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*1 ベルエポック

 突き抜ける様な晴天の下、懐かしい音楽を耳から体に注入しながらぷらぷらと歩いたのが日曜の午後五時過ぎであった。近頃ではすっかり夜になっても太陽がいつまでも眩しい。
 
 外出する場合には音楽を携帯するという習慣をすっかり無くしていた私は、それによってここ数年仕舞い放しにされていたウォークマンに久方振りに電気を通し、普段空っぽの耳にはイヤホンを差し込んでそれで散歩に出掛けた。流れる音楽はどれも懐かしく、それでいてごうもセピアに染まっていなかった。ドイツに来たばかりの頃はまだ音楽に頼って進んでいたのであるが、その頃の情熱や感動が酸素となって呼吸の度に鼻から体内に通りそれを血液が体中に運んで回り、先週調子を崩していた私の心身からだはみるみる元気を取り戻していった。マイスターブリーフを手にしてからのちの一週間で巻き起こった感情の起伏が、単に日常的な気持ちの変化では無く、私の人生を流れる空気の丁度変わり目であったように思われた。

 

 こうした節目は過去にもあった。ドイツに渡って二年目となる年は殆ど一年間懊悩おうのうの日々を送っていたのであるが、そうして迎えたある日に突如としてぽんと全ての苦悩が一遍に明確に腑に落ちた。その日を境に私の人生の流れも私自身の意識も変わっていった。ドイツに行こうと思い立った日も含めるならば、そうした節目はこれまでに六回ほどあった。六回目の転換期はマイスター取得への挑戦を決断した時である。そうして今回が七回目である。いずれも私の意識や世の中の流れとは無関係に前触れ無く訪れ私を驚かせた。 

 

 そうして迎えた月曜日、この新時代を切り開く為の武器となりそうな音楽を耳に装備して仕事へ向かった。この通勤路を行ったり来たりして早六ヶ月であるが音楽が流れていた事はこの日が初めてであった。ウォークマンには三千を超える音楽が過去の私によって収集されていた。その熱心ぶりと比較しても、それくらい私はすっかり音楽という物から離れていたのである。気のせいか見慣れた景色も幾らか劇的ドラマチックに見えた。

 職場の様子は相変わらずであった。当然である。先週からシェフを欠いた工房ではかえって皆の協力態勢が強まった様に思われた。鬼の居ぬ間の洗濯と言うが洗い残しでもあれば鬼を言い訳に出来ない状況である。そうした責任感が強く結束し、それでいて大変穏やかに仕事は進んで行った。こう言ってはシェフの立つ瀬を奪う様であるが、責任者が一人主導で各人員にあれをしろこれをしろと逐一指示するよりも、兵隊同士が互いにあれをしようこれをしようと役割を編成する方が組織として安定しているように思われた。まあシェフの方でも責任が全て己の背に乗っかって来るんだから皆を手放しに信頼するというのは難儀なのだろう。これが皆シェフと同郷の同世代であれば意思疎通も幾らか容易であろうが、然しこの辺りは何とも大変なジレンマであるから一概に答の出ない問題である。あくまでもただ一つの研究課題として私の頭の片隅に仕舞っておく事にする。
 
 
 職場は相変わらずであったが、気持ち新たになった私の体感は幾らか違った。これまでと同じ作業をし同じ仲間と会話をしていても、どこか心の中に余裕があるように思われた。それだから仕事を終えた後の疲労も心なしか軽く感じた。仕事時間が夜中であるから帰宅後にソファの上で一瞬気を失う様に眠りに落ちる事はあるが、そういった身体的疲労では無く所謂いわゆる心労が軽かった。帰り道に浴びる日光や聴く音楽によって回復が促されていたという事もあるかもしれない。 


 そうして力を余して部屋に帰った私は、相変わらず書物を読んだりパンを焼いたりしていた。先週の内に十二分に己の生活を不憫がっておいた御陰で、開き直ったように、また視線を他人から自分自身に向け直したように、其々に向き合う事が出来た。これもまた一つ節目を迎えた証拠である。
 
 
 冷蔵庫の中でしばらく眠り込んでいた初種※1の瓶を引っ張り出して随分振りにサワー※2種を起こしてパンを焼いたのが火曜日であった。近頃はフランス風のパンやパイ生地なんかを作っていてサワー種とは疎遠になっていたから、特有の香に久し振りに鼻を突かれた時は週末に飲む一口目のビールの様な心地良さがあった。それからこのパンにはポーリッ※3シュも入った。

