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私の初めての日本訪問

私にとって旅行はいつもとても楽しいことです。新しい場所や新しい人々に会いたいという私の願いは、生きたいという願いと同じくらい強いかもしれません。 この願望のゆえに、私は5つの大陸、7つの海を訪れ、そして初めて旅支度を整えたときから35年ばかり経った今日でも、その願望は衰えていないのです。

「さくら」と「こころ」

1930年代に日本を訪れ、「日本と中国の旅行」という本の中で日本についてとても興味深い説明をしている有名なギリシャの作家ニコス・カザンツァキスは、 横浜に到着したとき「さくら」と「こころ」という2つの日本語を知っていました。私が羽田に着いたとき、私は単語のひとつも知りませんでした。

1972年のことで、私は20代前半、旅行の経験は皆無。 アテネでKLMの初期のジャンボジェットに乗り込み、ベイルート・ニューデリー・バンコクそしてマニラを経由し、約24時間後に東京に着きました。午後10時頃でした。
空港で私を出迎えてくれた笑顔は、互いに競って面倒を見てやるから安心しろと言っているように見えました。
どうにかこうにか予約を入れたホテルは私にはちょっと分不相応なほどに高いところで、私は日本での最初の夜を贅沢に過ごすことになりました。

どうやってホテルから東京駅にたどり着いたか覚えていませんが、大都市であることや人の数の多さに驚いた記憶はあります。 東京と同じぐらいしか人口のない国出身で、しかも一番高い建物でも6階建てであるような首都アテネで育った私は、初めて自動車を見た田舎の子供のような感じでした。
とても混乱して私は駅の構内をうろうろし、広島行きの新幹線のしかるべきプラットフォームにやっとたどり着いたときには、すでに何本か乗り損ねていたと思います。
検札係が私に何事かを理解させようと努力していたのですが、徒労に終わりました。彼は向きを変えて、立っていた何人かの乗客になにか話しかけ、それから業務を続けていきました。 私が指定席に座っていたこと、そしてその席の本来の指定席券を持っていた人がとても礼儀正しい人だったので、 私をその席から放り出すことをせずにずっと立っていたのだということに気づいたときは、すでに大阪に到着しようとしていました。

私が広島についたときは5月の終わりで、梅雨が始まったばかりでした。私は東京での過ちを繰り返さないように注意して、安い旅館に予約を入れました。 宿を仕切っているらしい二人の中年女性は、私が靴を脱ぐのを忘れて上がってしまうたびに絶望的な声をあげていました。
1945年に広島を襲ったあの災害の爪痕はどこにもなく、活き活きとして騒々しい元気な都市でした。人間の野蛮さを思い起こさせるものは何もありません。 あの爆弾で生き残った人々の痛みや苦しみを思い起こさせるものも何もありません。その後の世代によって担われた重荷や聖痕を思い起こさせるものも何もありません。 何にも! あの地獄の唯一の証人であるひしゃげた金属のドームと、いつも祈る人々のいる記念碑を除いては。

人々が私にいかに親切であるか、彼らが私とコミュニケーションをとろうとどれだけ努力してくれているかを知って、私は本当に幸せでした。全く言葉が分からず、ジェスチャーを理解することすらできなかったにも関わらず。

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