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小説「ある日の"未来"」第12話

「ノアの方舟」

 

ママは家に戻るとすぐに、パソコンのメールを確認した。リモートワークが続いていたので、職場からのメールのチェックは欠かせなかった。いつものように事務的な連絡や、研究者仲間からのメールのほかに、一件だけ、見慣れないメールがあった。

迷惑メールかしら……。 

ママは慎重にアドレスを確認した。いくら厳重にファイアウォールをかけても、巧妙にすり抜けてくる不正アクセスやサイバー攻撃が跡を絶たなかったからだ。

まったく、完璧なファイアウォールはないのかしら。まるで盾と矛のいたちごっこだわ……。

ママはブツブツ言いながら、デジタル・インターポールにアクセスして、不正なメールかどうかを入念にチェックしている。

去年、国連はサイバー犯罪を取り締まる強力な国際機関として、デジタル・インターポールを発足させていた。ここにアクセスすることで、簡単にメールの信頼度を確認することができるようになっていたのだ。

しかし、サイバー犯罪は減るどころか、ますます悪質化し、巧妙化しながら、拡大する一方だった。どんなに強力な防衛策を講じても、それを破る攻撃が、いたちごっこのように繰り返されていたのだった。

しかも、民間のサイバー犯罪は、国家間のサイバー戦争とも繋がっていた。各国は自国をサイバー攻撃から守ろうと、他国のデジタル通信網に攻撃をしかけている。

2年前にヨーロッパで現実の戦争が始まってからというもの、デジタル空間での戦争はますます激化する一方だった。今や、各国政府は互いの不信感から、身動きが取れない状況に陥っていた。

どうやら、ママに来ていたメールは安全だったようだ。それもそのはず、そのメールは宇宙開発を推進する国連機関からだったのだ。国連は宇宙の平和利用のための国際協力を促進するため、これまでの国連宇宙部を改編し、さらに強力な宇宙開発協力機構を創設していた。

生命科学の専門家のママは、これまで宇宙開発には縁がなかったので、心当たりのないこのメールを不正メールと勘違いしても仕方がなかった。

いったい、何の用件かしら……。

ママは安全だとわかってもなお、半信半疑でメールを開いた。

そこにはなんと、ママを火星探査国際プロジェクトチームのメンバーに推薦したいと書かれていたのだった。

生命科学者の私がなぜ……?

さらに読み進むと、ようやくママにも合点がいった。

2032年、地球温暖化が限界点を越えてしまった今、国連は各国と協力して、宇宙空間における生態系研究を促進することにより、地球の多様な生態系を回復するために必要な新たな知見と方策を見出そうとしていた。

そのため、世界中からさまざまな分野の一流の研究者や技術者を集め、現在、建設が進められている月面基地に送り込み、さらに、そこを足がかりにして、火星での研究を実現しようと計画していたのだ。

最終的に有人火星探査をめざすアメリカのアルテミス計画と並んで、ロシアや中国とも連携しながら、国連による新たな計画がいよいよ動き出そうとしていたのだった。それは、『ノアの方舟計画』と呼ばれている。

 

ママがパソコンを抱えて病室に戻ると、ばあにゃは静かに寝息を立てていた。未来の姿は見えなかったが、トイレにでも行ったのだろうと思い、パソコンを立ち上げてリモートワークを始めた。
すると、ばあにゃがうっすらと目を開けた。

「あ、起こしちゃった? ごめんなさい」

「おや、まだいたのかい?」

ばあにゃはテーブルの上のパソコンに、ぼんやりと目を移した。

「ええ。でも、一旦家に戻ってから、今来たところよ。具合はどう?」

「そうだね、もうすっかりよくなったみたいだから、家に帰っても大丈夫じゃないかね」

「お医者さんはもうしばらく様子を見たほうがいいとおっしゃっていたけど、ほんと、顔色がだいぶよくなっているから、このぶんなら、明日の朝には退院できるかもね」

「そう願いたいね」

ばあにゃの様子に安心したママは、いくら経っても姿を見せない未来のことが気になりだした。

「ちょっと、未来を探してくるわね」

「ああ、行っといで」

 

廊下に出ると、突き当たりに談話コーナーが見えた。その一つを覗いてみると、案の定、未来がゆったりとしたソファーに座りながら、だれかと話をしていたのだった。テーブルにはオレンジジュースが置かれていた。

「あら、こんな所で何してるの?」

突然ママが現れたのに驚いて、未来は慌ててスマートフォンの電源を切った。

「だれと電話していたの?」 

「うん、あの、えーと、友だちと」

未来はしどろもどろに答えた。

「あら、珍しいわね」

どうやら、ママにはピンときたようだ。

「今度、うちに連れていらっしゃい」

そう言って、片目を瞑った。未来は頬を赤く染めながら、ただ黙って頭をかいていた。

 

