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077_Robert Grasper Experiment「Black Radio」

ソファに座っていると、若干の湿気を帯びた夜風が心地よい。梅雨時の雨とその時期特有の草花の混じった匂いを嗅ぐのが好きだ。暑くなる前、だんだんと夜は過ごしやすい季節になった。俺は缶ビールを開けて、ボーっとして窓から入る風でゆらめくカーテンの先を見つめていた。

結局、彼女からあの先の言葉は聞けなかった。今はまだ聞くべきではないかもしれない。とりあえず、彼女はまず自分で自分を癒す必要があるのだ。彼女は本質的に強い女性だ。別にこれ以上誰かの助けがなくても大丈夫かもしれない。だが、俺もできる限り力になってあげたい。それはたぶん、下心とかそんなものではなくて。彼女の人となりに惹かれているから。

4月に配置換えで、仕事のカウンターパートとなった香崎さんは非常に優秀な女性だった。俺は技術職採用なので、自分の専門的なことだけに習熟していればそれでいいのだが、総合職採用は今後の会社全体の運営に関わることになるのでそうもいかない。彼女は男女含めても総合職採用の同期の中でも抜群のエースらしい。調整能力や対人スキルも申し分なく、物腰は柔らかいのに仕事には突破力がある、いろんな人からの頼まれごとを一手にこなしていて、それでいて明るく快活で何よりメガネが似合っていた。(俺はメガネが似合う娘に弱い)

継続案件について、週間の進捗を互いに報告するため、いつものように香崎さんとMTGをする算段をつける電話をしたときだった。この案件では、俺が技術サイドからの知見を述べて、彼女が他社やクライアントとの窓口になっている。MTGのたびに、驚くべきスピードで仕事が前に進んでいて、俺は彼女の手腕に舌を巻いていた。今回の案件も成功して、彼女はまた跳ね馬のように次の案件をこなしていくだろう。そうなると彼女との調整する機会が無くなってしまう。一抹の寂しさを俺は感じていた。いつもの電話口での明るい彼女の声が聞けなくなることを。

「もしもし、技術調査部の今井です」
「、、、、あ、はい、あ、今井さん」
「もしもし、香崎さんですか」
「あ、今井さん、ですか。ちょ、ちょっと、ごめんなさい、かけ直していいですか」
「?あ、いいですよ、すいません、何か取り込み中でしたか、わかりました」

俺は一旦電話を置いた。彼女のいつもと違う様子を感じ取っていた。まるで新入社員がはじめて仕事の電話を受けてみたいな対応だったが、ほんの少しだがまた違う違和感があった。あの声のトーンと動揺の具合、仕事でどうこうあった、というより、個人的な事情、というものが入り混じっている気がする。それは、あくまで俺の推測でしかないが。

プルルルル。電話が鳴る。
「もしもし、今井です」
「すいません、先ほどは。香崎です。あの、MTGの件ですよね」
「はい、できれば、16時からお願いしたくて。あと主任の山下が別件対応中で、私だけの対応になりますが、よろしいですか」
「はい、わかりました」

彼女が聞き取れるか取れないかのか細い小声で、なんとなく(よかった)と言っている気がした。主任の山下は、柔道をやっていて大柄で声のでかい奴だった。話が盛り上がってくると、関西弁になる。ああいうデリカシーのない奴は、たぶん香崎さんは彼が苦手なのだろう。

MTG場所となっている会議室に、俺一人で待っていた。少し来るのが早かったかと思って時計を見ても、もう定刻通りだった。やっぱり珍しい、彼女が時間に遅れるなんて。少しして、彼女がバタつきながら部屋に入ってきた。いつものような朗らかで快活な感じはせず、オドオドしているというか、明らかに何かに動揺している。まるでサバンナで行き場を失った草食動物のようだった。

「あの、すいません、遅れまして…」
「香崎さん、あの、なんか、調子悪いみたいですね、いいですよ、今日はリスケにします?」
「いえ、体の調子が悪いとかじゃないんです。ただ今日は色々あって」
「まあ、そりゃ、生きてりゃいろいろありますからね」

俺はあえて、自分がリラックスした顔を彼女にむけてみた。今、会議室には俺と彼女しかいない。いきなり、仕事の話をはじめるより、俺は開襟を開くつもりで、まず彼女の動揺を解いた方がいいんだろうと察した。俺はなんとなく、こうなるだろうことは予想がついていたので、途中で買っておいた缶コーヒーを彼女に差し向けた。

「まあ、どうぞ」
「え、ああ、なんかすいません、そんな」
「いや、たぶんなんか香崎さん、頑張りすぎなんでしょ。すごい毎日忙しいですもんね」
「ええ、まあ、仕事はいいんです、私も好きで忙しくしてるんで、それは。仕事をしていれば、色々忘れられますし、ただ…」

