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*3 ルーム・ツアー

 久し振りの六連勤を片付け週末を迎えた私の具合が思わしくないでいる。昨夜金曜の深夜二時に目を覚ました時は寝不足こそあったかもしれないが概ね健康な身体であった。それが出勤して働いている内に頭痛が始まり、その内胃の中で不快が蠢くように変わっていったのである。自業自得たる心当たりは一昨日の深酒にあった。この日こそは早めに床に着こうと心に決めて、直ぐに眠れるようにと酒を飲み始めたのであるが、何時の間にかかえって普段よりも遅くまで起きてしまっていた。慌てて眠ったのが夜の二十一時で、それから昨日の深夜二時に目を覚ます所に繋がるのである。いわば普通なら眠っている内に起こる二日酔いの過程を仕事中に意識の内に身を持って体感したといったところである。
 
 己の不摂生が原因だと判明して尚、他者に同情や心配を求める程身勝手に育っていない私であるから、間違っても体調が思わしくないんだと仕事中わざわざ同僚に漏らす事無く働いた。そうして人知れず胸の内で昨晩の過ちを深々と自省し、流石にこの日は仕事を終えたら直ちに眠るんだと心に誓った。或いは眠るより他に彼是あれこれ精力的に活動出来る気力も、工房の掃除をしている頃には底を突いていた。

 

 酒に水分を奪われた上に深夜から肉体労働で汗を出すんだから、その脱水ぶりたるや酒を飲んで眠った場合の寝汗とも比べ物にならないだろうと、私は帰宅してからがぶがぶ水を飲んだ。そもそもが酒も珈琲も飲む私であるから果たしてどれだけの水を摂れば足りるんだか皆目見当も付かないが兎に角可能な限り水を飲んだ。それから昼飯も沢山頬張った。それで昼の内に早速一時間程眠った。目が覚めても具合はそれほど回復している様子も無かった。
 
 暫くしてまた腹が減ったから今度は単簡な夕飯を食ってそれでまた前日より二時間早く布団に潜り込んだ。ところが慣れない昼寝などを挟んでしまったからかなかなか眠れずに時間が過ぎた。頭痛はするし目を開くのも億劫な私は一般常識とは真反対の構図で睡魔と戦った。私は殆ど眠った気のしないまま夜中の一時に目を覚まして出勤した。眠ったら治るものと高を括っていた私はただでさえ細い目をさらに重たく開いて何とか仕事は片付けた。 


 酒を飲むと体温調節も狂うと聞いた。そう考えてみると工房がサウナの如く灼熱であるのと反対に、私の借室アパートは幾ら屋外で太陽がかんかんに照り付けていようと半袖で過ごすには肌寒いくらい冷えていた。冬でも室内であれば半ズボンで過ごしてしまう私は自分でも気付かない内に身体を冷やしてしまう悪癖がある。二日酔いが風邪に進展する条件としては申し分の無い生活である。

 週末に近付くに連れ調子を崩していった私とは裏腹に、火曜日から起こし始めたリエヴィト・※1マードレは日に日に活気付いていった。週の頭に不図、イタリア南部のアルタムーラと言う町にあるイタリア最古と言われるパン屋を思い出した私は、いよいよ自分でもパーネ・ディ・ア※2ルタムーラを再現してみたいと思うに至ったのである。それで直ぐ様、リエヴィト・マードレを起こした。
 
 ライサワ※3ーの初種※4なら冷蔵庫で眠っていたから、その酵母を使って作ることにした。小麦粉で起こすリエヴィト・マードレにライ麦由来の初種を使うんだから混血にはなってしまうが、まあ大体の物は試しである。

 今週はヨハンが職業学校に通い詰めで工房にはおらず、火曜日まではアンドレも休暇であったから私とルーカスとシェフの三人だけで始まった今週の月曜日と火曜日は大変であった。火曜日に一人で五〇〇個ほどのペストリ※5ーを作っている時などは永遠の様に感ぜられた。そんな二日を切り抜けると水曜日にはアンドレが復帰してきたので負担は随分軽くなった。そうして今週初めて定時に工房を後にし、とは言え帰り道に買い物をして荷物を肩から提げて歩いて余計に疲れた私がようやく家に帰ると、果たしてリエヴィト・マードレは見事に膨らんで私を迎えた。私は足に蓄積した疲労もそっち退けに酵母の働きに安堵した。そうして膨らんだ種の一部に新たに小麦粉と水を加えてまた生地に捏ね上げた。これを繰り返せばライ麦の血も少しは薄まっていく筈である。 

