見出し画像

この世のルール設定を本気で考察してみた③

前回の続き
“観測行為のプロセス”の、今回は「観察する側」について考えてみます。


ミクロ・マクロ関係なく、全ての「個」の観測という行為を同じ原理と仮定し、図のように表してみました。


自分を発振点とした「空間内すべて(個の円の中)」が自分です。

空間内に「個」である自分と、「全てに属した」自分の要素を持ちます。

「全てに属した」と書いているのは、個と全ての間にある「情報場」に蓄積されるとする情報の中に、自分が空間の維持及びその表現で作り出してる対称性を保つための情報が、位置と量も含め記録されていると考えます。
なので、全ての中ではあるけど、うっすら自分の成分が濃い部分、と捉えて頂ければと思います。

その「全てに属した自分」も入っている根拠として、「個」のみの独立した存在で観測すると、自分が個であるという事自体が分からない為です。

「全体」という対称になる概念を知って(持って)いないと、「個」の認識はそもそも存在しないも同義なのです。

無人島で生まれ育ったら、自分が独りだという事は感じようもない、というようなことです。

イメージして頂きたいのですが、例えば普段歩きまわっている時、目は前についているので視界は目の前に広がっていると思うのですが、同時にその視点だけでなく、「私は歩いてる」という認識のもと、空間を把握しながら位置と時間経過を察している自分もいると思います。

そうでないと、見えていない部分に対しての補足が出来ず危険ですし、「私は歩いてる」という「私」を包括した視点は持てません。

目の前に広がっている景色を観測しているのが「個」としての自分で、その個を更に観察している「全体に属する自分」がいると思って下さい。

じー

そう考えると、私たちが感じることの出来る感情は、逆の感情を獲得済のものだという事になりますね。

人生の経験の中で覚えたものもあれば、持ち越してきているものもあると思います。


で、その個と全体セットの状態で、対象に対し観測の矢印を飛ばします。対象に到着した矢印は観測結果を持って帰る為こちらに戻ってきます。

行って→  戻る←  観測エネルギーの往復で、観測行為は成立します。


戻ってきた結果は、私である空間界面を通過し、空間内を経由し中心点に着地します。

空間内には、「私」を維持するための定義があり、個々独自の媒質が形成されてる可能性があると考えます。

その空間内を観測結果が通過するので、「私」の定義の構造によって、結果の粒は大なり小なり左右され観測されます。


家族や友人という近しい関係なのに、同じ事象に対しての見方が、何故こうも違うんだろうと思ったことはないでしょうか。

それは、同じ対象を観測しても、その個々の空間内の定義構造による干渉があるためと考えます。

なので、個々の言っていることは、その空間内において全て“正しい”のです。


呪術廻戦の領域展開は、独自の媒質をよく理解し、構造を育て上げ、利用する為に相手にも観測させるよう具現化させたものと考えます。

呪術廻戦 芥見下々


次回は「こちらが観測される側の場合」について書きたいと思います。


#探究学習がすき
#つくってみた


この記事が参加している募集

#つくってみた

19,255件

#探究学習がすき

7,431件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?