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*18 AI

 えて言うなら不摂生の隙を突かれた、と言う所だろう、今週は舌に口内炎をこしらえて週を明かした。眩暈めまい、転倒、口内炎と、まあ人間の生活において取り分けて注目する様な大事おおごとでも無い物ばかりではあるが、一度気にし始めると妙な度重なり方に思われて不穏ふおんである。不穏ではあるがどれも元凶が己であるんだから仕方ない。かえって己の不摂生な生活を改めたまえと言う神のおぼしかの様にさえ思われた。それでも今週に限って言えば仕事による負担が大変なものになるだろうという予測が先週の内から立たされていて、心を溌溂はつらつとさせるつもりも無いでいたから、仕事中も同僚と余計な話もせずただ黙々と抱えた仕事を一人片付けていくには口内炎は都合の良い口実であった。
 
 
 先週すっかり毒を吐き出しておいたからもう必要以上に彼是あれこれ気に掛ける要領も無かった。期待には落胆が付き物である。私は職場に到着してから仕事を終え職場を後にするまで、目に入る仕事は片ッ端から私が全部引き受ける心積で過ごした。時間を持て余している者も鹿十しかとした。用事も無くただ体だけを忙しく動かす者も見過ごした。それで自分の出来る事だけ淡々と片付けた。案の定また一人残業であったが、まあどうだって良かった。
 
 その日は月曜日で週の始まり、まだ体力があったから家に戻るとそのままツォプフを焼いた。久しぶりに食事パンでは無く甘いパンを食べたかったのである。実を言えば先週の内に作る積で、食べる時の為にジャムまで買ってあったのであるが到頭作れず仕舞いでこの日に持ち越された。

 翌日も出勤し仕事をしていると、ただでさえ残業必至の仕事量を抱えているところに更に二つも加わった。一瞬心を濁らせ文句の一つも吐きそうになったが、幸い口内炎の所為せいでそれさえ億劫だったから、まあ二時間も残業すればその内片付くだろうと心を穏やかに保った。日本で働いていた頃に比べれば二時間の残業などあって無い様な物である。他の同僚が皆帰って行った十時頃から一人黙然と長い道程を歩み始めた。
 
 すると暫くして製菓のシルビアが例の如く私の元に来て「今日は何時に終業?」と聞いて来た。また、例の如く皮肉でもって私を労う積だろうと、私の厳守不可能請け合いな定時の終業時刻をへらへら伝えると、「何か手伝える事はあるかしら。私達、今日は余裕があって手が空いているの」と言って来た。こういう言葉を掛けられた時、私には反射的に「一人で出来るから大丈夫だ、心配する事は無いよ、有難う」と折角の優しさを悪気無く無下にしてしまう意地ッ張りな性質があった。この時も一瞬そうした言葉が脳裏によぎったが、そこをぐっと抑え、彼女の言葉に甘えた。少しして製菓のアンナも加わって三人で作業を進めた。
 
 これ迄にも、まだ旧工房で働いていた時分、私が同じように延々作業をしている時に彼女達が掃除を手伝ってくれる事は幾度かあった。どうしても製菓と製パンでやっている事が異なるから、製造工程に急遽加わるよりも掃除をして貰う方が良いだろう、という考えから私は何時もそうして貰っていた。それだからこの日ほど、製菓の二人とじっくり“共に働いた”事は初めてであった。結局およそ一時間半を掛けて四つの製造作業を手伝って貰った。

 作業中に彼女達と他愛無い会話もした。「今日は偶々たまたま余裕があったけど私達の方も仕事がかさんでしょうがないわ」といった仕事の愚痴や、「君が日本に帰ったら屹度きっと両親も喜ぶでしょう」といった私のこれからの話など、してみて思ったが確かに彼女達とこうした話をじっくりする機会や時間というものが不断ふだんからあるわけでもなかった。無論積極的に製菓の作業場へ行ってコミュニケーションを図る事も可能であるが、仕事中となると飲食も走尿そうにょうも気付かぬ内にないがしろにしてしまう私である。家でも職場でも腹が減ったら「嗚呼、腹が減っているな」と頭で考え、便所に生きたかったら「嗚呼、便所に行きたいな」と頭で考えるばかりで、当の体は飯を食おうとも便所に行こうともせず手元の作業を続けては、作業を一通り片付けてからようやく「嗚呼、そう言えば」と空腹と尿意を思い出すんだから、そんな図法螺ずぼらな私がまさか足繁く製菓の作業場と自分の持ち場を往来出来る筈も無かった。それだからこの時の空気感というのが新鮮で次第に気持ちもかろやいでいった。

