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【R-18】ヒッチハイカー:第38話(最終話)『南へ行きたかった… そいつの夢の行方…』

「うっぎゃあああああーっ!」

 伸田のびたの仲間達4人の亡霊ぼうれいに左腕をらわれたまま逃げる事の出来ない蠅の王ベルゼブブの腹部に伸田のびたが突き付けていた自動拳銃ベレッタ90-Twoの銃口が火をいた。

 どう考えても、完全な魔人と化した蠅の王の強靭きょうじんな筋肉をつらぬく事など到底出来ないと思われた9mmの拳銃弾が、へその右横にちっぽけな穴を穿うがった。その腹に開いた小さな銃痕じゅうこんの奥から青白い光を放ちながら白煙が穴の外へれ出て来た。

「うがあああああっ! き、貴様っ! そのけがれた弾丸たまを! よっ、よくも俺にいぃっ!」

 大声でわめきながら痛みと苦しみに激しく身をよじる蠅の王の全身がビクンビクンと大きく痙攣けいれんし始め、その度合いは次第に大きく激しくなっていく。
 苦しいのだろうか? 額から玉の様な汗がき出した彼のギリシャ彫刻の様に端正たんせいな顔には、それまでに見せた事の無い苦悶くもんの表情が浮かんでいた。
 蠅の王の露出した腹部表面に開いた直径わずか10mm程度しかない銃弾の射入口しゃにゅうこうが、辺縁へんえんを青白い炎を上げてゆっくりと焼きがしながら広がっていくのと同様に、背中まで貫通する事無く腹の中にとどまった破魔はまの銃弾である『式神弾しきがみだん』が内部からも彼の身体を焼いているのだ。
 腹に開いた銃痕からは止まる事無くブスブス音を発しながらと白煙が上がり、蠅の王の身体を穴の内と外から焼き続けていく。しかし、彼にはどうしようも無いのだった。
 それはまるで、果てしなく続く拷問ごうもんの始まりの様で、今までに彼が自分が手に掛けた犠牲者達に対して行なって来た残忍な所業に対するむくいであるとも思えた。

 蠅の王を捕らえていた4人の亡霊達は、そこまで確認すると、自分達の役目が終わった事を理解したのか、各々がしっかりと蠅の王をつかんでいた手を放した。そして、蠅の王から離れた半透明の亡霊達は、意識を失いかけていた伸田のびたに身体を向けた。通称ジャイアンツこと幸田 剛士こうだ たけしの霊が4人を代表する形で伸田のびたに告げた。

『おい、ノビタ… ガキの頃から弱虫で泣き虫だったお前が、ここまで本当によくやったぜ。俺達みんなのかたきを、よくぞってくれたな。ありがとよ。
 お前の事はガキの頃からスネオと二人でイジメてばっかだったけど、ホントは俺達二人ともお前の事を「こころとも」だって、いつも思ってたんだぜ。これは絶対にウソじゃねえからな。
 もう俺達の役目は終わったみたいだから、これで行く事にするぜ。なあに、お前とはまたいつか会えるさ。シズちゃんとはらの中の赤ん坊によろしくな。俺達のマドンナを、お前がしっかり守ってやるんだぞ。でないと化けて出てやるからな。
 それじゃあ、行くわ。あばよ、ノビタ。心の友よ…』
 剛士が語る間、他の3人の霊達は伸田のびたを見つめながらうなずいたり、すすり泣いたりしていたが、剛士が語り終えると皆が伸田のびたに対して手を振ると、4人そろって吹雪の舞う上空へとスーッとのぼって行った。
 残忍ざんにんなヒッチハイカーの手によって非業ひごうの死をげた彼らは、ようやく昇天出来たのである

「あ…ありがとう、みんな…」

 ほほに伝う涙が止まらない顔を4人の消えていった方向へ向けて、苦しげな表情にかすかな笑みを浮かべてそうつぶやいたかと思うと、伸田のびたの手から握りしめていた自動拳銃のベレッタ90-Twoがポロリと落ち、はるか下の地上に向かって落ちていった。彼にはもう、銃を握りしめる握力さえ残ってはいなかったのだ。
 ベレッタを取り落とした伸田のびたは自分のふるえる手を見て力なく苦笑すると、前方でもがき苦しんでいる蠅の王に目を向けた。

「ぐ、ぐおおおお! イ、イヤだ!
 お、オレの身体が…き、消えていく… こ、こんな所で、死にたくない! お、俺は無敵の存在に生まれ変わったはずだ! こ、こんな虫ケラみたいな人間の小僧に、この俺がやぶれるというのか!」

 はじ外聞がいぶんも無く子供の様に泣きわめきながら、痛みにえかねた蠅の王がきむしろうとした腹に穿うがたれた小さかった銃痕じゅうこんは、今ではかなり大きく広がっていた。
 ただし、広がりつつあるとは言っても、穴からは血やリンパ液等に相当そうとうする蠅の王の体液は一切いっさい流れ出てはいなかった。そういった液体類でさえ、一滴残らず消滅していくのだろう。
 そして、傷口の辺縁へんえんがしながら穴を広げる様に焼き続ける青白い炎は、吹雪に吹かれても決して消える事は無かった。それは、体表面に開いた銃痕による穴だけでは無く、貫通する事無く体内に留まった『式神弾しきがみだん』自体が蠅の王の肉体を内部からもめっし続けているのが容易よういに想像出来た。

「ぐわああああ…」
 体内の『式神弾』に生きながら肉体を焼灼しょうしゃくされ続ける蠅の王は、背中の翼を羽ばたかせてかろうじて空中を飛行しながらも、身をさいなむ激痛にもだえ苦しんでいた。

「や、やった… つ、ついに…ヒ、ヒッチハイカーを…」
 薄れゆく意識の中で蠅の王の苦しむ姿を見て、そうつぶやいた伸田のびたの力を失った身体が腰の部分からガクンと二つに折れそうになるが、背中に装着した『ウインドライダーシステム』のバックパックに装備された6基のローターがかろうじて回転を続けている事で揚力ようりょくたもち、墜落ついらくをどうにかまぬがれていた。
 もしも地上約200mもの現在の高度から落下すれば、いくら地面に雪が降り積もっているとは言っても、伸田のびたの全身の骨は粉砕ふんさいされ、全ての臓器は破裂してしまうだろう。地面に激突すると同時に即死そくしする事は間違い無かった。
 だが、装着者の脳波で誘導される『ウインドライダーシステム』は伸田のびたが完全に意識を失った時、その機能を停止してしまう事だろう。それがそう遠くない未来である事は伸田のびた自身にもよく分かっていた。

 今の伸田のびたにとっては、出血多量によって失血死しっけつしするか、地面への激突死かどちらかしか選択肢は無かった。しかも、結果がそのどちらであったとしても、彼が生きながらえる事は不可能なのだった。
 しかし、自分の死がけようの無い現実であったとしても、体内にとどまる『式神弾しきがみだん』によって肉体が消滅しつつある蠅の王との相討あいうちといっていい状況に持ち込めた事は、ある意味では伸田のびたにとって本望ほんもうだと言えたのかもしれない。

 やはり、腹部に受けた重傷からの大量の失血しっけつによって伸田のびたの意識が徐々に失われていくためだろう、飛行を制御する6基のローターの内、1基のプロペラが停止し、続けて2基目が停止した。残り4基も時間の問題だと思われた。ローターによる揚力ようりょくが減少した伸田のびたの飛行する高度が徐々に落ち始めた。ついに落下が始まったのだ。

「ノビタあーっ!」
「ノビタさん!」

 フラフラと高度を落とし始めた伸田のびたの姿を見た白虎とニケが、地上と上空で同時に叫んだ。ニケは叫ぶと同時に伸田のびたを救うべく、すぐさま彼に向かって飛行した。

「しっかりして、ノビタさん!」
 
 バックパックの6基のローターが全て停止し、危うく落下しようとする寸前の伸田のびたの身体をニケの伸ばした両手が間一髪のところでつかまえようとした、その時だった。

「バリバリバリバリバリーッ! ドッカァァーン!」
「キャアアアーッ!」

 伸田のびたを救おうとしたため完全に無防備となっていたニケの背中に、大気を揺るがす轟音を上げて黄色くまばゆ閃光せんこうを放つイナズマが直撃した。
 地上から見上げていた白虎だけが、その凄まじい光景と、ニケの後方数十mの空域から彼女に向けてイナズマを放出した元凶げんきょうである蠅の王が、背中に生やした紫色の翼を羽ばたかせてフラつきながら飛ぶ姿を目撃した。

「うおお! ニケっ! ノビターっ! くっそう! あの野郎、まだあんなイナズマを…」

 だが、歯ぎしりしながら白虎が毒づいた相手である蠅の王もまた、お世辞せじにも無事とは言えそうにない無残むざんな姿を呈していた。
 蠅の王の腹部に入り込んだ『式神弾』は今もなお、容赦ようしゃ無く彼の身体をこの世からめっし続けていたのだ。
 体内の『式神弾』が点火した青白き聖なる炎は、決して消える事無く蠅の王の腹部を焼き続け、すでに彼の身体を上半身と下半身とに分断してしまっていたのだった。
 背中の翼で飛ぶ事の出来る上半身から切り離された下半身は、吹雪によって蠅の王の元から彼方かなたへと飛び去り、地上のどこかに落下したと思われるが、落ちた後も消える事の無い浄化の炎に全て焼き尽くされる事だろう。