翌朝、ばあにゃは無事に退院することができた。

「心配かけちまったね」

ばあにゃは家に戻ると、開口一番、照れくさそうに言った。

「ほんと、倒れたときはびっくりしたけど、一日入院しただけですんでよかったわ」

ママがそう言うと、未来もばあにゃの手を握りながら、

「ばあにゃ、またおいしい焼き芋作ってね」 

と、いかにもうれしそうにねだるのだった。

「おや、未来はもう、焼き芋には飽きたんじゃないのかい?」

「そんなことないよ! ぼく、ばあにゃの焼き芋、大好きだよ!」

懸命に訴える未来を見て、ばあにゃは微笑みながら、うれしそうに言った。

「そうかい、そうかい。未来はいい子だね」

 

午後、パパが早めに仕事から帰ってきた。退院したとはいえ、ばあにゃの様子が気になっていたのだ。

「おかあさん、その後、具合はどうですか?」

「おかげさまで、もうすっかりよくなったよ」

「それはよかった。でも、無理はしないでくださいね」

「ありがとう。そうするよ」

 

二人の会話の合間を見計らうように、ママがおずおずと口を開いた。

「ちょっと、みんなに話したいことがあるんだけど」

いつもと違う、ただならぬ雰囲気が漂っている。未来は何が起るんだろうと、身構えた。

全員、テーブルのいつもの席に着いたところで、ママはおもむろに、国連から届いたメールについて話し始めた。みんな、目を丸くして聴いている。

ママの話が終わらないうちに、

「うわー! ママ、月に行けるんだ。いいな!」

と、未来が興奮して叫んだ。未来はメタバースでよく行く、月のホイヘンス山の頂上からの景色が目に浮かんだ。現実の月の世界はどうなんだろう。未来は想像を膨らませている。

「それで、ママはどうするの?」

パパが落ち着いた声で尋ねた。

「ええ、どうするか、まだ決めてないわ」

「どうして? いい話じゃないか」

ママはパパの反応に少し驚いたようだった。まっさきに反対されるだろうと思っていたからだ。

「そうね、とても、光栄なことだと思うわ。でも、もしプロジェクトに参加するとなると、今回のミッションだけでも、訓練期間や月面基地での研究を含めると、地球に帰還するまで、まる2年はかかるそうよ。そんなに長期間、家を空けるなんてできないわ」

「家のことなら、心配いらないよ」

と、ばあにゃが言った。

「でも、昨日みたいなことがあると、やっぱり心配だわ」

「大丈夫さ。そんなことより、その『ノアの方舟計画』とやらは、本当に安全なのかい?  月に行くなんて、そっちのほうがよっぽど心配だよ」

ばあにゃの心配は、もっともだった。先日、国際宇宙ステーションが宇宙デブリと衝突して、大きな損害が出たというニュースが報じられていたからだ。幸い、人的被害は免れたものの、宇宙デブリの軌道がもう少しずれていたら、大惨事になっただろうと言われていたのだ。

地球を取り巻く宇宙空間には、これまでに人類が打ち上げたロケットの残骸や、役割を終えた無数の衛星が、弾丸を遥かに超える速さで飛び回っている。この宇宙デブリと呼ばれるごみは、稼働中の宇宙ステーションや衛星にとって大きな脅威となっていた。

国連は各国と協力して、宇宙デブリの回収に努めてはいたが、ヨーロッパでの戦争が始まって以来、偵察衛星など軍事目的にも使える衛星が急増したため、回収作業はいっこうに捗らないばかりか、もはや宇宙空間に安全な衛星軌道はなくなったと言われるほど、危機的な状況に陥っていたのだった。

 

「そうですね。たしかにそれは心配ですね」

と、パパが頷いた。

「言っちゃ悪いけど、だいたい、『ノアの方舟計画』なんて名前がよくないよ。それじゃまるで、地球にはもう住めないと言っているようじゃないか」

と、ばあにゃは顔を歪めるのだった。

ひょっとして、ばあにゃは反対なのかな、と未来は思った。

「そうね。私もそう思うわ」

「え! じゃあ、ママは月には行かないの?」

と、未来は驚いて訊いた。

「計画の名前もそうだけど、プロジェクトの目的がママにはちょっとひっかかるのよ」

「と言うと?」

パパが身を乗り出した。

宇宙空間での研究が、本当に地球の多様な生態系の回復に繋がるのかどうか、ママにはしっくりこなかったのだ。

地球と宇宙空間の環境は、生物にとってはまるで天国と地獄だ。地球の生命は、地球を離れては存在できない。地球に適応した生態系を宇宙で研究することにどれほどの意味があるのか、生命科学者のママにも答えは出せなかった。

むしろ、このプロジェクトの真の目的は、生物を宇宙環境に適応できるように改造することではないのか、とママは考えていた。遺伝子組換えやゲノム編集技術を使って、月面や火星でも育つ植物や動物を作り出し、最終的には人体の改造まで計画しているのではないかと疑っていたのだ。