ポーリッシュ

  仕事場でパンを焼くのと部屋でパンを焼くのとでは異なる点が幾つもあるが、部屋でクープ※4を入れる感覚が私の中では未だに掴み切れていなかった。バゲット然り、ライ麦パン然り、斜めのクープからただ真直ぐなクープまで、ナイフを引く力の加減が部屋では難しい。空間の規模の違いを体は無意識に感じ取って、工房ではダイナミックに動ける所を部屋では縮こまってしまうのだろう。如何に工房では体全体に意識が行き渡って、体全体を使ってナイフを引いているのかが良く解る。然しまあこれも慣れであろう。この日のロッゲンミッシュブロートに際しては、これでも比較的うまくいった方である。

ロッゲンミッシュブロート

 それから木曜日にツヴィアベルZwirbelbrotブロートを焼く為に、火曜日には中種を作って、翌日に本生地を捏ね上げたかと思うとそれを一晩冷蔵庫に入れておいて、木曜日になってようやく焼いた。小麦粉と水とイーストと塩がパンの基本材料として挙げられるが、このパンには全くそれだけしか入らなかった。それでいて大変風味豊かであったのは、掛けられた時間の仕業である。

ツヴィアベルブロート

 時同じくして丁度教科書も長時間発酵や中種法に関する部分を開いていた。そうして読んでいる内に不図、近い内にカイザーゼ※5ンメルでも作り比べてみようかしらんと思い立った。レシピの基本分量だけは揃え、後は中種やサワー種を使うなり長時間低温で発酵させるなりしてみたら違いが出て面白そうである。以前の職場も今の職場もカイザーゼンメルは長時間低温発酵で作られている。そこに限らず殆どのパン屋がそうだろう。また職業学校で習うのは最も容易な所謂ストレー※6ト法である。こちらは大変味気が無い。異なる製法であると同時に異なる場所で作られているから比べようもないでいたが、私には自室工房と言うのがあるんだから自分でやったらいいじゃないかと思うに至った。この頃はまたスーパーマーケットの棚に小麦粉が戻って来たから、まあ来週にでも取り掛かってみようかと思う。 

 

 土曜日は一日中オーブンの前で働いた。日中の気温も優に二十五度を越すようになり、工房の中、ましてやオーブンの前ともなると大変な灼熱であった。先週の土曜日も同じようにオーブンに張り付いて汗を流していたのであるが、まさにそのゼンメルの焼き上がりに満足を得られなかった。次々とオーブンを満杯にする怒涛の流れに飲まれて発酵を十分に取り切れていなかったのが原因であった。それで今週は発酵に細心の注意を払い、そうして雪辱を晴らすが如くゼンメルが上手く焼き上がったので気分よく工房を後にして週末を迎えた。
 
 
 またその日の晩には有給休暇から帰って来たシェフと夫人、それから若チーフ夫婦と同僚の計八人での食事会があった。ずはじめに新しい工房の建設予定地へ皆で行き、シェフから工房の規模や設備や今後の展望の説明があった。現在の小さな工房から規模を拡大させていくその転換期に私も立ち会えているというのが大変貴重な経験になるように思われて、私はシェフらの説明を真剣に聞きながら同時に自分の未来へ対する好奇心も刺戟を受けていた。隣に並ぶ三人の兵隊の内、最も長く勤めているルーカスには私とはまた違った想いがあるだろうが、何れにしても皆言葉にせずとも期待に胸を膨らませている様子が伺えた。
 
 それから皆でピッツェリアに向かい、突き抜けるような晴天の下、テラス席で食事をした。大変穏やかな一時を過ごした。グラスで飲むビールの一口目はサワー種の香に鼻を突かれるが如く心地良かった。そうして私はまた自分を客観的に見て、この小さな、然し間も無く発展を目論むチームの一員としてピザを食いビールを飲んでいる事が超自然的な幸運である様に思われた。そうして我々兵隊は腹を膨らませ、また来週からの戦に備えたのである。 




(※1)初種Anstellgut:サワー種の元となる発酵生地。
(※2)サワー種Sauerteig:穀粉と水を発酵させて起こす自然酵母。
(※3)ポーリッシュPoolish:水と小麦粉と微量の酵母で作った液状の生地。
(※4)クープ:パンの表面に入れられる切れ目の事。
(※5)カイザーゼンメルKaisersemmel:一般的に良く食べられる小麦の小型パン。
(※6)ストレート法:全ての材料を一度に生地にし、発酵、焼成をする方法。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 


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