 身体の半分を失い、バランスを欠いて背中の翼でフラフラと飛び続ける蠅の王の上半身も、この世から消滅するのも時間の問題だと思われた。しかし、蠅の王としては自分をこんな目にわせた敵に一矢いっしでもむくいるつもりでいたのか、最後の力を振り絞って上半身だけとなった身体に残るありったけの電気を集めたイナズマをニケの背中にびせたのだった。

 当然ながら蠅の王の発したイナズマの威力は、彼の肉体が完全な状態だった時に比べると半分以下の威力しか無かった。しかし、今度は伸田のびたの救出に集中していたニケは、完全に無防備なままの背後を『イージスのたて』も持たない状態でイナズマの直撃を受けてしまったのである。ニケの背中に生えた銀色に輝く美しい翼は無残に焼け焦げて大半が失われ、飛び散った大量の羽根は吹雪に飛ばされて行った。
 いかに、勝利の女神ニケといっても背中に生えた銀色の翼が本物である以上、彼女の負った傷は生半可なまはんかなものでは無いはずだった。それでもニケは、ようやく両手が届いた伸田のびたの身体を必死に自分の方へと引き寄せ、互いの身体が重なり合う様にして二人一緒に地上へと落下していった。
 優れた耐熱帯電効果を備えた専用スーツを着用していたとはいえ、無残むざんに焼けげた背中にわずかに残った翼では、ぐったりした伸田のびたの身体をかかえて飛ぶ事はおろか、まともに羽ばたく事すら出来なかった。

「きゃあああああーっ!」
 甲高かんだかい悲鳴を上げながら、ようやく捕まえた伸田のびたの身体を抱きかかえるようにして落下していくニケ…

「ニケーッ! ノビターッ!」

 その光景を地上から見上げて叫び声を上げる白虎の眼前がんぜんで、完全に意識を失った伸田のびたを抱きかかえたニケは300m直下の地上へとぐに落下していった。
 意識のあるまま落下するニケと地上から見上げる白虎が、激突はけられないとあきらめかけた瞬間だった…

『イージースッ!』

 その時、大地をるがす白虎の咆哮ほうこうよりも大きな、だが、とてもんで美しい響きの女性の声が夕霧谷ゆうぎりだに全域にとどろき渡った。
 すると次の瞬間、落下する二人の身体をまぶしく光る黄金色の輝きが包み込んだ。

「ズッドォオオーンッ!」

 大地をるがす地響きを立てて地面に激突したのは、直径2mほどの黄金色をした完全な球体だった。その球体は、大地に激突する衝撃で地上に降り積もっていた雪と土を爆発の様に周囲に巻き上げ、てついた大地に半分ほどまった状態で停止した。

「な、何だあ? こりゃあ…?」

 一部始終を目撃していた白虎は事態を自分の目で確かめるべく、地面にめり込んだ黄金色の球体に急いでけ寄った。

「シュウウウウーッ!」
 黄金色の球体から発した熱が周辺の雪を蒸発させ、球体の周囲に水蒸気がユラユラと陽炎かげろうのように立ち昇っていた。これは、球体が地上との激突の際に発生したエネルギーが熱に変換されたためだろう。

「あちちちっ!」
 黄金色の球体に触れようとした白虎は、あわてて自分の右前脚まえあしを引っ込めた。
 落下して地面と激突しても割れもせず、美しく黄金色に輝くつるりとしたピカピカの表面には見た所ヒビどころかキズ一つ見当たらなかった。しかし、その滑らかな黄金色をした表面からは、かなりの熱を発しているのだった。

 白虎が見守る前で水蒸気に包まれた球体は姿を変え、中から地面に横たわったニケと伸田のびたの姿が現れた。
 二人を包み込んでいた直径2mに及ぶ黄金色の球体は、先ほど夕霧谷全域に響き渡った女性の『イージス』という叫び声に応じて変形した伸田のびたが左腕に装着していた『イージスのたて』だったのである。
 そして、二人の身を救うべく『イージスの盾』に変形を命じたのは、本来の盾の正当な持ち主であり、東京の自宅にいながらにして事の成り行き全てを見守っていた榊原さかきばらアテナその人だったのである。
 アテナはどんなに離れた場所にいても、娘であるニケが五感によって得た情報を自分の脳内で共有し、自己の感覚として認識出来るのだった。それゆえ、蠅の王の放ったイナズマの直撃で背中を負傷したニケが、伸田のびたと共に落下していくのを、変形させた『イージスの盾』で包み込んで地上との激突から守る事が出来たのである。
 地球上におけるいかなる攻撃をもね返す『イージスの盾』ならば、たとえ大気圏外からの落下でも中の人間を無事に守り抜いた事だろう。

「う、うう…」
 心配げに白虎が見つめる中、ニケがうめき声を上げて上半身を起こした。どうやら彼女は蠅の王の放った大雷の直撃を耐え抜いた様だった。

「良かった… ニケ、お前は無事なんだな。ノビタはどうなんだ?」
 ニケの無事を知り、安心するのもつかの間… 白虎は自分の身体を上から重ねるようにして倒れ込んでいたニケに対し、み付きそうな勢いで伸田のびた安否あんぴを問いただした。

 ニケは自分の身体の下に仰向あおむけになって倒れている伸田のびたの胸に、そっと自分の手を押し当てた。そして、顔を上げて白虎を見た彼女はゆっくりと首を横に振った。

「だめ… 心臓が止まってる… 体温もどんどん下がってる…」
 白虎から視線をそらし、顔をうつむけたニケが悲しそうにつぶやいた。

「な…何てこった! こいつは蠅の王の野郎と立派に戦ってヤツにとどめの一撃をブチかました英雄じゃねえか! そんなノビタが、何で死ななきゃならねえんだ! そんな…そんなバカな事があってたまるかっ!
クソおおおおおっ! ぐわおおおおおーっ!」
 白虎は大地を揺るがす慟哭どうこく雄叫おたけびを上げ、四本の脚で地団太じだんだんで伸田のびたを見舞った残酷な運命をのろった。
 彼は、この一晩の共に戦った経験で、伸田のびたを実の弟の様に思っていたのだった。

「くそ… ノビタの彼女に何て言やあいいんだ… あんたの彼氏は立派に戦って死にましたってか!」

 そう吐き捨てるように言った白虎の全身が、ボウっと青白い光を発し始めた。そして、4本足で大地に立つ虎の姿をした彼は、後ろ足2本だけで立ち上がるように青白く光る上体を起こした。すると、見る見るうちに白虎の猛獣の姿が一人の人間男性へと変化していった。白虎びゃっこが自分の身に生じさせていた神獣化しんじゅうかいたのである

「ちょっと、千寿せんじゅさん。ここに、15歳のうら若き乙女おとめがいるって事を忘れてるんじゃないでしょうね? 全裸ぜんらはやめて欲しいわ。」
 顔をそむけたニケが横目でチラッと見やった時、すでに白虎は全裸姿の一人の男へと変身を終えていたのだった。

 ニケから千寿せんじゅと呼ばれた男は年の頃は30代半ばほどだろうか、背丈は180cm前後のやせぎすだが強靭きょうじんで引きまった筋肉質の身体をしている。
 真っ黒で毛量の多い頭髪はカールの強いモジャモジャのクセ毛で、顔はお世辞せじにも男前とは言えそうにないが、その苦み走った野性味あふれる精悍せいかんな顔つきには、彼の今のやるせない悲しみと怒りの心境がその表情ににじみ出ていた。

 そう、この男こそ…新宿カブキ町において個人探偵事務所を開き、町の人々に『風俗探偵ふうぞくたんてい』などという怪しげな通り名で呼ばれる私立探偵、千寿 理せんじゅ おさむその人だった。

「おっと… こいつは失敬しっけいした。たしかに、おじさんのセクシーな裸は、中学生のお嬢ちゃんには見せられないな。それなら、こいつでどうだ?」
 そう言った千寿せんじゅの首の付け根から下の全身に白くフサフサした体毛が伸び始め、すぐに毛皮で出来た服の様にびっしりと生えそろった。その天然の白い毛皮には、当然のごと虎模様とらもようの黒いしまあらわれていた。

白虎柄びゃっこがらの天然毛皮けがわってとこね。まあ、それなら我慢がまん出来そう。
 ところで…あなた、人間の姿に戻ってどうするつもりなの?」

 ニケの問いかけに答える代わりに、千寿せんじゅは彼女と伸田のびたの方へと歩み寄った。そして、てついた地面に横たわった伸田のびたの遺体にかがみ込むと、彼の身体から身に着けていた『ウインドライダーシステム』のヘルメットとバックパックを優しい手つきではずしてやった。
 余計な装備を外し終えた後、千寿せんじゅは息絶えた伸田のびたの遺体を軽々と、だが優しく抱き上げた。獣人の強靭きょうじんな筋力を持った千寿せんじゅには、人間一人分の体重などシャツ一枚ほどの重さにも感じないのだろう。

「こいつを… せめて、愛した女性の元に連れて行ってやりたいんだ。」
 そうボソリとつぶやいた千寿せんじゅの頬にはひとすじの涙が伝っていた。彼は遺体を抱いたまま、静香 しずかおおとり達の待つ方角へとゆっくりと歩み始める。

