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*25 クールベ

 パリから戻った私の鼻先をいつまでもくすぐっていた旅の余韻は、感動や興奮といった類の楽しげなものなどではなく、むしろ落胆や消沈といった類のかんばしくないものであったのは大変な誤算であった。いや、こう言ってしまってはパリという街が期待外れに詰まらなかったという批評に疑われかねないので誤解を生まぬよう正すと、実際詰まらなかったのはこれまでの私自身であり、落胆や消沈も己の存在の小ささを思い知らされたことにあった。旅行に出掛ける前の私の想定では、今頃嬉々としながらパリの魅力を各方面に吹き散らかしていた筈であったが、がらりと心境が変わったお陰でそうした矛先ベクトルに向いて回る頭を持てなくなっていた。

 
 パリの街の雄大さと長く守られてきた歴史の重厚さに見事に圧倒された私は、現代に生きる我が身を取り巻く森羅万象がことごとく下らなく思え、殊に私自身の存在などはこの上なく取るに足らないほど瑣細ささいであるという事を突き付けられたような心持がした、というのが私の胸の内に生まれた落胆と消沈の概要である。そうしてそれを機に自分自身と膝を突き合わせ、瑣細な存在なりに難しい事をあれこれ考えていた、というのが旅の余韻の詳細である。そんな余韻に浸りながら私は自分の身の丈を測り直し、自分の歩き方を見直した。
 
 身の丈を測ると、どうしても頭上の目盛にばかり目を取られてしまうが、不図視線を足元へ落とすと踵が浮いていたから下ろさせた。踵が地面に着くと僅かばかり視界も変わった。また安定もした。そうして今度は歩き方を見直そうと、背後に連なる足跡を追った。足跡の始まった場所まで来た時、すっかり忘れてしまっていた元の歩き方を思い出した。それは私の原点であり、また理想でもあった。
 
 
 落胆と消沈の余韻の中で己の身の丈と歩き方を見詰め直させられた時、私が自身の日常や感情などを粗雑に、また簡易的に吐露する事に一塵いちじんの価値も見出せられない事に気が付いた。私が自身で見聞きした事を何だ彼だと安易に弁舌する事に一埃いちあいの意義も見当たらない事に気が付いた。世界の片隅に生きる瑣細な存在でしかない私が日常の出来事を世にひけらかし、感情のうつろいを見せびらかし、だから何だと言うのだ、である。極め付けに問題はその粗雑さであった。ただ感情の捌け口に安易に打ち込まれた文字も、ただだらだらと口から零れるだけの言葉も、到底芸術と括れない粗雑な姿で世に放たれていた事実が大変軽薄であり、足跡の先にあった己の原点をすっかり忘れていたという失態の証拠でもあった。
 
 私が残す修行録は一つの個人の記録であると共に、作品という認識で文をしたため絵を描くという完成性の点において芸術のつもりである。完成させた芸術だけを世に残してそれに自分で満足さえしていれば大健全である筈が、私の素性を知ってくれとばかりに身近らしく安易な言葉を世に投げて、一体君は誰だと言うんだ。君の存在がどうしたと言うんだ。いい加減に自分自身でも認めざるを得ない程、所変わっても社会の中で風変わり者として扱われてきた君の吐く言葉に何の価値があると言うんだ。パリや日本のみならず世界各国、歴史を作り上げて来たのはいつだって多数派マジョリティである。素性など雑に切り売りせず大人しく世界の片隅にぽつねんと存在し、自分の耳目で現実を観察し、自分の手足でひっそり芸術と仕事に向き合いながら勝手に人知れずこだわっておきさえすればそれで十分である。

 そんな余韻を引き連れて工房に一週間ぶりに姿を現した私のポケットには、ちゃんとパリから持ち帰った興奮と感動も一握り分は入っていた。仕事中に同僚からパリはどうだったと聞かれる度に「兎に角素晴らしかった」と興奮と感動の側面だけを説明して見せ、落胆と消沈はそもそも部屋に置いて来ていた。シルビアは「パリとこの町はどっちが良かった」とこの田舎町を卑下する様に冗談めかして聞いて来たから「それはもちろんこの町の方が良いよ」とこちらも冗談染みて返事をしたが、直ぐ後に「住むにはね」と続けた。シルビアは「本当に言ってるの」と懐疑的であったが、物価が高いという話をしたら納得の表情であった。私が職場で毎日飲んでいるカプチーノもパリでは七ユーロくらいしたんだと言うと、殆どの同僚は目を丸くした。
 
