*7 梅雨払い
あれほど不安がっていた飛行機も過ぎてしまえば熱さはおろか、果たして何を針小棒大に騒ぎ立てていたんだかてんで覚えていない。雨男にとっての快晴の呪いの如くドイツ電鉄の度重なる遅延や不具合に見舞われた時は、有り余るほど時間に余裕を持って部屋を出た自分を心底讃えてやりたかった。幸いその他にこれといって目立った不都合も何も無く空港まで辿り着いた。
フランクフルト空港の鉄道駅に着くと、そこからバスに乗って第二ターミナルへ移動した。そのバスの中では同郷らしい風貌の者を一人も見掛けなかったが、第二ターミナルのチェックインカウンターの前まで行くと既に沢山の日本人が並んでいて、例によって私は酷く緊張した。手続きが始まると自分より前の者達がなんだかやけに時間を食っていた。ウイルス云々で面倒が増えたのだろうと平然のまま列を成していたが、いざ私の順番になると質問にはいはいと答えている内にさっさと片付いてしまった。それから搭乗までの二時間を潰すのに西洋料理店に入った私は、メニューを受け取るや否や開く事も無くさっさと、ヴァイツェンとカリーヴルストを頼んだ。意図せず出された常連の様な振る舞いがいやに恥ずかしかった。
搭乗する迄の一連の流れは、私が前持って怯えていたよりもずっと単簡に済んだ。取り越し苦労の見本の如く心配にどくどくしていた男は、さも空港は己の庭であると言わんばかりに我が物顔でついぞ飄々と飛行機に乗り込んだ。座席に着くと、どこか懐かしい心持ちがした。そうしてついに二年振りに帰郷する私を乗せた飛行機は宙へ浮き上がった。隣席が空であった為にその点においては随分快適であった。
然し十二時間は長かった。最初は読書でもしていたが就寝の為に灯が落とされると続ける訳にはいかないから、それで今度は映画でも観ようと前座席の頭の裏に着いた画面を光らせても、普段から映画と距離の近くない私は一本も観切れずにその内退屈してしまった。それでいよいよ遣る事も無くなったからよし眠ろうと目を瞑ったが、寝るには窮屈な体勢のまま八時間もぐっすり眠られるほど鈍感に出来ていない私の神経がそれを妨げようとするので、結局時々うとうととするばかりで殆ど眠られなかった。それから機内食のサーヴィスも私には少々豪勢過ぎた。戴いた物は残さず食べるという教育で育った私であったから無論平らげるには平らげたが物凄かった。
客室乗務員は皆日本人であった。安心と言えば安心である。しかし飯を配るにも塵を片すにも、その態度の隅々まで頗る丁寧であった。それだから私も同じ程丁寧に事ある毎に有難う御座いますと言う返事を忘れなかったのであるが、そこまで丁寧にしなくったって腹など立てぬからまあ少し肩の力を抜いて下さいと宥めてやりたかった。
そうこうを繰り返して月曜日の午後四時前に飛行機は無事成田空港に着陸した。飛行機を降りるなり熱風を食らって思わず狼狽した。後ろから聞こえた男の声によると、この日にちょうど梅雨が明けたそうであった。そう言えばドイツを経つ日、数日前まで雨予報であったのがずれ込み、日本が最速で梅雨明けしたというこの月曜日から暫くドイツは雨降りらしかった。まるで晴れ男である。
空港で預け荷物を受け取りロビーへと出る。到頭日本に到着した。それでも満足に余韻に浸る間もなく私はスカイライナーに乗って上野駅を目指した。車内は冷房も効いていて涼しかった。それで上野へ着くと、そこから今度は北陸新幹線に乗り換えた。私はその時自分の手元に切符を買うだけの金額を持っていない事を知っていたから、駅員にコンビニの場所を訪ねて、それでアメ横やマルイの脇をスーツケースを転がしながら歩いた。ただでさえ猛暑であったのに、私ときたら大荷物を持っておまけに長袖を着ていたんだから大変であった。ドイツと日本の暑さの違いが服の下まで染み込んでくるように分かった。