「待って、千寿せんじゅさん…」

 背後から呼びかけて来たニケの声に千寿は足を止め、振り返った。
 降り積もった雪を踏みしめて静かに近寄って来たニケが千寿せんじゅの前に回り込むと、彼の抱いている伸田のびたの顔をのぞき込んだ。不思議な事に、伸田のびたの死に顔は満足そうな表情をたたえている様に見えた。

「あなたは、本当に立派に戦ったわ。女神めがみ祝福しゅくふくをあなたに…」

 そうつぶやいたニケは伸田のびたの顔に自分の顔を寄せ、そっと彼のくちびるに自分のそれを重ねた。驚いて目を見張る千寿せんじゅの視線などお構い無しに、十数秒もの間伸田のびたに口づけをしていたニケが顔を上げた時、美しい顔立ちをした彼女の形の良い唇から透明な唾液が伸田のびたの唇と糸を引く様に結んでいたのを千寿せんじゅは見逃さなかった。だが、その透明な糸は吹き荒れる風によってすぐに断ち切られた。この千寿せんじゅの見た光景は、ひょっとすると彼の見間違えだったのかもしれない… だが、二人はそれ以上言葉を発する事は無かった。

 伸田のびたの遺体との別れの挨拶あいさつに満足したのか、ニケが身体を離したのを機に、千寿せんじゅは再び歩き始めた。
 
 
 
     ********
 
 
 
「くそお… お、俺は死ぬのか…? 俺は、これで終わりなのか?」

 上空をフラフラと死にかけたちょうが飛んでいる様に吹雪の中を漂いながら飛ぶ蠅の王があわれな声を上げた。
 今や、残った彼の上半身も『式神弾』による滅却めっきゃくがかなり進行し、左腕が肩から先が完全に消滅していた。残った右腕と胸の一部に加え、かろうじて背中に残った紫色の翼をわずかに羽ばたかせて上空を飛行する…というよりも、風に流されているという表現が正しい状態だと言えるだろう。

「俺は…… ただ、南へ行きたかったんだ。
 じいちゃんが言ってた。『お前を捨てた母ちゃんは、男と南へ行った』って… 母ちゃんが、その男と向かったのは…遠い南の海の近くって事だから、誰かの車に乗せてもらって…俺も、そこへ行きたかったんだ。
 写真でしか見た事の無い母ちゃんに…一度でいいから、俺は逢いたかったんだ。俺を捨てた母ちゃんに、俺の家族を…俺の幸せな姿を見せつけてやりたかったんだ。
 俺の愛するシズちゃんと、彼女との間に出来たたくさんの子供達と一緒に…夢に見てた暖かい南の海辺で暮らしたかったんだ…
 でも…… そんな夢も、もう終わりだ… 俺は、もう死ぬ……
 じいちゃん、俺も今からそっちへ行くよ…
 も、もう一度だけ逢いたかった… 母ちゃん…」

 すでに一枚の翼を根元から焼かれて失った蠅の王の身体は、かろうじて残ったもう片方の翼を強風にあおられ風下かざしもに向かって吹き飛ばされて行く。すでに彼の状態は飛行しているのではなく、頭部と上半身の一部のみが残骸ざんがいのように残った身体が風の吹くまま飛ばされているのだった。
 このに及んで、もう彼は自分の事を蠅の王などという人間を遥かに超えた上級魔族などという自信に満ちた存在などでは無く、ただ南の海の近くで家族と一緒に暮らす事を願っていたヒッチハイカーと呼ばれていた頃の自分へと戻った様に感じていた。

 風に運ばれながら、ヒッチハイカーは横を流れていく見覚えのある風景を見た。今では、かなり低い高度を吹雪に乗って漂う彼の横には、鋼鉄で出来た巨大な橋梁きょうりょうの姿があったのだ。
 その橋は、この辺り一帯の『夕霧谷渓谷ゆうぎりだにけいこく』を流れる一級河川かせんである『木流川きながしがわ』にけられ、祖土牟そどむ山と醐模羅ごもら山を国道で結ぶ『夕霧橋ゆうぎりばし』である。

 この『夕霧橋』こそ、ほんの数時間前にヒッチハイカーが捕らえていた静香 しずかの身をり下げ、伸田のびたと白虎を相手に戦闘を繰り広げた場所であった。その時には蜘蛛くもの形態をした怪物の姿だったヒッチハイカーが張り巡らした蜘蛛の巣もまだ残っていた。
 懐かしい物でも見る様な感覚で『夕霧橋』を横目に『木流川きながしがわ』に沿う様に風に飛ばされていたヒッチハイカーは、やがて川に着水した。
 『木流川きながしがわ』は数日来の積雪の影響を受け、上流からの水の流量が増えているために濁流の勢いはかなり強かった。
 ヒッチハイカーの断片とでも言うべき肉体の一部は川の流れに飲み込まれ、浮き沈みを繰り返しながら下流へと流されて行く。

「ごぼっ、はあ、はあっ… こ、この川は…う、海まで…な、流れてい、行くのか? な、なら…み、南へ…? お、俺の行きたかった、南へ…… こ、このまま…行けるのか?」

 川の水がヒッチハイカーの口に大量に流れ込んで来るが、彼の胃はすでに消滅し、流れ込んだ水は途切れた食道を経てすぐに元の川の流れに戻っていく。
 だが、残った身体の全体がどれだけ川の水にかろうと、何度浮き沈みを繰り返そうと『式神弾』が点火した青白い炎は消える事無くヒッチハイカーの身体を焼き続けた。これはもはや、物理法則を完全に無視した燃焼現象としか言いようが無かった。おそらく、ヒッチハイカーの細胞を一片残さず燃やし尽くすまで、この魔を浄化する聖なる炎は消える事は無いのだろう。

「ごぼっ! げほげほっ!」

 すでにヒッチハイカーは自分の死を確信し、そして覚悟していた。ここに至って、自分の肉体の断片が目指していた南の海へ流れくなどという夢のような話を信じるほど、彼は子供では無かった。そして、あまりにも多くの人を殺戮さつりくして来た彼に、そんな夢がかなうはずのない事は自分でも十分に承知していた。
 おそらく、あと数分も持たずに自分の身体は消滅するだろう。
 だが、ヒッチハイカーは目前もくぜんせまった死を恐れはしなかった。これでようやく、大好きだった祖父の元へ行けるのだ。そう思うと、彼の心には安らぎの様なあたたかい気持ちがき起こってくるのだった。
 多くの殺戮を繰り返した自分は間違いなく地獄に行くだろう。だが、先にった祖父とて同じ地獄にいるのをヒッチハイカーは確信していたのだ。なぜなら、あの『山刀マチェーテ』は祖父から譲り受けたものだったから… あの山刀マチェーテは人の血を欲するのだ。手にした者の心を他者の殺戮へとり立て、自身のやいばを血にまみれさせる事を所有者に要求してまない妖刀ようとうだったのである。
 つまり、自分の前の所有者だった祖父もまた、あの山刀マチェーテを使って多くの人を手に掛けた事は、ヒッチハイカーの想像にかたくなかったのだ。
 ヒッチハイカー自身は知るよしも無かったが、思えば彼の精神が異常を来たしたのも、死んだ祖父の形見かたみであるあの山刀マチェーテを自分の所有物にしてからでは無かったか…?

「じ、祖父じいちゃんの所へ… い、行けるなら… それもいいな… み、南にいる母ちゃんの…そ、そばには行けなかった…けど…」

 川の濁流だくりゅうに流されながら浮き沈みを繰り返すヒッチハイカーの顔はズブれだったが、彼のギリシャ彫刻の様に端正たんせいな顔を濡らしているのは川の水だけでは無かった。信じられない事に彼は泣いていたのだ。とめどなく流れ出て来る涙はすぐに川の水に流されるが、それでもあふれ出す涙は止まらなかった。

 彼はまだかろうじて一部分だけ肩と繋がって残っていた右腕を精一杯伸ばした。まるで、その先に幼い頃に彼のもとを去った母親の姿があるかの様に…

 だが、濁流の中で彼が伸ばした右手の先にあったのは、母の幻影ではなく今まさにのぼり始めた朝日だった。ここ数日来、低気圧に覆われ晴れる事の無かったこの山岳一帯に久しぶりに雲の切れ間からわずかだったが朝日が顔をのぞかせたのだった。

 消滅しつつある蠅の王…いや、ヒッチハイカーの目には、そのまぶしい朝日が夢にまで見た母親の笑顔に見えているのだろうか? それとも、年中暖かな南の海辺で愛する静香 しずかと子供達とたわむれる幸せそうな自分の姿だったのだろうか? それは彼自身にしか分からなかった。

 やがて、彼が見つめていた朝日の中から小さな黒い点が現れ、次第しだいに大きくなっていく。
 それは、ヒッチハイカーに近付きつつあった。「バラバラバラバラ…」という、吹雪にも負けない大きな音を発しながら…

 『木流川きながしがわ』の水面を流されていくヒッチハイカーが見た朝日を背にして前方上空から近付いて来た黒い物体は、一機のヘリコプターだった。
 機種は特殊作戦用仕様の中型多目的軍用ヘリコプター『UH-60 ブラックホーク(UH-60 Black Hawk)』だった。昨夜、白虎の乗った飛行妖怪『野衾のぶすま』と空中戦を繰り広げ、最後には風祭 聖子かざまつり せいこ聖子が遠隔操縦した『黒鉄の翼アイアンウイング』と空戦を繰り広げたヘリとは機体こそ違ったが、同一の機種だった。

