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*31 愛、ときどき、哀

 朝の六時前に出勤すると更衣室に直行し着替えを済ませ、そこから工房へ行くにはまず製菓の作業場を通過するのでそこでアンナと挨拶がてら少々話をする。今は専ら部屋探しの話が中心になるが、そう言えば今週も半ばに一人パイ生地を折り込んでいる私の元に近付いて来たかと思えば、先週に彼女が見付けてくれた二件の部屋の内、片方がどうも彼女の知人の管轄にあったようで、近い内に合同見学の予定があるから早めに連絡してみたらと助言をくれた。私は助言通りにその日中に連絡を入れ、翌日には内見に伺った。その結果などをまた出勤しては彼女に伝えたりしていた。

 それから金曜日になると、どうも来週の月曜日からまたドイツ電鉄のストライキがあるらしい、というニュースをラジオで言っていたと報告してくれた。彼女が結婚だか交際だかしている男性を先週の土曜日の集会で見掛けた以外に彼女の身上についてはてんで無知であるが、私が関わって来たこの三週間だけでも彼女の茶気々々(ちゃきちゃき)とした性質や竹を割ったような振る舞い、また驚くべき面倒見の良さなどを観察していると、所謂姉御肌と言うのはこういう女性の事を指すのだろうと深く感心した。実際私よりも姉に相当する年齢であるかどうかについては尋ねる事も無かった。それでも今週、もう一人の製菓職人が有給休暇に入ったので一人でケーキや菓子を切り盛りしながらも相変わらず元気であったので、仮に私より若かったとしても責任感の強い立派な女性である事に違いは無かった。


 そうして彼女との雑談を済ませ工房へ、大股一歩で跨ぐには物凄い段差を埋める為だけの階段を下って入ると、早朝から働いている同僚と挨拶を交わして作業に馴染む。今週からもう一つの支店が夏季休業をしている都合で、先週と比べると製造量も稍(やや)少ないらしかった。初めてこの工房に入った先々週から比べるとすっかり雰囲気にも慣れ作業内容も少しずつ覚えてきていた私は、徐々に任せられる仕事も、それから私が勝手に動く事も増えて来た。そしてそのグラデーションが特に顕著だったのはクロワッサン類の製造である。思い返せば初めの週には毎日のようにシェフ(※1)が付きっ切りだったのも、今週になっては「あれとあれをやっといて」と言われる位になってきた。無論指示を貰っても不明瞭な部分に関しては私の方から質問してその空欄を埋めるわけであるが、それ以降は私に責任が移る。とは言え生地にバターを折り込むのは私が出勤するよりも前に同僚が済ませてあるので、私はそれを伸して成形するくらいなものであるが、それでもまあ大きな躊躇もなく作業出来るようになってきた。

 それから今週はプレッツェル(※2)の焼成手順も教わって、金曜日には見習い生のヨハンと共に私が主導権を握る形で遣った。プレッツェル自体は前職でも学校でも散々ラオゲ液(※3)を掛けたりオーブンに入れたりして来ているわけであるが、其々のパン屋によって遣り方も機械もオーブンも焼成温度も異なるので私はルーカスの説明を真面目に聞いた。また焼き上がったプレッツェルをオーブンから取り出す際に私が「取り出しても良いか」と積極的に訊くと「待て俺がまず見せる」と言ってこれもまた説明を受けた。プレッツェルをオーブンから取り出すくらい何の説明が要るものかと思ってルーカスの背後に立って眺めていたが、確かに決まった遣り方があったので、次の日からはそれに倣(なら)って、私がやりますと立候補してはラオゲ液を掛けて窯に入れそれから焼き上がりを取り出して販売婦の方に持って行く所迄を繰り返して覚えた。

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 仕事中にふとシェフが私に「また何か労働証明書だとかが必要になったらいつでも云えよ」と云って来てくれた。この言葉自体も喜ばしいが、その裏には十月からの雇用の保障も意味されているようでまた嬉しかった。執拗(しつこ)い様であるが七月の土壇場壇(どたばた)劇を思うと安心感も一入(ひとしお)でシェフのその言葉同様、アンナの面倒見の良さやヨハンとの談笑、店頭から工房に来る度に名前を呼んでくる販売婦等々、八月に入ってからの出来事は殆ど愛の様に思えた。金曜日が休みで来週からは有給休暇に入るルーカスとは十月迄顔を合わせる事がないので、彼が木曜日の帰り際に「お前なら残りの試験も大丈夫だろう。頑張れ、また十月に会おう」と肩を叩いて私に言って来てくれたのも私の心に届く時にはすっかりその形を愛に変えていた。



 部屋の内見は木曜日の十八時からだったので、仕事を十三時に上がった私は一時間掛けて一度下宿まで戻るのも馬鹿らしく思えて、それなら途中電車の乗り継ぎに使う大きな街で時間を潰そうと考えた。それで私は駅に併設したショッピングモールで、スマートフォンの画面の修理を依頼しに行った。実は月曜日に替えの部品を注文しておいたので、この日は電話を預けて三十分くらいで直るだろうという事だった。私はモール内を一通り回ると一先ず昼食を済まそうと考えた。スマートフォンが無いのできょろきょろと時計を探して歩いたのだがモール内になかなか時計が見当たらず、昼食を購入したレシートを見て漸く時間がわかった。