 週も後半に差し掛かって来ると徐々に疲労の影が見えだした。木曜日には甘味が食べたいとモーンボイ※6ガルを作ろうと予定していた私は、それでもその工程を想像すると疲労感が勝ってしまうというせめぎ合いを胸の内で繰り広げながら帰り道を真っ直ぐ歩いていた。天気は良かったが如何せん一日中動き回った足は棒であった。亀とも牛ともごとせる足取りで部屋に着く。リエヴィト・マードレは相変わらず元気そうであった。理由は無いがオーブンの中を彼の部屋としてそこに入れておいたのであるが、オーブンの扉を開けると容器に入っている筈の彼の香りがたちまち広がった。容器をも貫いて部屋一杯に広がっていた彼の生活臭は屹度きっと彼の方では無自覚に違いない。自分の匂いには中々気が付かないものである。それはそうとリエヴィト・マードレの発酵の香りが心地良く、そうでなくともまた彼に小麦粉と水をくれてやる使命があった私は、その勢いで結局モーンボイガルも焼いた。ケシの実のフィリングを好きな人の気が知れんとさえ昔に思っていた私もいつの間にか好んで食べるまでになっていた。 

 体調を崩したのはまさにこの金曜日であった。工房の掃除も終わる頃になって、販売婦からパンが幾つか必要だからあれとこれを追加で焼いてくれと催促があった。成形迄済まされた小型のパンを冷凍室から引っ張り出して来て発酵室に入れて膨らむのを待つ間、掃除も大方済ませてしまっていた私は手持無沙汰で仕方なかった。アンドレも三十分ほど早くに帰っていた。そうした退屈さも相俟ってどんどん具合が悪くなっていくようであった。
 
 それらを気力で片付けて蛞蝓なめくじとも蝸牛かたつむりとも如せるのろい足取りで部屋に着くと、リエヴィト・マードレの活力を目の当たりにしても瞼の重たいままであった。それでも継ぎ直す責任は私である。全く一人部屋を与えてやっても独り立ちの出来ない手のかかる奴である。 

 土曜日は気力だけで仕事をしたと言っても過言ではなかった。最後の力を振り絞り帰宅した私はシャワーを浴び、サラダと缶詰のスープとパンで腹を満たして直ぐに眠った。よく考えたらこの日はこれが最初の食事であった。
 
 一時間半ほどで目が覚めると風邪引きの様な寝汗をかいていた。然し乍ら幾らか体調がましになった私は、体を起こすと予定していた通りにパーネ・ディ・アルタムーラの再現に取り掛かった。わざわざこんな時に、と葛藤があったのは言わずもがなであるが、それでも連日育てて来たリエヴィト・マードレを生地にしていくに連れて徐々に私自身元気が出てくるような気さえした。セモリナ※7粉でパンを作る事も初めての経験であった私はそれによって好奇心も随分刺戟された。
 
 
 粒の粗いセモリナ粉でも伸びやかな気持ちの良い生地に仕上がった。独特な弾力が新鮮であった。例のリエヴィト・マードレはこのパンを発酵させる唯一の酵母であるから、それを心配する私はさながら子供の御遊戯会を見守る保護者であった。そうして今度は冷蔵庫を彼の部屋として移してやった。体温調節が上手く出来るかどうかなどと考えるのは大きな御世話である。私じゃあるまいし。 

 湯船に浸かって沢山飯を食って、そうして沢山眠るつもりで布団に潜った私は結局朝の四時には目を覚ました。どんな時でも体は律義に五時間で起きた。それでも体調はすっかり良かった。それで冷蔵庫で眠る生地も起こしてやって、体が冷え切っていたから何時間と発酵に要した後、パーネ・ディ・アルタムーラは綺麗に焼き上がった。本物の尖がった形では無く丸めてバヌト※8ンに放り込んだだけの単純シンプルな形ではあるが、パンに膨らんで焼き上がったんだから十分である。遂さっきオーブンから出したばかりであるから十分に冷まして今晩にでも味を見る事にする。イタリアの風も匂いもカラーで蘇るだろうか。 



(※1)リエヴィト・マLievito madreードレ:イタリア流の小麦粉のサワー種。
(※2)パーネ・ディ・アルタムPane di altamuraーラ:通称「パンの村」であるアルタムーラのイタリアを代表する食事パン。
(※3)ライサワーRoggen-Sauerteig:ライ麦粉で作られるサワー種。
(※4)初種Anstellgut:サワー種を起こす元となる酵母。
(※5)ペストリー:バターを折り込んだ生地で作るパンの総称。
(※6)モーンボイガルMohnbeugerl:ケシの実フィリングが入った菓子パン。
(※7)セモリナ粉Hartweizen Grieß:粗く挽かれた穀粉。ここでは小麦。
(※8)バヌトンGärkorb:パンの発酵に用いるとうの籠。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 

 

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