 その『ブラックホーク』がヒッチハイカーを目標としているのは間違い無かった。急流に乗って流れていくヒッチハイカーの真上に達したかと思うと、川の濁流だくりゅうに流される彼の身体の数m上空を追いかける様に飛行した。

 浮き沈みしながら川を流れていくヒッチハイカーの身体は、もはや人間の形状を留めてはいなかった。すでに肩の部分で残った右腕も焼けて千切ちぎれ落ち、鎖骨さこつあたりまで青白い浄化の炎に焼かれ、さらに彼の肉体の消滅は止まる事無く進行中なのである。

「バラバラバラバラ!」

 今では吹雪の音を圧し耳をつんざくほど大きくなったローター音を上げながら『木流川きながしがわ』の流れに合わせて上空を飛行する『ブラックホーク』は、水面を漂うヒッチハイカーの顔面の反対方向へと移動し、彼からはその姿が見えなくなった。吹き荒れる吹雪とは別の、上方から吹き付ける『ブラックホーク』のローターによる風が爆音と共に降り注ぐようにヒッチハイカーの頭部に叩きつけて来た。

 だが、ヒッチハイカーは自分の上を飛行するヘリを見ようともしなかった。死を目前にした彼にはもう、何もかもどうでもよくなっていたのだ。ただ、彼は昨夜からの字本が経験した一連の出来事を思い返していた。

 今まで多くの殺戮を繰り返して来たヒッチハイカーにとって、最初はただの獲物えもの程度にしか思っていなかった昨夜ゆうべ偶然に吹雪く国道で出会った若者達… その中にいた皆元 静香みなもと しずかという女性を見染みそめて何としてでも自分の物にしようとし、その恋人であり結果として好敵手ライバルとも言える存在となった伸田のびた相手に一晩中戦いを繰り広げ、彼との戦闘の中で蠅の王にまで進化した自分が最後には伸田のびたと彼を取り巻く仲間達の存在によって敗れ去り、今消滅していこうとしている。
 いつの間にか、静香 しずかよりも自分の最大の関心の的になっていた伸田のびたと相討ちとなった事が、ヒッチハイカーは満足だった。
 彼には、今まで生きて来た自分の人生の中で、祖父以外に心を開く事の出来る友人などはいなかったのだ。
 人外の存在となってしまったヒッチハイカーは奇妙な事に、偶然出会っただけのただの人間の青年に対し、彼との戦いを通した関わりの中でいつしか友情の様な感情を抱いていたのだった。
 暖かい南の海辺で、静香 しずかと築く幸せな家庭…それよりも、一人の女を奪い合って命懸いのちがけで戦った伸田のびたの事が、今ヒッチハイカーの頭の中をめていた。

「ノビタ… お前はもう、死んじまったのかな? お前は、俺とは別の世界へ行くんだろうが…
 昨夜は楽しかったぜ… あばよ、ノビタ…」

 そのつぶやきを最後に、ヒッチハイカーの思考が停止した。すでに彼の身体は鎖骨さこつ部分まで青白く燃える聖なる炎に焼かれていた。そして、彼の首に炎が達しようとした時だった…

「ブツンッ!」

 突然、ヒッチハイカーの首は燃え進む浄化の炎の数mm手前で鋭利な刃物の様な物で切断された。
 切断された胴側の薄い断片は浄化の青白い炎で燃え続けながら吹雪によって吹き飛ばされていった。これで、ヒッチハイカーの頭部がそれ以上、浄化の炎に焼き尽くされる事は無くなったのだった。
 すでに思考を停止していたヒッチハイカーの頭部に向かって、何者かが嬉々とした声で話しかけた

「あははははは! 危なかったねえ! あの浄化の炎に焼かれちまったら、アタシ達魔界の存在は完全にこの世界から消滅しちまうんだ。もう少しでアンタは、頭まで全部消えちまうところだったじゃないか!
 そんな事になったら、アタシ達は手ぶらで帰らなきゃならない。アンタの頭だけでも持って帰りゃあ、アタシ達の受けたミッションはクリアーなのさ!
 あはははははは! ついに風俗探偵の野郎を出し抜いてやったよ! 見たか、アタシ達はヤツに負けっぱなしじゃないんだ、ざまあみろ!
 頭だけになっちまった蠅の王ベルゼブブ君は、せいぜいアタシに感謝するんだね。それじゃあ、帰ろうか! バリー!」

「ブモーッ!」

 首から上だけの存在となり、ライラの手にぶら下げられた状態のヒッチハイカーは、すでに停止し薄れゆく意識の中でけたたましい女の笑い声とウシのいななきのような雄叫おたけびを耳にした。

 バリーが妹ライラの合図で、彼女の吊り下がったロープを垂らしたウインチの巻き上げスィッチを押した。
 魔界の殺し屋兄妹『ライラ&バリー』の妹だが実質的にリーダー格のライラの右手は兄のバリーが操縦するヘリから下ろされた懸垂下降用のロープを握り、左手には首から切断されたヒッチハイカーの頭部が髪の毛をつかまれてぶら下げられていたのだ。
 そして彼女の右手にロープと共に握られていたのは、ヒッチハイカー愛用の山刀マチェーテだった。多くの人々の血を吸って来た禍々しい刃の中央部に、ニケの眼から発したレーザー光線で穿たれた二つの穴が開いているので間違い無かった。
 何の酔狂すいきょうか、ライラが拾って来たのだろう。その山刀マチェーテを使い、『式神弾』で点火された『浄化の炎』で焼かれている部分のすぐ上の箇所で、ライラはヒッチハイカーの首をスッパリと切断したのだ。これで、ヒッチハイカーの首から上の頭部は『浄化の炎』によって焼き尽くされるのをまぬがれたのであった。

 ライラ達の今回受けた依頼はヒッチハイカーの回収…しかし、標的の状態は『Dead or Aliveデッド オア アライブ』つまり『生死を問わず』だったのである。この条件で言うと、『殺し屋ライラ&バリー』の二人組は依頼を成し遂げた訳である。
 元々、彼女達は白虎や伸田のびた及びSITチームと争う事を目的としていた訳では無かったのだが、戦いや殺戮さつりくを好む二人が自分達の天敵と言える白虎を指をくわえて見逃みのがはずも無かった。結果として二人は白虎から手痛いしっぺ返しを食らった訳だが、とにかくクライアントの依頼は果たしたのだから『終わり良ければすべて良し』と言える訳だった。
 だから、ライラが上機嫌なのもうなずけるのだ。

「ウフフフフ…」

 ウインチによって引き上げられ、ヘリの後部乗員席に立った美貌びぼうの女殺し屋ライラは、美しくもあやしい顔に心の底から楽しそうな表情を浮かべ、左手に髪の毛をつかんでぶら下げたヒッチハイカーの頭部をブンブンと振り回し、それにきると自分の顔の前に持って来たヒッチハイカーの顔を見つめてその額にキスをした後、ヘリの後部乗員席の床に首を放り投げた。
 ゴロゴロゴロ…ベチャ
 床に転がったヒッチハイカーの首は断面を床にくっつける様にして止まった。もう、首に興味を失ったライラは相棒のバリーが操縦するヘリの副操縦士席に座り、後ろを振り返る事もしなかった。

 だから… その時、ヒッチハイカーの閉じていた目がゆっくりと開いたのを気付いた者は誰もいなかった。
 
 
 
     ********
 
 
 
「誰かがこっちへ来る…」
 厚い灰色の雲の切れ間からす朝日のまぶしさに目をすがめながら、前方を見ていたSITの島警部補が他の3人に聞こえるように言うとロシナンテの後部左側のドアを開けて、吹雪のまだ吹きまぬ外へと出た。

「え?」
 負傷しているSIT隊長の長谷川警部は最後列のシートに横たわったままだったが、運転席に座っていた、鳳 成治おおとり せいじ皆元 静香みなもと しずかも島の指さす方角を見ながら車から降りて来た。

「ほら、あそこ…」

 島警部補の指さす先に、たしかにこちらに近づきつつある一人の男の姿があった。その歩いて来る白い服を着た男は、もう一人の人間を横抱きに抱いている様なのが遠くからでも視認出来た。

「あれは…ノビタさん?」
 身体に厚い毛布を巻き付けて震えながら静香 しずかがつぶやいた。

「いや… 歩いているのは千寿せんじゅだ。ヤツは誰かを抱いている? 伸田のびた君か…?」
 雲の切れ間から射す朝日は、歩いて来る男を完全に照らし出すには十分な光とは言えなかった。それでも、おおとりにとっては少年時代からの旧友で、この世で最も信頼出来る友である千寿せんじゅの事を見誤るはずが無かった。

「ノ、ノビタさん? どうして自分で歩かないの…? 何で走って私の所に来てくれないの?」
 静香 しずかは身体をガタガタと震わせながら、それ以上に震える声で、誰も答えられない問いをつぶやいた。彼女はそれ以上の言葉を発する事が出来ず、両手で押さえる口から出てくるのは、むせび泣く様な嗚咽おえつだけだった。
「う、ううう…」

