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029_Olive Oil「Full of Special Memories」

洗濯物はもう乾いたかな、とか、あの本、フリマアプリで売れたかな、とか。どうにも、取り留めのない考えばかりが頭の中を流れていき、シャボン玉のように浮かんでは消えていった。新しい小説のタネなんてのは、脳裏にはこれっぽちも浮かんでこない。

土曜日の穏やかな午後、僕は自分の住む「コーポ萩の道」の中央の階段から、小さな春の小川に咲く花を見つめている。たまにおばあちゃんが手押し車を押して、小川沿いを通り過ぎていくのを横目にしつつ、昼間からチューハイと少し湿ったポテトチップスで空腹を満たす。

なんで、昨日の話断っちゃったんだろう。自分にとっては、いいチャンスだったかもしれないのに。自分には変なこだわりのようなものがある。自分が見知っている人が、自分の知らない場所で普段とは違うことをしているのを見るということが、うまく言い表せないけれど、なんとなく気恥ずかしいのだ。それを見直せる機会だったかもしれないのに。

こんな経験がある。小学校の担任だった女性教師が、地域のコーラスサークルで合唱をしているからということで、区民センターまで友達と一緒に見にいったことがあった。どうにも気恥ずかしくて、一生懸命に歌っている先生の顔がどうしてもまともに見れなかったのだ。あの感覚はなんでだろう、先生は学校で先生をやっているからこそ、先生なのだ。それ以外の場所で、先生が先生ではないことをしていると、途端に自分の中だけでその人の輪郭がずれてしまうような気がして、不思議と居心地が悪くなってしまう。

自分の両親にも似たような感情を覚えた経験がある。例えば、父親が職場で仕事をしている写真などをアルバムで見せてくれた時などがそれだった。どうにも違和感しか覚えない。父親は家でグータラしたり、庭でゴルフのパットの練習をしているからこそ、父親なのだ。それが写真の中では難しそうな機械の点検をしていたり、真剣な表情で点検表に記入していたりする。どうにも見ていて居心地が悪くて、写真から顔を背けてしまう。

こういう自分の中で説明できない違和感というか居心地も悪さというものについて、自分はなんとかその正体を探りたいと、物心ついた時から思っていたのだ。他人にも自分にも上手く言葉に言い表せないこの具合の悪さ、筋の悪さの正体というものを。

昨日のバイト先仲間同士の飲み会の後、駅への帰り道で種岡さんがまだ少しほろ酔い気分なのか、ふわふわした表情をしている。少し足取りがおぼつかない様子で、上下に揺れるたび、茶色がかったパーマの縮れ毛がふわっと舞う。プイッと後ろを振り返って、自分を見つめる。

「よかったら、これ私出てるから、見においでよ」種岡さんが薄い栞のような紙を自分の目の前に差し出す。「空気の通り道」。紙にはなんとも薄い頼りなさそうな文字でそのように書いてあり、日にちと開始時間も添えてあった。たぶん、何かしらの催しの題名なのだろう。いわゆるチケットだ。

「私、前から、ちっこい劇団で活動している、って話したことあったっしょ?それ」種岡さんは、さもなんでもないように軽やかに話す。種岡さんは屈託のない顔でニコッした。お気に入りの男の子に週末にピアノの発表会があるから見にきて欲しいと伝える女の子のようだ。招待するのは当たり前。全く気恥ずかしさのようなものは、感じられない。

「へー、あ、そうなんすか」

「ちょうど、明日の夕方。チケット余ってて。バイト先の子、誘うことないんだけど。まあ君なら、って。暇なら来てみて」

その瞬間、自分にあの女性担任のコーラスを見た時の、小学生の時の自分の居心地の悪さがフラッシュバックした。そこで、考えてたり、悩んだりする暇がなかった。

「すいません、明日の夕方は予定があるんです、ゴメンなさい、せっかく誘ってもらったのに」本当は明日自分に予定などない。ただ自分は反射的にそう回答していた。

「あーそうか、いや全然。ホントただの暇つぶしみたいなもんだから」種岡さんは、さも当然だというように、特段残念がった表情も見せない。それが逆に、自分の中で引っかかった。なんでなんだろう?この自分の居心地の悪さは。

種岡さんが一生懸命、舞台で演技している場面を想像してみる。舞台の上で、種岡さんが笑ったり喚いたり怒ったり、たまにセリフを飛ばしたりするけど、焦らずそれらしい自然な態度で、いつも通り飄々とした佇まいを崩さない。(自分は演劇など実際に観にいったことがないので、ここら辺はほとんど想像だ)

その舞台上の種岡さんは、バイト先で軟骨唐揚げを皿に盛り付けているあの種岡さんとはどうしても別人なのだ。どうしても同一人物などと思えない。自分の中で肚に落ちない、得心がいかないというのだろうか。どうしても、その場から逃げ出したくなる。だから、種岡さんの舞台は観に行けない。

朝から、ぼんやりとそのことばかり考えている。考えては消し、考えないようにしては、逆に無理矢理肯定してみせる。牛が食べた草を自分の胃腸から反芻しているのに似てる。一体なぜ、ここまで自分はこだわるのだろう。行けばいいじゃないか、気になるのならば。バイト先の同僚の新しい一面を発見するのに、なんの躊躇する必要がある?

自分はどうしても自分で分析しきれない感情やこだわりがあるときは、文章に書いてきた。そして、ありのまま書き綴りすぎると、どうしても自分の中で生々しくなってしまうので、自分の中でフィクションという形に置き換えることにして、小説といった体裁に整えることにした。それで不思議なもので、自分の心の中の粗大ゴミのようなものを処分・整理している気になっている。

そのように、「自分のモヤモヤは小説のタネにしよう」と決めてから、高校時代から書き連ねたノート帳はもうすでに数十冊。フリーターとなった今も、部屋の隅に積み重なっている。こいつらは、自分から生み出されてきたものではあるものの、話の筋や起承転結などがある代物ではないので、人に見せるわけでもなく、どうしようもこうしようもできない。

やっぱり気になる。別に、種岡さんが好きとか嫌いじゃない。全く別の次元で、「なぜ自分がそう感じるのか」に対して、どうしても気になって仕方ないのだ。携帯を取り出して、種岡さんに対してLineでこう打とう。「予定が急に空いたんで、昨日言っていた舞台観にいきたいんですけど。チケット受け取れますか?」これだ、これを送るだけでいい。

ダメだ、やはり無理だ。どうしても、Lineを送れない。あの居心地の悪さ、違和感が邪魔をする。なんなんだろう、何をこだわっているのだろう、この感情は何にも自分の役に立つわけではないし、他人との関係においても全く意味を持つわけではない。なんでこんなことで悩まなければいけないんだ?みんな、こういう意味不明な感情で、こんな風に苦しんだりしていないんだろうか?

僕は缶のチューハイを飲み干して、深いため息をついた。


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