 食事を終えると修理屋に向かった。体感ではとっくに一時間と経っていそうであった。それで店の前へ行くと、あと十分待ってくれというので近くにあったソファーに腰掛けて本を読む事にした。そしてまた修理屋の前に行くと、バッテリーが膨れていて本体が閉じないからバッテリーも換えないといけない、と言い出した。それでタッチパネルが反応しないとも言いだした。アラビア言葉を喋る彼がろくに接続詞も無く二つの事実を並べてきたので、バッテリーが原因でタッチパネルが反応しないのかと問い質すとまた、バッテリーを換えないといけない、タッチパネルが反応しない、を只繰り返すばかりであった。それから私は色々の質問をしたのだが、いずれも私の質問を掻き消す如くに一辺倒の返事ばかりしてきたので、これは私がドイツ語に不自由な異邦者だと思って強引な説明を繰り返すのか、それとも彼ら自身の言葉の不自由さを力尽くで誤魔化そうとしているのかと考えていると、店の周りに寄って来た別の客の所を転々とし始めた。その合間にまた私の前へ来て、私の件がまだ済んでないじゃないかと言うと少々呆れた様に、この期に及んで何の進展も無い返事ばかりだったので、そっちの言っている事はとっくに理解しているんだと伝えると、また別の客の相手をし始めた。

 漸(ようや)く私に割く時間を持てたと見えた彼が正面に立つと、このままでは埒が明かないのでいよいよ私の方で主導権を握ろうと、極力はきはきとゆっくり質問を掘り下げていくと、どうもタッチパネルがそもそも不良品の様であった。まるでバッテリーとタッチパネルの因果を仄(ほの)めかすが如く並列に扱って来ていたが、そのタッチパネルが不良品なのであれば私の方に毫も責任がないじゃないかと言うと、そこで初めて申し訳ないといった態度に変わった。それで幾ら手を打とうとしてもその日にスマートフォンを持って帰る事は出来ないと見えて、また何時(いつ)取りに伺えば良いかと聞くと「その時はまた連絡する」と言うので、果たしてこれが冗句(ジョーク)なんだか真剣なんだか愈々(いよいよ)押し問答に飽きた私は、土曜日に一度取りに来るからと言ってその日は御仕舞にした。


 スマートフォンを失って最も先に脳内に浮かんだ問題は電車の定期券とアラームであったので、修理屋を後にすると真っ先にモール内のスーパーへ飛び込み、安い目覚まし時計だけ持って足早にレジへ向かった。そして店を出ると駅の時計を見上げながら時間を合わせ、そのままポケットに目覚まし時計を突っ込んで歩き始めた。懐中時計という物を懐に忍ばせていた人間を時代劇などで見た事があったが、よもや二〇二一年という時代に目覚まし時計をポケットに携帯して歩くなど全く令和の喜劇王でもやるまい。切符に関してはその日も翌日も余計に払うより他無かったので痛手であった。土曜にはインターネット上で何とかして得た元の定期券のデータを印刷屋に刷って貰ったのでそれで電車に乗って又修理屋を訪ねると、案の定まだ替えのバッテリーが届いていないようだったので、じゃあまた月曜日に取りに来ると言うと、最後に「ドイツ人みた様な事を云うようであるが、ゲドゥルド・ハーベン(※4:辛抱強くお待ち下さい)だ」と洒落でも言う様な表情で言った。何処までも喧(やかま)しい男である。


 実際、私にとって問題だったのはアラームや定期券ばかりで、通勤時の電車の中では鞄に持ち歩いていた小説を開いては一郎と嫂(あによめ)の関係を観察したり女景清(かげきよ)の話にのめり込んだり(※5)していれば済むし、スマートフォンが無くても実際生活は熟(こな)せているわけであるから、ひょっとするとこれは連絡やSNSから一度離れて自分自身の身の回りを見つめ直せというお告げの様に思われた。そのお陰で折角内見をした綺麗なアパートに応募する事が出来なかったのは残念に思われたが、今年のこれまでの出来事を振り返ると屹度(きっと)これも、さらに良い住居に巡り合える吉兆であろうと目線を上に向けた。豈図(あにはか)らんや、デジタルデトックスである。




(※1)シェフ [Chef]:ドイツ語で社長、或いは立場が最も高い者。ここではクリスという男を指す。
(※2)プレッツェル [Brezel]:ドイツを代表する腕を組んだような形の小麦のパン。
(※3)ラオゲ液 [Lauge]:プレッツェルに独特のツヤや食感を生む水酸化ナトリウム水溶液。
(※4)ゲドゥルド・ハーベン [Geduld haben]:直訳すると「忍耐を持つ」。「しばらくお待ちください」という使われ方をする。
(※5)一郎と嫂…のめり込んだり:夏目漱石『行人』の一幕。

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