 その場にいる誰もが押し黙った様に見守る中、男はゆっくりとだが確実に近づいて来た。そして、静香とおおとり、島警部補の3mほど手前で歩みを止めた。静香 しずかおおとりは初めて見る顔だったが、男は痩せ気味だが粗削りで精悍な顔つきで、本来は相手を射抜く様な鋭い目を今は伏せがちに地面を見下ろしたままだった。

千寿せんじゅ伸田のびた君は…?」

 おおとり千寿せんじゅと呼びかけた男は、ゆっくりと首を左右に振った。そして伏せていた目を上げ、静香 しずかを真っ直ぐに見つめて言った。

「ノビタは… 最後まで立派に戦った。こいつは…ヒッチハイカーに腹を刺しつらぬかれてもあきらめずに、ヤツにとどめの一撃をぶち込んで…」

 静香 しずか千寿せんじゅの話をそれ以上を聞こうとはせず、愛する伸田のびたの元へ脱兎だっとの様に駆《か》け寄った。

「ノビタさん!」

 千寿せんじゅが横抱きにした伸田のびたの冷たくなった遺体に、静香 しずかがすがり付いて泣き叫んだ。

「嘘つき! あなた、帰って来るって言ったじゃない! 絶対に帰るって…」

 千寿せんじゅはその場で片膝を付き、伸田のびたの身体をてついた地面にそっと下ろした。静香 しずかは横たわった伸田のびたの上半身を抱き起し、自分のそろえた膝にせた。

 千寿せんじゅ伸田のびたの遺体を静香 しずかたくすと、二人から離れた。

「いやあああーっ! ノビタさん…ノビタさーん! うううう…うわああああーっ!」
 静香 しずか伸田のびたの上半身を胸に抱き、冷たくなった彼のほほに自分の頬を押し付けて激しく泣いた。

 静香 しずか伸田のびたから少し離れた場所に立ち、二人を見つめていた千寿せんじゅの傍におおとりがゆっくりと近付き、千寿せんじゅの耳元にささやいた。

「こんな場面で聞くのは何だが… 千寿せんじゅ、ヒッチハイカーは本当に死んだのか?」
 
 この問いかけに、うつむいていた千寿せんじゅが顔を上げておおとりをキッとにらみ付けた。彼の鋭い目は一瞬、危ない光を放った。いかに旧友といえども、この場での今の不謹慎ふきんしんな質問に怒りを覚えたようだっだ。
 千寿せんじゅの野獣の様に光る眼にすくめられたおおとりは背筋がゾクッとした。千寿せんじゅの身にまとってるた白い服の毛皮の様な表面がザワザワっと逆立さかだった。おおとり千寿せんじゅが着ている白い服だと思っていたのが、彼自身の身体に生えた体毛である事を知った。
 だが、千寿せんじゅが旧友に対して殺気立った反応を示したのは、ほんの一瞬だった。
 すぐに落ち着きを取り戻した千寿せんじゅは、恋人の亡骸なきがらを抱いて慟哭どうこくしている静香 しずかの方へ向けられた。そして、視線をおおとりに戻す事無く、つぶやく様な低い声で質問に答えた。

「ああ… たとえ、地上何百mの出来事だろうが、吹雪の吹きすさぶ上空でだろうが、俺の絶好調時の白虎の五感で一部始終を感知してたんだ。ノビタが蠅の王に押し付けたベレッタでヤツのどてっぱらに『式神弾』をぶち込んだのは間違いない。
 蠅の王は絶叫を上げてやがったからな。
 それに、あの『式神弾』はお前の親父殿おやじどの直々じきじきに一発一発に念を込めて五芒星ごぼうせいきざみ込んだ代物しろものだろうがよ。」

 おおとりとは少年の頃からの親友である千寿せんじゅは、おおとりの父親が、日本に現存する陰陽師おんみょうじの中で最高の存在である事を知っているのだ。

「分かった。すまん、さっきの俺の不謹慎な発言を許してくれ… あの弾丸たまを喰らった魔界の存在は、必ずこの世から消滅する。」
 おおとり千寿せんじゅに向かって頭を下げ、遺体となって横たわる伸田のびたの方に向き直ってもう一度頭を下げた。

「むう…!」
 千寿せんじゅがある方角の空を見上げてうなった。彼のウエーブのきついクセ毛からのぞいた先の少しとがった変わった形をした耳がピクピクと動いていた。

「どうした?」
 旧友のおかしなそぶりを見たおおとりが問いかけた。

「ちっ! あのあま…また性懲しょうこりもなく、馬鹿な真似まねをしやがって!」
 千寿せんじゅの口が開き、くちびる隙間すきまから巨大なきばのぞいた。

「一体どうしたって言うんだ?」
 訳の分からないおおとり千寿せんじゅを問いただす。

「ライラだ! ヘリに乗った、あのバカ殺し屋兄妹きょうだいが蠅の王の頭部を回収しやがった!」
「何だと!」
 悔しげにうな千寿せんじゅの髪は逆立さかだち、バリバリと歯ぎしりする大きな音が口元かられ出ていた。千寿せんじゅは神獣白虎としてのズバ抜けた聴覚で、ヘリに乗ったライラの得意げにしゃべった声を聞いたのだろう。

「今度は許さん! アイツらぶちのめして、何が何でも蠅の王の首を回収するぞ!」

「だが、どうやってヘリの乗ったやつらを追うんだ? そうか、ニケに追ってもらおう!」

 怒り心頭に達している千寿せんじゅよりも、おおとりの方が落ち着いていた。彼は冷静に状況を分析して言った。

「ダメだ! ニケはイナズマで翼と背中を焼かれた。彼女が再生修復するまで、まだ時間がかかる。
 ん? このサイレントモードのローター音は? 『黒鉄くろがねの翼』が戻ってきた!」

「何だって?」

「聖子君が『黒鉄の翼』をこっちに向かわせてくれたんだな。
 よし! すぐにこのポンコツ『ロシナンテ』と合体させて、『黒鉄の天馬アイアンペガサス』になってヤツらを追うぞ!」
 千寿せんじゅの顔に、久々に不敵な笑いが浮かんだ。この男は戦いを前にすると顔がニヤけるという悪い癖があるのだ。

おおとり、お前は現場の後始末あとしまつを頼むぞ。ノビタを丁重にとむらってやってくれ。それに…彼女の事も任せたぞ。」
 伸田のびた遺体と静香 しずかに向けて右親指を突き出しておおとりにそう言った千寿せんじゅは、もう一度伸田のびたに向かって黙禱もくとうし、すぐに振り返るとロシナンテの運転席側ドアを開けて中に乗り込んだ。

 もう自力では動けそうにないポンコツ車と化した『ロシナンテ』の頭上に、周辺の雪を巻き上げながら『黒鉄の翼』の真っ黒な機体が静かに舞い降りてきた。そして、すでに展開していた二本の『黒鉄の爪アイアンクロー』で『ロシナンテ』の車体をガッシリと掴んだ。
 運転席に千寿せんじゅを乗せた『ロシナンテ』と合体し、『黒鉄の天馬アイアンペガサス』へと姿を変えた『黒鉄の翼』は、再び上空へと舞い上がって行く。

「あばよ、ノビタ… お前は立派な英雄ヒーローだった。」
 殺し屋『ライラ&バリー』を追う千寿せんじゅの目に涙が光った。

 そして、巡航高度に達した『黒鉄の天馬アイアンペガサス』は機体全体に光学迷彩を展開し、視認困難なステルスモードになって殺し屋兄妹『ライラ&バリー』の乗ったヘリへの追撃を開始した。
 
 
 
     ********
 
 
 
「ノ、ノビタさん… 伸也のびやさん… ううう…」
 愛する男の亡骸なきがらを抱きしめて静香 しずか嗚咽おえつを上げていた。
 すでにすっかり冷え切って白くなった伸田のびたほほに自分の涙で濡れる頬を押し当て、ひたすら彼女は泣いた。それは美しくも悲しい愛する二人の最後の抱擁だった…

 少し離れた場所から肩を貸して立たせた負傷した上司の長谷川警部と共に、その光景をながめていた島警部補自身も、自分の眼から流れる涙をこらえられなかった。それは長谷川も同様だった。二人は静香 しずかに掛ける言葉も無く、視線を凍てついた地面に移した。警察官である彼らは民間人の伸田のびたを守れなかった無力感にさいなまれ、自分達の不甲斐ふがいなさにが身を焼かれる思いがしていた。吹き荒れる吹雪にもかき消される事も無く、静香 しずかの悲しみの慟哭どうこくが二人の心に突き刺さって来る。
 二人には静香 しずかの嗚咽は永遠に続くかと思われた。

「ううう… ううっ… ……? えっ?」

 続いていた静香 しずかの嗚咽が突然み、驚きの声が上がったのに俯いていた二人は同時に顔を上げて彼女の方を見た。

「の、伸也のびやさん! 伸也さん! ああ! 神様!」

 静香 しずかはそれまでよりも力強く伸田のびたの身体を抱きしめ、彼の名前を呼びかけながら自分のほほひたいを恋人の冷たくなった頬に強くこすり付けていた。そして彼女の慟哭どうこくうめき声は、歓喜かんきのすすり泣きに変わっていた。