もしそうなら、そんなプロジェクトには関わりたくない、とママは思っていた。

ゲノム編集の知識と技術は、地球の多様な生態系の回復と人類の繁栄のために使うべきあり、宇宙ではなく、この地球でこそ必要とされているはずだ。

生命科学のエキスパートとして、さらに、生命倫理の第一人者として、ママは確固とした信念と使命感を持っていたのだった。 

ママの話しに、パパは大きく頷いている。

「ママの言うとおりかもしれないな。実をいうと、パパもこのプロジェクトには、ちょっと疑問があるんだ」

今度は、ママが身を乗り出した。

「NASAのアルテミス計画は最終的に有人火星探査を目標としているし、アメリカの大富豪は10年も前から、火星移住を事業化しようとしているよね。だから、国連の計画も、こうした動きと連動して、最終的には人類の火星移住をめざしているんじゃないかな。そうだとすると、ぼくには、この計画の名前のとおり、気候変動で住めなくなった地球を脱出して、選ばれた一部のエリートだけが火星に新天地を創造しようとする、とんでもない計画に思えるんだよ」

パパの話に、ママは大きく溜息をついた。

 

2032年の今、人類には重大な選択が迫られていた。

『ノアの方舟計画』には、世界中で賛否両論が渦巻いていたのだ。

パパが言うように、この計画はごく一部の富裕層だけが、温暖化でもはや安全に住めなくなった地球を脱出するための、まさに現代版『ノアの方舟』ではないかという、強烈な反対意見が沸き上がっていた。

広大な宇宙の中で、この地球こそがノアの方舟のはずなのに、人類はあろうことか、自分たちが乗っている方舟に火をつけ、空気を汚し、ゴミだらけにしてしまった。このままでは、一緒に乗っている他の生物もろとも、絶滅してしまうほかはない。

計画に反対する多くの人々は、この先人類が生き残るためには、限られたごく少数の人間だけが地球を脱出するのではなく、地球という方舟そのものを再生するという選択をすべきであり、『ノアの方舟計画』は、そのためにこそあるべきだ、と主張していたのだった。

 

「それじゃパパは、ママが月に行くことには反対なの?」

未来はがっかりして尋ねたが、意外にも、パパは首を横に振った。

「いや、ママにはどうしても、このプロジェクトに参加してもらいたいと、パパは思っているよ」

「え、そうなの? どうして?」

未来より先に、ママが訊いた。

「ママは生命科学では、世界一の研究者だとパパは思っている。だから、ママにはこのプロジェクトが本当に地球の生態系のためになるのか、それを見極めてもらいたいと思っているんだ。そのためには、実際に現地に行って、確認する必要がある。もし万一、パパが心配するような、おかしな計画だったら、それをママにきちんと正してもらいたいんだ。それができるのはママしかいないと、パパは思っている」

それを聞いて、ママは迷いが消えたようだった。

「ありがとう。私にはそんな力があるとは思えないけど、科学者として、正しいと信じることには最善を尽くしたいと思っているわ。それが、大切な家族を守ることにもなると思うから」

 

夕方、未来はいつもの海岸に行った。昨日、メタバースで突然姿を消してしまったことに、陽葵(ひまり)は怒っているだろうと思い、彼女にお詫びのメールを送って、ここに誘ったのだった。

「昨日はごめん」

「うん、突然いなくなっちゃうんだもの、びっくりしたわ。何があったの?」

未来は昨日の病院でのいきさつに続いて、ママに届いたメールの件を興奮気味に話した。

「ほんと!? すごいじゃない。未来のママは優秀なのね。それで、いつ行くの?」

「うん。予定では、半年後にはアメリカに出発するんだって」

「そんなに早く? それじゃ、寂しくなるわね」

「平気さ!」

未来はまっすぐに海を見つめて言った。その声にはどことなく、心細さが滲んでいた。夕日が穏やかな海を赤く染めている。陽葵は未来の様子を窺った。

「大丈夫! 私がそばにいるから」

それから二人はただ黙って、遥か彼方の水平線にゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていた。

太陽が完全に沈んでしまうと、陽葵は突然、未来の頬にキスをした。

未来が驚いて横を向くと、陽葵はさっと立ち上がって、

「じゃあ、またね」

と言うが早いか、一目散に駆け出して行ってしまった。

未来の顔は、まるであかね色の空を映したように、真っ赤に火照っているのだった。

 

1年後、ママは月に向かうロケットの中にいた。

未来は、パパとばあにゃといっしょに、テレビで打ち上げの様子を、固唾を呑んで見守っていた。未来の横には、陽葵がぴったりと身を寄せて座っている。二人はしっかりと手を握り合っていた。

打ち上げのカウントダウンが始まった。

…、3、2、1、0

次の瞬間、高く舞い上がった白煙の中から、すさまじい轟音とともに、超大型ロケットが再び姿を現した。ロケットはまばゆい炎を噴射しながら、ゆっくりと天に向かって昇っていく。

そのとき一斉に、拍手と歓声が湧き上がった。

「やった!」

パパがテレビに向かって叫んだ。ばあにゃの目には、涙が浮かんでいる。

未来は思わず陽葵の手を握りしめた。陽葵も握り返してくる。

ママ、絶対、無事に帰ってきてね!

 

(終わり)

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