現」への挑戦だとも言える。

人間のほんとうに見ているものを追究し、記録したい。研究者的態度でありながら、研究論文では直感的に伝わりづらいことを、別の方法で伝えたい。ヒトの記憶に従った風景写真というのを追い求め、ヒトのモノの見え方を科学したい。103系・201系と大阪人の風景観をめぐり、ヒトの風景体験にまつわる普遍性を本作では導いてみた。



〔参考〕
(*1) エリック・R・カンデル著、高橋洋訳(2019)『なぜ脳はアートがわかるのか:現代美術史から学ぶ脳科学入門』青土社、31(Berkeley, G. 1975. “An Essay Towards a New Theory  of Vision.”  In Philosophical Works, Including the Works on Vision. New York: Rowman and Littlefield. Originally published in George Berkeley, An Essay Towards a New Theory  of Vision (Dublin: M Rhames  for R Gunne, 1709); G.バークレー著、下條信輔ら訳(1990)『視覚新論』勁草書房).

北崎充晃(1997)「視知覚研究における一般的視点の原理アプローチ」『VISION』9(3), 173-180.

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