「ど、どうしたというんだ!? 静香さん!」
 島と長谷川の二人には何が起こったのかまったく分からず、島が静香の背中に向かって叫んだ。

「ノビタさんの頬が温かくなってきたんです! た、体温を取り戻して!」

 振り返って叫び返す静香 しずかの言葉を島と長谷川の二人は到底信じられず、互いの顔を見つめ合った。

「彼女はショックで…」
「ああ…無理もない…」
 支えたって立つ島と長谷川は悲しげな顔で横に首を振った。

「う、動きました! ノビタさんの指が! 手が! ああ…まぶたが開く…」

 静香 しずかの言葉に、二人は慌てて彼女の横から回り込むと伸田のびたを覗き込んだ。
 すると、そこには確かに奇跡が起こっていた。伸田のびたの両目が開き、静香 しずかの見つめる顔を見返していたのだった。

「わあああ! ノビタさん! ああ、神様…」
 静香 しずかは歓喜の叫びをあげると、両手でしっかりと抱きしめた愛しい男の頬に涙でグチャグチャになった自分の顔を強く押し付けていた。

「警部…これは現実なのでしょうか?」
「ああ、本当に奇跡が起こったんだ。伸田のびた君が生き返った。」
 歓喜の声を上げる静香を見つめる二人の胸も感動でいっぱいになった。

「ああ…これは現実だよ。奇跡が起こったんだ。伸田のびた君は愛する人の元へ生還したんだよ。」
 それまで一言も発しなかった鳳 成治おおとり せいじが背後から島と長谷川の肩に手を載せて言った。
 三人は顔を見つめ合って頷いた。

「ですが、おおとりさん。私はまだ信じられません。こんな事って…」
 問いかける島の方を向いたおおとりの顔は優しい笑顔だった。そして、悪戯っぽい目で二人の警察官を見つめながら言った。

「君達は、昨夜来の自分が経験して来た事を忘れたのかい? この世に人間の知らない不思議な事は、まだまだ山ほどあるんだ。
 人間の生命力と愛の力も、人の想像を遥かに超えて強いっていう事さ。ははは、いいじゃないか。結果が良ければ。ハッピーエンドって事だ。」
 話し終わったおおとりが楽しそうに笑った。二人の警察官もつられて大声を上げて笑い合った。

 そして嬉しそうな三人の目の前では、力強く抱き合った二人の恋人達が熱いキスを交わしていた。
 
 
 
     ********
 
 
 
千寿せんじゅ、聞こえるか? 私だ、おおとりだ。』

 今は『黒鉄の天馬アイアンペガサス』と化したロシナンテの運転席に座る千寿せんじゅおおとりが通信で呼びかけて来た。

「どうした、おおとり? 俺は、クソッたれ兄妹の追跡で忙しいんだ。それに貴様も分かってるだろうが、今の俺は非常に機嫌が悪いんだ。くだらない話なら、今度会った時に貴様の首を引き千切ってやるぞ。」
 そう答えた千寿せんじゅの顔は言葉通り、悲しみと怒りに燃えていた。毛皮の服に見せかけた彼の全身の体毛は、文字通り逆立っていた。

『おいおい、物騒な事を言うなよ。悪い報告じゃない、さっき伸田のびた君が生き返ったよ。』

「何だと!? 本当か、それは? もし嘘なら、すぐに取って返して貴様をブチ殺してやるぞ!」
 言葉とは裏腹に千寿せんじゅの顔は驚きながらも歓喜の色に輝いていた。自分の旧友である鳳 成治おおとり せいじが、こんな趣味の悪い冗談を言う筈が無い男だという事は、彼が誰よりも理解していたのだ。そのおおとりが言うのだから真実なのだろう。

「しかし、ノビタは間違いなく息絶えていた… ずっと抱いて歩いた俺自身が確認したんだから…
 待てよ… そうか! ニケか! ハハハハハハ! そうか!」
 謎が解けた様に千寿せんじゅは高笑いをした。

『ニケだと? お前には心当たりがあるようだな?』
 不思議そうに問いかけて来るおおとりの声…

「ああ、貴様のめいっ子だよ。ハハハ! あのニケお嬢ちゃんがやらかしてくれたのさ!
 彼女いわく…『女神の祝福しゅくふく』ってやつだ!」

『おい、それはどういう…』

「やかましい! もう切るぞ! クソッたれ兄妹の乗るヘリを捕捉した。言ったろ、俺は忙しいんだ!」
 そう言った千寿せんじゅは強制的におおとりとの通信を切った。

「スペードエース! レールガン用意! 目標は前方のヘリ! 今回使用する弾丸は…」
 『黒鉄の翼』を司るコンピューターの『スペードエース』にそこまで命令した千寿せんじゅは、ニヤリと笑いながら舌なめずりをした。

『マスター、使用する弾丸は?』
 問い返してくるスペードエースに、ニヤニヤ笑いながら千寿せんじゅが答える。
「俺のツメだよ。」

『ラジャー!』

「待ってろよ、ヒッチハイカー! お前は伸田のびたに代わって、この俺がテメエを地獄に贈ってやるぜ!」
 
 
 
     ********
 
 
 
ガガガガ! ピーピーピーピー!

 ライラとバリーの乗るヘリ『UH-60 ブラックホーク(UH-60 Black Hawk)』の通信機が突然鳴った。この無線は一般的なものでは無く、特殊な暗号を使って仲間内での会話だけに用いられる専用の通信回線なのだ。第三者がこの回線に割り込めるはずが無かった。

「ブモー!」

 ヘリの操縦席に座る双子の兄でもある魔人ミノタウロスのバリーが叫び声を上げた。

「分かってるよ、バリー! 正体不明の相手からの割り込み通信だって? いったい、どこの誰からの通信だろう?」

 今回のミッションの目的だったヒッチハイカーの頭部を回収した事で、それまでのライラは非常に機嫌きげんが良かったのだ。それが、突然専用回線に突然割り込んで来た正体不明の無線通話に、ライラは美しい顔の形の良いまゆをしかめた。

『おい! 聞こえてるか? バカ兄妹きょうだい! 俺だ、お前らが天敵と恐れる探偵の千寿せんじゅだ!』

 通信機を通して呼び掛けてきた声は間違い無く、二人にとって天敵とも言える存在の神獣白虎こと千寿 理せんじゅ おさむその人だった。憎いはずの千寿せんじゅの声を聞いたライラの顔に、一瞬だったがうれしそうな表情が浮かんだ。

「はっ!何言ってやがる! 今頃、アンタが何の用だい? アタシ達はアジトに引き上げるだけだよ! それとも何かい? アタシの美しい顔を、、もう一度どうしてもおがみたいってのかい?
 アタシの足を舐めるってんなら考えてやってもいいよ! アハハハハハ!」
 ライラが高らかに笑った。どうやら、彼女は天敵である千寿せんじゅとのやり取りが楽しいらしい。

『バカ言ってんじゃねえ、ライラ! よく聞けよ、お前達のヘリは俺の「黒鉄の天馬」が装備する超電磁加速砲レールキャノンがロックオンした。お望みなら、そのヘリを一発で撃墜してやるぜ。』

 ライラが一瞬息をんだ。レールキャノンで撃たれたら、彼女達の乗るブラックホークなどひとたまりも無かった。バリーも操縦席で、息を止めてとなりに座る妹と千寿せんじゅのやり取りを見守っている。

「何言ってやがる! 背後からねらうなんて卑怯ひきょうじゃないか!」
 ライラが美しいくちびるゆがめてつばき散らしながら、えるように叫んだ。

『へっ! お前さんの口から卑怯なんて言葉が出て来るとはな、とんだお笑いだぜ。いいか、よく聞けよ。命が惜しかったら、お前らが手に入れたヒッチハイカーの首をヘリの外に放り投げろ。』

「けっ! 何の事を言ってるんだか知らないけど、そんなもん知らないよ!
 アンタ達の国でこう言うんだろ? 無いそでは振れないね!」

「ビシッ!」

 ライラが叫んだ瞬間、鋭い音を発して彼女の座る副操縦士席の横の強化樹脂製の風防にヒビが入り、一部割れた箇所かしょから外の吹雪が吹き込んで来た。

「クソッ! 何だ?」
「ブモーッ!」
 突然の事態にあわてたライラとバリーが同時に叫んだ。

『今のは、わざとねらいをはずしたレールキャノンの弾丸で引き起こした衝撃波だ。次は、ヘリのローター基部を一発でブチ抜く。この距離と俺の腕なら、吹雪の中でも絶対にはずす事は無い。
 どうだ、ライラ? 俺の指示に従うか?』

「くっ! クソったれ!」
「ブモー…」
 兄と妹は互いの顔を見合わせ、くやうなり声を上げた。そして後部乗員席の床に放り投げたヒッチハイカーの首の方を振り返った。

「仕方ない… 悔しいがヤツの指示に従うしかない。今回のミッションは失敗だよ、バリー!」
 ライラはバリーに向かって八つ当たり気味に怒鳴り付けると、シートから立ち上がってズカズカと乗員席に入るや、切断面を床にくっつけて立っていたヒッチハイカーの首を髪の毛を右手でむんずと掴んで持ち上げた。