 
 有給休暇が明けて初日となる月曜日の仕事は、まさに夢から覚めろと必要以上に現実に引き戻されるが如く大変苦労した。只でさえ仕事量が多く八時間ではおさまらない見込みであった所に加えて、全く終盤になってシェフから一本の電話があり、ロッゲンブ※1ロートを十二個追加で作ってくれという異例の指示が入った。時間が無いから受け付けられない、とその指示を蹴られる筈も無く、私はもともと手を付けていた作業を一度止めブロート生地の仕込みに取り掛かった。
 
 本来一日の始めに作られるロッゲンブロートを仕事の終わり掛けにまた作るんだから、何から何までその準備がなされていない。既に温度の下がっているオーブンをもう一度ける所から、足りない材料を用意する所まで生地を仕込むだけでも思っていた以上に手間を食った。ようやく材料を全て量り終えるとミキサーで生地を捏ねている間に元々の作業の続きに掛かり、生地が出来ると持ち場を見習い生に任せ、自分はブロートの成形に取り掛かった。そうして発酵室にブロートを入れるとまた見習い生の元へ戻り、それから発酵が済みオーブンに入れてブロートが焼き上がる迄、結局二時間の残業に至った。有給休暇に入る前の私であれば酷く不満を言っていたであろう状況も、この日の私は随分余裕があった。見習い生達にも、有給休暇の後の仕事はこうでなくちゃ、と言って笑い飛ばす余裕さえあったのは、休暇で心身共にリフレッシュした事も要因の一つではあろうが、また翌日に諸聖人の日という祝日が控えていた事も要因の一つではあろうが、パリに圧倒された私が踵を地面に着けた証拠の様にも思われた。世界の一構成員であり、ドイツの一構成員であり、この町の一構成員でありベッカライ・クラインの一構成員に過ぎない私が、パン屋を統治するシェフの指示に従うのは当然の役目だという諦めを覚えたのだろう。

 
 そして祝日明けの水曜日、シェフが開口一番「君の焼いたブロートは全部売れたよ。よくやった。綺麗に焼けていた」と私に言ってきた。それから朝方になってシェフの夫人も出勤してくると同様に「よくやったわ、すごい」と、随分興奮気味に言って来た。どちらも私をまるで子供扱いするような褒め振りであった。仮にも製パンマイスターの身である私は何れも反応に困った。やった嬉しいときゃぴきゃぴ飛び跳ねる程の大仕事をしたわけでもあるまいし、これでもドイツの製パン業に従事して八年も経つんだから、あまり大袈裟に褒められてはかえって癪に障りかねなかったが、それでも彼らが満足したというのは本当らしかったから御の字であった。
 
 思えばこうしてパン工房で一人で生地の仕込みから発酵から焼成まで行うのは初めてであった。自室にこもってパンを焼くのは一年以上続けているが規模も設備もまるで違う。やはり工房は快適である。これだけ設備が整っている中で一人、全て自分の塩梅でパンを焼けるのであれば、三時間でも四時間でも残って黙々とパンを作っていたいとさえ思うほど楽しかった私は、踵を下ろした目線で、自分が何を好み何を嫌うのかという単純な仕分カテゴリを改めて整理してみた。


 


(※1)ロッゲンブロートRoggenbrot:ライ麦粉の割合が91%~100%の大型パン。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


インスタグラムではパンの写真も投稿しています。


この度も「ドイツパン修行録」ならびに「頬杖ラヂオ」への訪問、ありがとうございました。もしよろしければサポートもよろしくお願い致します。 引き続きドイツパンに真摯に向き合って修行の道を精進して参りますので、何卒応援の程よろしくお願い申し上げます。また来てください!