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042_Efterklang「Tripper」

真夜中から降り続いた雪は深々と積もって、校庭のグラウンドや遊具も何かもすべて真っ白になってしまった。全く違う異世界にでも迷い込んだみたいだ。朝、この雪に埋もれた学校の前で、私は一人佇んでいた。誰の声も聞こえてこない。

静かに降る雪だけが、あらゆる音を飲み込んで、歩く自分の息遣いしか聞こえない。雪は世界を静かにしてくれる。強制的にシャットダウンされてしまったかのような、この静寂の世界が、私は昔から大好きだ。

ここにいるのは私一人だけ。寂しいとかそういう気持ちは感じない。雪が降っていない時と、心の持ちようが違う。まっさらで、今なら自分の心の声もよく聞こえるようだ。そう、たぶんいくらでも正直な自分の気持ち、伝えられるのにな、もう遅いな。彼はすでに行ってしまった後だから。翔ちゃんはもう、一年中、雪が降らない土地の高校に進んでしまっていたから。

ちっちゃな頃から彼と雪の中でよく遊んだ。私の通ったこの村の小さな小学校で、同級生は私と翔ちゃん二人だけだった。この小学校の校庭で、雪だるま作ったり、雪のお城を作ったり、大人が声をかけるまで、この静かな空間の中で、いくらでも二人で夢中に時間を過ごせた。特に会話はいらない。この降り積もる雪を通して、二人はずっと同じ白い世界を見ていた。

もうとっくに手はかじかんでしまって、まつ毛の上には白い雪が細かく積もる。だけど、もこもこに着膨れた私の服の下は、こうやって存分体を動かしている分、温いどおしで、まったく子供の体には、寒気などは感じなかった。

「うー、つめた」
私が長くずっと雪遊びを続けていると、さすがにおばあちゃんの編んでくれたこの毛糸の手袋にも雪の水分が染み渡ってきて、指先が直に濡れてきてしまう。
「どした」
それに気づいた彼は私に駆け寄った。
「手袋の中、濡れてもて」
「どれ」
彼が手袋を外した私の手を取って、自分の手で温めてくれる。彼の手は私と違って温かい。

「あったかい。翔ちゃん、ありがと」
「うん」

さも当然のように、彼は頷く。翔ちゃんはいつも優しい。時折、お腹すいたなと私が呟くと、いつもポケットからチョコのお菓子をくれる。翔ちゃんのお母さんが、彼に渡していたものだ。彼は決して独り占めせず、雪のない屋根のある場所で二人で分け合って食べた。じんわりと口の中に溶けて、甘さが広がる。同じようにお菓子を口に頬張る彼の横顔を見つめる。その黒く深く綺麗な瞳の中に、ただ真っ白い世界が映っている。

お互いの手を取り合うこと、分けあうこと、温めあうこと。この冷たい雪が降り続く世界の下では、それはすごく当たり前のこと。春を待つ野生動物たちも、昔この地に住み着き土地を開墾して田を耕してきた私たちの先祖たちも、皆、そうやって身を寄せ合って、この厳しい冬を過ごしてきたんだ。

こうやって静かな降り積もる雪の中で、二人手を取り合って見つめ合っていると、この世界にたった二人だけしかいないようだ。私は不思議な気持ちになった。お母さんもお父さんもいない、おじいちゃんもおばあちゃんも、学校の先生も村役場のおじさんも。目の前の翔ちゃんと私しか、この静かな世界に二人ぼっちだ。でも寂しい気はしない。この手のぬくもりだけが、その証拠だ。

小学校の時はずっと一緒だった。この校舎で学ぶ時も、こうやって雪の下で遊ぶ時も。教室と家にいない時間は、ずっと翔ちゃんと二人で過ごす。雪の中で、彼は言葉少なだ。ただずっと彼が湯たんぽみたいに「温かい」子だということは知っている。私はそれだけでよかった。

ただこの小さな小学校を卒業し、少し離れた中学校に通い出すことになると、二人ぼっちということも無くなった。雪に埋もれた小さな小学校の校庭で、暗くなるまで、ずっと二人で遊び通すということももうない。雪の下の二人以外の人間関係をそれぞれが作らなければいけなくなったのだ。

彼は、頭がよくてすごく勉強ができる。先生によく褒められる。すごいな、翔ちゃん、ずっと小学校の時は、私と雪だるま作って遊んでいただけだったのに。雪の下では使われることのなかった力と未来がいつの間に彼に備わっていることに、私は羨望の眼差しをずっと向けていた。

「九州に、東大とかに毎年いっぱい入学者を出している、全寮制の厳しい進学校がある。そこに入って、自分の力を試そうと思う」

村の図書館は、私たちにとって、静かな勉強場所。休日の受験勉強でよく使うようになった。窓から降る雪を見つめながら、翔ちゃんは、言葉少なく、熱っぽく話す。九州か、この村と違って、一年中雪の降らない土地だ。私には想像がつかない。

「九州、一年中あったかいよなあ。ここみたいに雪降らないん?」
「たぶん、降らんやろなあ」
「雪の降らない場所とか、全然そんなん考えられん」
「そうやな。亜紀はどうするの」
「私は、二高かな、ここからバスで通えるし」

翔ちゃんは雪の降らない場所で、そこからさらに先に見えていくだろう広がっていく世界を見つめている。私はずっとあの日から、この場所で毛糸の手袋をつけて雪だるまを作っているまま。九州とこの村では違う時間が流れている気がした。この雪の下では平等に流れる同じ時間を過ごせていたはずなのに、雪のない世界では二人の過ごす時間は全然変わっていくんだろうな。

「俺はこの国全体に関わる仕事がしたい。それには東大に入らないと。亜紀はどうするん」
翔ちゃんから、「国」という言葉が出てきて、一瞬キョトンとした。そんな大きなことのこと、考えられない。私は雪の降るこの場所のことしか考えられない。

でも翔ちゃんは、どんどん若い人が減っていって、お年寄りだけになっていくこの村のことをいつも考えていた。この村は「かそか」しているんだそうだ。
「なんとかしたい」彼がそう言っているのを聞いた覚えがある。翔ちゃんの家の畑、もう耕さなくなるそうだ。耕作放棄。翔ちゃんのお父さんも農業以外の違う道を探していると、お母さんから聞いた。

「私は」
苦しい。少し息を吸い込む。
「私は、たぶんここにいると思う」
「そうか」

私は、翔ちゃんの手を握りたかった。彼がかじかんだ私の手を握ってくれた、あの雪の日のように。雪が降る下で、ずっと彼とここにいたかった。

翔ちゃんがこの村から離れて1年。二人が通ったこの小学校も廃校が決まった。あの時の、彼の手の温もりがずっと、今でも私の手に残っている。あの時、見つめた彼の瞳の中には、白い雪と私の姿しか映っていなかった。

この世界に、ずっと雪が降ってくれていればいいのに。私と翔ちゃんだけだったら、よかったのに。私は子供じみた叶わない望みを胸に、誰もいない小学校を名残惜しそうに去っていく。


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