「けっ! どぐされ探偵野郎が、アンタをご所望だとよ!」
 ヒッチハイカーの顔に向かって怒鳴ると、ライラは乗員席左側のスライドハッチを開け放った。すぐに吹きこんで来る上空の凄まじい吹雪をものともせず、左手で扉横の手摺てすりを掴んで機外に半身乗り出したライラが右手に持ったヒッチハイカーの首を突き出し、後方の『黒鉄の天馬』に向かってヘリのローター音と吹雪の音に負けないくらいの大声で叫んだ。

「アンタの欲しいのはこれだろ! こんな物、くれてやるよ! 受け取りな、クソッたれ!」

 叫び終わると同時に、ライラがヒッチハイカーの首を後方の空中に放り投げた。
 
 
 
     ********
 
 
 
「よし、いい子だ。ヒッチハイカーの首に照準ロックオン
 あばよ、ヒッチハイカー!」

 自動追尾装置が照準を合わせたヒッチハイカーの首が放物線の頂点に達した瞬間を狙って、千寿せんじゅが攻撃用レバーの引き金を引いた。

「バシュッ!」
 空気をつんざく鋭い発射音と共に、レールガンに装填そうてんされていた特殊弾が発射された。
 
 
 
     ********
 
 
 
 ライラによって空中に放り投げられたヒッチハイカーの首は吹雪の中を回転しながら飛んでいたが、放物線の頂点に達して落下し始めると思った瞬間…それまで閉じていたヒッチハイカーの両目が開いた。

「…ちゃんっ!」

 目を開けたヒッチハイカーが何かを叫んだ瞬間、レールガンの特殊弾が彼の眉間みけんに穴を穿うがった。

「パーンッ!」
 鈍い破裂音と共にヒッチハイカーの頭部が炸裂さくれつした。木っ端微塵こっぱみじんに砕け散った全ての肉片が一片も残さず青白い炎を発して燃え始め、それぞれが白煙をきながら、大きな破片は地上に落下し、小さな破片は燃え尽きて白い灰となり吹雪に流されて飛散した。
 レールガンの特殊弾の弾頭に開けられた穴にめられていたのは、神獣白虎しんじゅうびゃっこの右前脚のつめひとかけらだったのだ。魔界に属する生き物で、その攻撃により負った傷から始まる消滅はけようが無いのである。
 
 
 
     ********
 
 
 
「やったぜ、ノビタ… これで多くの犠牲者を出した今回の『ヒッチハイカー事件』はかたが付いた。
 お前があそこまでヤツを追い込んだおかげさ。あのバカ二人組が現れなけりゃ、相討あいうちだったとしても間違いなくお前さんが仕留しとめてたんだ。どっちも命拾いした訳だが、やっこさんの方の後始末あとしまつは俺がしといてやったぜ。お前さんは愛しいシズカちゃんの元で、ゆっくり養生ようじょうしな。
 縁があったらまたおうぜ、相棒。」
 千寿せんじゅはニヤニヤしながら自分の役目は終わったとばかりに、『黒鉄の天馬アイアンペガサス』の進路を自分の住処すみかである新宿カブキ町のる東の方角へと向けた。
 この男…どうやら今回は、自分で言うところのバカ二人組の事は見逃みのがすつもりらしい。
 
 その後、思い出した様に千寿せんじゅおおとりの持つ衛星通信を用いた携帯型送受信機に連絡を入れた。
 そして通信の繋がったおおとりに向けて、たった一言ひとことだけ告げるとすぐに通信を切った。彼の発した一言とは、こうである。
「ミッションコンプリート!」
 この一言でおおとりには何もかも伝わったはずだった。今回、千寿せんじゅおおとりから依頼された作戦は完了したのである。
 ただし、おおとり千寿せんじゅたくした依頼はライラ達の受けたものと同じで、生死は問わないがヒッチハイカーの肉体の一部を持ち帰る…という内容だったのだ。だが、この件に関わった千寿せんじゅとしては、たとえヒッチハイカーの肉体の一部であったとしても、この世に存在させておく気は毛頭もうとう無かったのだ。
 千寿せんじゅおおとりに命令をくだした彼にとっての上位の存在…すなわち、日本国政府の言う事を聞く気など、さらさら無かった。一匹狼の彼には、おかみに義理などは無いのだ。
 誰が何と言っても、千寿 理せんじゅ おさむは新宿カブキ町に事務所を構える、ただのしがない『風俗探偵ふうぞくたんてい』でしかないのだから…

 『黒鉄の天馬アイアンペガサス』を東に向けて操縦しながら、千寿せんじゅは一つだけ気になっていた事を思い出してつぶやいた。

「それにしても… ヒッチハイカーの野郎、最後の最後に誰の名を叫びやがったんだ…? 白虎びゃっこの聴力を持つ俺にも、あの●●部分だけは聞き取れなかった…」

 千寿せんじゅが聞き取れなくて気になっていたのは、ヒッチハイカーの頭部が炸裂する寸前に叫んだ彼の言葉「…ちゃんっ!」の「…」の部分だった。

 たして、ヒッチハイカーが末期まつごに叫んだ言葉は…「じいちゃん!」だったのか? それとも「母ちゃん!」…いや、ひょっとすると「シズちゃん!」だったのかもしれない…

 ヒッチハイカーがこの世界から完全に消滅した今では、知るすべは無かった。
 
 
 
     ********
 
 
 
 千寿せんじゅが新宿カブキ町に向けて飛び立った時刻よりも少し前、奇跡的に生き返った伸田のびたは愛しい婚約者の静香 しずかひざまくらにして安定した寝息ねいきを立てていた。
 静香 しずかは自分がくるまっていた毛布を、横たわって眠る伸田のびたに掛けてやっていた。二人のそばにはおおとりと島警部補の起こした焚火たきびが暖かそうに燃えている。
 おおとりと島、そして負傷した長谷川警部の3人は幸せそうなカップルに遠慮をしたのか、気をかせて焚火の反対側でだんを取っていたのだった。
 負傷している長谷川は応急手当を受けた後、保温機能が万全ばんぜんな緊急用寝袋ねぶくろに入れられて地面に横たえられていた。顔だけを寝袋の開口部からのぞかせた彼は、父親が子供を見る様な微笑を浮かべた優しそうな目で静香 しずか伸田のびたを見つめていた。

 静香 しずかが自分の膝を枕にして眠る伸田のびたに向かって優しく語りかけた。

「本当に良かった、ノビタさん。でも、この人は間違いなく死んでいたのに…奇跡きせきの様に生き返ってくれた。
 理由なんて分からなくたっていい。今、私の目の前であなたが生きている…それだけでいい。
 でも…さっきまで、あれだけ血を流してひどかった傷が、もうほとんどふさがってしまった。これも奇跡としか言いようがないわ…
 本当に信じられない事ばかりだけど…神様、ありがとうございます…」
 静香 しずかは雲の切れ間からす朝日に向かって、両てのひらを合わせて感謝の祈りをささげた。

「あら…? ノビタさんが眠りながら笑った。フフフ、この人…何かいい夢でも見ているのかしら?」

 なるほど、スヤスヤと眠る伸田のびたの顔には安らかなみが浮かんでいた。
 この場にいる者には知るよしも無かったが、静香 しずかの膝で眠る伸田のびたの顔に笑みが浮かんだちょうど同時刻、ヒッチハイカーの眉間みけん千寿せんじゅの発射したレールガンの特殊弾が撃ち抜いたのだった。離れた場所で眠る伸田のびたが、その事実を感じ取ったのだろうか…?

 先ほど、ここ数日来の積雪によって発生した土砂崩どしゃくずれと、怪物化したヒッチハイカーの破壊によって生じ、数か所に渡って国道をふさいでいた堆積物が、ようやく重機じゅうきで取り除かれたむねの報告が作戦司令官であるおおとりの元に届いた。静香 しずかが彼から聞かされた説明では、間もなく救助隊がこの場に到着するとの事だった。もう何も心配する事は無かった。

 静香 しずかは優しく伸田のびたの髪をでてやった。
 彼女の膝で眠る伸田のびたの腹部を背中までヒッチハイカーの山刀マチェーテによって刺し貫かれ、実際に彼が死に至るほどひどかった傷は、驚くべき事に表面的にはすっかりふさがり、出血も完全に止まっていたのだった。あれほどの重症が1時間足らずの間に、ここまで回復するなどという事が信じられるだろうか…?