そのあと、少し押し黙って彼女は言葉を選んでいるようだったが、なんとなく話してはくれそうだ。沈黙でも、それは幾分か親しみ深い沈黙だった。俺のことを信頼してくれているのだ。俺は彼女が自分から話し出してくれるまで、いつまでも待つつもりでいた。あいつには悪いが、ちょうど今日、山下がいなくてよかった。

「あの、本当に個人的なことで、すいません、なんか。実は、私、今、付き合っている人がいて。彼とは、もう一緒に住んでいるですけど」
「ええ」
俺は彼女の発言に少なからず、ショックもあったが、今は彼女の話を聞いてあげるのが先だ。
「なんというか、たぶん彼、仕事とかいろいろうまくいっていないみたいで、たぶんむしゃくしゃしているんだと思うんです」
「そういう時は誰でもありますからね」
「それで、最近、私にあたってくることが多くて。この前も、モノを投げつけられて、すごく怖くて。なんか、身の危険を感じたというか、というか、前にも一回あったんです」
「暴力ですか」
「いや、ホント大したことじゃないんですよ、あの、DVとかそんなんじゃ。ただ、ちょっとぶたれた、というか」
「でも、怖かったって」
「怖いのは怖いです、本当はすごく優しい人なんですけど、高校からの付き合いで。もうずっと長く一緒にいるんで、なんでこんなことになっちゃったのかなって。たぶん、彼、職場で孤立しているみたいで。彼が言うには、なんですけど。たぶん辛くて色々と視野が狭くなっているとは思うんですけど」
「はい」
「それで、俺はお前みたいに優秀じゃないんだって、さっきもすごい長くて恨みがましいメールが来て。もうなんか怖くて全部見られなくて。これは、ああ、無理だーってなっちゃったです。すいません…」
「そうですか」
「いきなり、こんな話しちゃって、すいません、正直、今井さんでよかったです」

彼女は吐き出した言葉の重たさに自分でも動揺していたようが、それで少し楽になったようだった。もやもやとして不安な気持ちを自分の言葉で整理すると、それだけでも気分は変わる。俺は傾聴という言葉を知っている。長いこと女性が抱える問題に向き合ってカウンセラーをしていた母の教えだ。俺はずっと彼女の涙を溜めた潤んだ目を見て、穏やかに相槌を打ち続けていた。

「今日は彼の待つ家に帰らないほうがいいですね、別のところに泊まった方がいい。できたら、距離を取った方がいいです」
「え」
「いいですか。たぶん、そのままではあなたはまたいつか彼からDVを受けることになります。実際、怖いんですよね」
「怖いです、すごく。それと」
「それと?」
「なんで、彼があんな風になっちゃったんだろうって、それがつらいんです。私ができることあったんじゃないかって。私、いつも仕事が楽しいとか忙しいけど面白い、とかそういう話、無神経に彼にしていたから、それが余計に彼の負担になったのかなって」
「それはあなたのせいじゃない」
「はい」
「いいですか、彼が仕事先で孤立されているのはとても残念なことです。ですが、それによってあなたが彼から暴力を受けるいわれなどは全くない。彼との関係について、あなたが罰せられるようなことは何一つもないのです。そこは自分の身を守ることを考えてください。自分の身を一番大事にしてください」

何百人の女性の悩みを聞いてきたカウンセラーの母の言葉を、俺はいつの間にか借りていた。母もこの仕事が好きだと、俺にはいつも嬉しそうに誇っていた。あなたは暴力を受けるいわれなどあるわけはない。涙ではなく、いつもの快活なあなたの笑顔を俺に向けてほしい。

「俺で良かったら、いつでも相談してください。力になります」
「はい、ありがとうございます。すごいですね、今井さん、それであの」

その時、会議室の電話が鳴った。会議室を使える時間も迫っていたので、他部署の人が問い合わせてきたのだ。俺たちは結局、仕事の話はしなかったが、いつの間にか、1時間程度話していた。2人とりあえずバタバタと出て行かざるをえなかったが、彼女は少し表情が明るくなった。彼女は缶コーヒーは飲まなかったが、か細い上で大事そうにそれを抱えて、しおらしく会議室を出て行った。

「では、また」
「ええ」

ああ、結局、だいたいいつもこうだな。俺は。
それで最後、彼女はなんて言おうとしたのかな。まあ、もう、いいや。俺はMTG用のノートを小脇に抱えて、窓からビルの谷間に落ちる夕日を見ながら、ネクタイを緩め、缶コーヒーを飲んでいたとところに、山下が近寄ってきた。

「あ、今井さん、MTG終わってたんすね。いやあ、すいません、行けなくて。あのね、進めていた商品の企画で先方がいきなりよーわからんこと、ふっかけてきよったんですわ。もう、今更ね、あいつらホンマ頭おかしいんちゃうか、と思ってぶっちぎって、今帰ってきたとこなんですわ」

山下はガハハとでかい声を出して笑っていた。
今日、コイツがいてくれなくて本当によかったと思った。










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