 「一人でやるよりずっと早く済んだよ、手伝ってくれて有難う」と最後に伝えると「問題ないわ」と言って、それで二人は帰って行った。私も残りの片付けと掃除を済ませると工房を後にした。それでようやく一時間の残業で済んだと思った時、抱えていた作業量が如何に無謀であったかを俯瞰的に理解した。予定より早く家に帰る事が出来た私はカイザーゼンメルを焼こうとしたが、どうにも集中力が持続出来ずろくなパンに成らなかった。
 
 
 水曜日と木曜日はトミーが休みであった。すなわち人員をさらに一人欠くわけである。まあ然しこればっかりは公平な権利であるから私が兎や角言うべき事ではない。その上彼は火曜日、彼もまた少し長く残って私の作業を手伝ってくれたのであるが、その際に「君、僕のいない明日明後日、いいか、必要以上の作業はする事ないからな。他の作業は他の同僚に任せておいて、君が彼らに手を貸す必要は無い」と助言を残して、それで帰って行った。成程なるほど、確かに私が勝手に気を回してやり過ぎていただけかもしれない、という考えと、然しそれも工房全体が順調に回る為に必要と思って動いていたのだが、という考えとが同時に浮かんだ。結局私は一度彼の助言通り、まるで周囲の事情を構わずに自分の作業ばかりをしてみようと思った。
 
 全体の作業に参加しない分、自分の抱えた仕事に手を付ける時間も早まった御陰で水曜木曜と久しぶりに残業をせずに帰る事が出来た。アンドレが幾つものブロートを一人こなしていくのを横目に、本来であればそこへ行って手を貸したいと思う気持ちを抑え、私は私の作業ばかり進めた。冷静に考えればアンドレに手を貸すのは私でなくとも出来るが、私が抱えている作業についてはこの職場で代われる者がいないんだからこの形が真っ当じゃないかと随分心も落ち着いた。
 
 
 金曜日に休みが入っていたから、一先ず木曜日まで凌げればという心積こころづもりでいた私は、木曜日の仕事も後半になると早くも肩の荷を一旦降ろせる事への希望が見えだした。前日に私用で早退した事が後ろめたかったんだか、アンドレもこの日必要以上に長く残って何だかんだと動いていた。
 
 しばらくすると彼が私の元に近付いて来た。彼が土曜に休みが入っていて、この日から来週まで顔を合わせないという訳で少し話をした。「週末の予定はあるのか」と聞かれたから、少し考えて「そうだ、また依頼された絵があるからそれを描かなくちゃならない」と言うと、少し間を開けて「俺にも一枚描いてくれないか、君が日本へ帰ってしまう前に」と思い掛けない依頼を受けた。そして続けて「何という事も無いが、記念としてだ。絵を見たら君を思い出せるように」と言った。「君が帰れば屹度きっと俺達はもう会う事はないだろうからな」というある種の長期的視点による死別的覚悟を持った言葉も紡いだ。不断から少々卑怯癖のある彼である。また時に彼に対して悪態をつく事のある幼稚な私である。それでもこの場合に彼が私に向け放った特別な言葉を、態々わざわざ日頃の難点に透かして見ては地に叩き落とし陰で疑う様な、そんな不躾に私は生きていなかった。
 
 AI、AIの大合唱が止まないそういう時代であるが、英語に貧しい私はローマ字読みが出来ていればそれで十分である。それだから彼から受け取ったこの言葉に詰められた、性の間ではなく人の間に生まれる愛はすっかり読み取った。私はこの時何とも身に覚えの無い穏喜おんきに満たされた。世界の片隅に生きる僅かな存在である私でも、その存在をいずれ終わる人生の内に記念して置きたいと考えてくれる存在が在った事は、同時に私の人生の中に彼を記念しておく事でもあり、これほど命がすなおに喜び己を肯定する出来事は恐らく他に無いだろうと思った。人との間に必ず起こる大小様々な軋轢あつれきから己の身を守る為に、血の通う遣取やりとりを遠ざけていれば確かに安全であるかも知れないが、AIにも取って代わられないであろう愛は、矢張り人との間にしか生まれないように思う。それらを大切に集めて生きてそして死んでゆければ、そのままこの些細な命の意味である。
 


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
※パン作りの様子などはYouTubeでご覧になれます。


【お知らせ】

昨年2022年12月24日に『短篇集「クリスマス・プレゼント」』を公開いたしました。

こちらの作品を『創作大賞2023』に応募するにあたって、応募規定に則った形に編集し全5話を各話毎に明日アップし直します。まとめて上がりますのでご了承いただければと思うと共に、1話ずつ区切って上がりますので読みやすくなっているかとも思います。ゴールデンウイーク、お時間と興味がありましたら是非読んで頂けると幸いです。
GENCOS



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