 暖かい焚火の傍で愛する静香 しずかの膝枕で眠る伸田のびたの顔に、またもや微笑が浮かんだ。
 静香 しずかが微笑んで見守る中、閉じていた伸田のびたの目がゆっくりと開いた。

「気が付いたのね、ノビタさん!」
 歓喜の声を上げた静香 しずかの両目から溢《あふ》れ出た涙が頬を伝い落ち、透明な雫がポタポタと覚醒した伸田のびたの顔に降り注いだ。

「し、シズちゃん…? ぼ…僕は、生きてるのか?」
「うわあああー! ノビタさん!」

 ゆっくりと起き上がった伸田のびたの首に縋り付いた静香が喜びの叫びを上げた。その声を聞きつけたおおとりと島が駆け寄って来る。

「き、奇跡だ…」
 抱き合う恋人達を見た島が驚きの声を上げておおとりの顔を見た。おおとり伸田のびたの顔を見つめたまま小さく頷いた。

 自分達の傍に立つ島警部補とおおとりの姿に気付いた伸田のびた静香 しずかに強く抱きしめられた姿勢のまま、自分を見下ろしているおおとりに向かって何よりも気になっている事を問いかけた。

おおとりさん… ヒッチハイカーは?」

 おおとりにしては珍しいほど優しげな表情と口調で伸田のびたの問いに答えた。

「ああ… ヒッチハイカーはさっき、この世界から完全に消滅したよ。
 ヤツの最後を見届けた千寿せんじゅから連絡があったから間違いは無い。安心したまえ。」

 おおとりの話を聞いた伸田のびたは深い溜息ためいきいた。力の抜けた彼の身体はすがり付いて喜びにむせび泣く静香のせいでブルブルとふるえていた。

「そう…ですか。あの怪物がようやく… 本当に長い夜だった…」
 伸田のびたは自分の顔に燦燦さんさんと降りそそまぶしい朝日に目をすがめながらつぶやいた。

「そうだよ、伸田のびた君。もう終わったんだ。それもこれも、君の活躍のおかげだ。」
 島が伸田のびたたたえる様に言った。
 彼の後ろでは緊急用寝袋ねぶくろに入って横たわりながら救助を待つ負傷した長谷川警部が、寝袋ねぶくろの開口部からのぞかせた顔に満面の笑みを浮かべて何度もうなずいていた。彼の両目には涙が浮かんでいる。
 伸田のびたは島のストレートな賛辞さんじにくすぐったそうな笑みを浮かべた。

「たくさんの人がヒッチハイカーの犠牲になりました。僕の大切な仲間達も…」
 そこで初めて伸田のびたの目から涙がこぼれ落ちた。
「信じられないかもしれませんが…死んでいった人達が僕に力を貸してくれたんです。」
 
伸田のびたの告白を聞いたおおとりが頷いて答える。
「信じるよ、伸田のびた君。昨夜ゆうべも私は君に言ったはずだ。
 この世には、人間の常識などではかり知れない事象じしょういくらでもある。」
 伸田のびたは思い出した。確かにおおとりがこう語ったのは二度目だった。
 伸田のびたおおとりの顔を見つめて頷いた。ここに居る全員が、昨夜から信じられない事を山ほど経験したのだ。
 何よりもヒッチハイカーによって負った傷のために心肺機能が停止し、千寿せんじゅに運ばれてくる数十分もの間確実に死んでいた伸田のびた蘇生そせいにしても、彼を死に至らしめた重症の驚くほど速い治癒ちゆだって、『奇跡きせき』という一言ひとことだけで片付けてしまうのは簡単だが、到底あり得ない話なのである。
 こんな事は医学的にはもちろん、人知の及ぶ限りで起こり得るはずの無い現象だった。
 とにかく、その様な不可思議な出来事ばかりの起こった悪夢の様な夜は終わったのだ。しかし、伸田のびたの仲間達4人を含め、県警SITの精鋭警察官達という大勢おおぜいの死者が出てしまった事を考えると、悪夢が終わったと素直に喜ぶ訳にはいかなかった。この場にいる5人の生存者達の間に、しんみりとした空気が流れた。

「プルルルル…」

 その時、誰かの携帯電話が鳴った。突然の電話にその場にいた全員が驚いたが、どうやら鳴ったのはおおとりのスマホらしい。皆の注目の中、しばらくスマホを耳に当て会話をしていたおおとりだったが、通話を終えた彼の顔には明るい笑顔が浮かんでいた。そしておおとりが他の4人が見つめる中、彼らの顔を順に見回しながら言った。

朗報ろうほうだ。今のは風祭 聖子かざまつり せいこさんからの電話で、瀕死ひんしの状態だった安田巡査が一命を取り留めたらしい。現在は搬送先の施設で処置を受けている。」

「おお…」
おおとりの説明を聞いた4人の顔が喜びに輝いた。

「安田さんが助かったのね。本当に良かった。」
 上気したほほが可愛くもピンク色に染まった美しい顔に満面の笑みを浮かべた静香 しずかが、うれしそうに伸田のびたに抱きつきながら言った。

「ああ! やったね!」
伸田のびたも嬉しそうな笑顔でうなずき返す。

「隊長! やっぱり、安田の野郎は不死身なんですよ!」
 島が寝袋ねぶくろの開口部からのぞかせている長谷川の顔に向かって大声で言うと、喜びに顔面をしわくちゃにして両目に涙を浮かべた長谷川が何度も頷いている。
「ああ、ヤツはこれからの我々SITの希望だ。」

 手放しで喜び合う4人に対し、おおとりが深刻な表情で言った。
「一命は取り留めたが、安田巡査は重症だ…いや、予断の許さない重体といった方が正しい。非常に残念だが、彼が警察官として現役復帰ふっきする事はかなわないだろう。」

「そんな…」
「あんまりだ…」
 安田巡査の無事を喜んでいた全員の顔が悲愴ひそうな表情に変わり、口々に悲しそうなつぶやきがれる。

「だが、安田巡査は今回の事件における功労者の一人なのは言うまでもない。彼の今後に関しては国が責任をもって保証する。
 もちろん、今回の作戦に参加し、命を落とした者や重傷を負った全ての関係者についても同じだ。今の所、これ以上は言えないが私を信じてくれ。頼む…」
 そう言っておおとりが深く頭を下げた。それ以上、他の4人は安田巡査について口にするのを差し控えた。この場にいる全員が、今回の作戦の総指揮官としてのおおとりでは無く、共に命がけで戦った一人の男として彼の事を深く信頼していたのだ。何よりも誠意を込めて話す彼の真剣な言葉を皆が信じた。

「安田が生きてさえいてくれたら、それでいい。」
 一同を代表する様にして長谷川が言うと全員がうなずいた。

「そうですね。元気のかたまりみたいなヤツが回復したら、二人で逢いに行きましょう。」
 そう言った島の目には涙が光っていた。
 静香 しずか伸田のびたも心優しい巨漢の安田を思って泣いた。全員の脳裏のうりには、気が優しくて力持ちで、いつも明るい安田の笑顔が浮かんでいた。
 生き残った者達の間には家族以上に強いきずなが生まれていた。安田を思う皆の心は一つだった。
 しばらくの間、口を開く者はいなかった。

 次第しだいあかるんで来た空の元、しばらくの間、皆に温かさを差し伸べてくれる焚火たきびぜる音しか聞こえなかった沈黙を破ったのは伸田のびただった。

「それにしても…… ヒッチハイカーは誰かの車に乗せてもらったら、どこへ行きたかったんでしょうか? 僕の車に乗って来た時、ヤツは南へ行きたいと言ってましたが…」
 伸田のびたが誰にともなくそう言うと、彼にすがり付いて泣いていた静香 しずかがようやく身体を起こし、彼女をふくめてその場にいた全員が首をかしげながら、まるでそこに答えを求めるかの様にそろって朝日の方へ顔を向けた。もちろん、夏の様に冷えた身体をあたためてくれる強い日差しは望むべくも無かったが、見つめているだけで心が温められる思いのする柔らかく優しい光だった。

「さあな… 今となっては確かめようもないし、誰にも分からない。しかし、理由はともかく、ヤツはヤツなりに文字通り命をけてでも南へ行きたかったんだろう。それだけはヤツにとっての真実だったんだろうな。」
 皆を代表した訳では無かったが、おおとり伸田のびたの問いかけに対して答える様に言った。

 皆が見つめる中、ここ数日間居座り続け、空をおおつくくしていた灰色の厚い雲の層が上りつつある朝日に追い散らされる様にして徐々に動き始め、少しずつだが曇天どんてんを切り開く様に青空が広がり始めた。
 その明るくなりつつある朝の寒い空気の中を、森をへだてて1kmほど離れた地点の地上から空へと向けて突然、朝日を反射して銀色に光る物体が高速で飛び立つのを人々は見た。そして、流星に匹敵ひってきする速度で飛行し続ける銀色に光り輝くその物体は、いまだ空の大半をおおった灰色の厚い雲の層を突き抜けると、東の空に向けてまたたくく内に飛び去って行った。

 突然現れて東の空へ飛び去った銀色の物体を目撃した他の4人が驚きの声を上げる中、一人静かに空を見上げたまま鳳 成治おおとり せいじが顔に満足そうな笑みを浮かべてつぶやいた。
「ありがとう、ニケ…」

 風はまだ吹いていたが雪は降り止み、長く吹き荒れた吹雪は治まっていた。
 その時、凍てついた地面に降り積もった雪を蹴散けちらしながら近づいて来る救助隊のトラックの響かせる力強いエンジン音が、伸田のびた達一行の元へ聞こえて来た。

「これで帰れるのね、私達…」
 嬉しそうにつぶやく静香を強く両腕に抱きしめながら伸田のびたが答えた。

「そうだよ。この美しい夜明けと共に恐ろしい悪夢は終わったんだ。
 帰ろう、僕達の街へ…」

 愛し合う恋人達は誰の眼もはばかる事なく、互いにしっかり抱き合うと熱く長いキスを交わした。

 こうして、生き残った者達の万感ばんかんの思いの中、本来なら聖なる夜であるべき筈の12月24日クリスマスイブの恐ろしい一夜は明け、雪におおわれた夕霧谷ゆうぎりだに一帯は、数日ぶりに太陽が顔をのぞかせる明るいクリスマスの朝を迎えた。

【完】

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