新幹線は二時間走って私を故郷の飯山市まで運んだ。幸い車内ではクーラーが効いていたのでその内私の汗も気にならなくなった。日本の電車の快適さには感心せざるを得なかった。母が駅まで迎えに来ており、車の後部座席には姪がちょんと二人腰掛けていたのを見て、地元に帰って来た事を実感した。そうしていよいよ多忙な休暇が始まった。
その晩は実家で酒を飲んで飯を食っては、兄夫婦や姪、兄妹、両親、祖母らと何だ彼だと喋って過ごしたが、翌日からはあっちこっちと飛び回る必要があった。こうして実家の食卓に付く事も折角こうして帰って来ているにも拘らず殆ど無いようで寂しい気もするが、それでも会いたい人だって沢山いるんだからそのジレンマに苛まれながら、然しそんな事に構ってる余裕も無い程肌を焼く連日の猛暑に、晩飯を食うだけでも汗を濁々と流しながら参っていた。
翌帰国して二日目の午後には松本市へ向かって、偶々都合の合った幼馴染と酒を飲んだ。皆長い付き合いである。或る者は地元の消防署に勤め、地元を離れて或る者は教員をし、また或る者は会社勤めで間も無く第二子が生まれると言った。そして或る者はドイツでパン職人である。これだけばらばらに離れているからこうして集まって盃を交わすのも久しぶりであった。それでいて童心の懐かしみもそこにはあった。
一晩松本で泊まって、帰りしなに松本城も申し訳程度に遠目に眺めた。一度門を潜ってしまえば隅々まで観察せずには帰られない自分の性分を理解していたから、それくらいにしておいた。
そのまた次の日には中学校の同級生に連れられて幾つかパン屋を巡った。ドイツらしいハードパンも取り扱っているパン屋が地元の近くにもあるんだと知って、折角だから日本のドイツパンの店というものを観察しておきたかった。パンの事を何も知らなかった日本にいた頃の私とは、パン屋に入った時の感じ方もパンの見え方もまるで違った。幾つか回っただけでもその都度気付く事があってその度私は頭の中で何だ彼だと考えていたから、どうもパン屋に入ると途端に無口になっていたようで、それを連れの友人から指摘をされて漸く気が付いて苦々と笑った。
その晩にはまた別の、中学高校と同じであった友人に時間を作って貰って地元の飲み屋に入ると、翌日には宮大工の頃の同僚と会う為に岐阜へと出向いた。その為に電車を、灼熱の盛る昼から三つ乗り継いで五時間と掛けた。折角それだけの時間と運賃を費やすんだから二三日そちらに逗留しても良さそうなものだが、そうするとかえって都合が悪かったから、翌日の朝にはまた同じだけの時間と運賃を使って帰った。
肝心の饗宴は大変愉快であった。昔同期であったKという男は家族を増築していたばかりかいつの間にか大工として独り立ちをした様であった。それから同じく後輩のNは、依然として例の建設会社に勤めながら、当時の私を遥かに見下す様な役割で以て日々奮闘しているようであった。それだから今更になってまで高々四歳違うだけの私に対して必要以上に畏まる事もあるまいと提案したが、当初から武士みた様なその人格は頑なで、それでも矢張り皆同じ数だけ歳を重ねて、彼ももう若い頃の様に変に緊張の面持ちでも無かったからそれが嬉しかった。KもNもそれからK曰く私も、当時と変わらず、それでいて其々に成長はしているからそれが張り合いがあって楽しかった。
その晩は遅くからKの家に邪魔し、翌朝六時に目を覚ますと、仕事へ向かうKの車で岐阜駅まで送って貰って、昼過ぎには地元へと戻った。この晩はまた別の友人と会う約束があった。大忙しである。大忙しであるが、これだけ予定を作ってくれる者を持つ私は幸せ者である。
夜になって外出する前、夕方の内に、翌日に控えた親族での集まりのその為に焼くパンの下準備もした。この期に及んでパン職人である。あっという間に一週間が過ぎたが濃密であった。来週もまだ続く。暑さばかりが心配である。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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