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*4 テイク・イット・イージー

 今週少しばかり冬に戻った。或いは抑々そもそもからして冬を脱していなかったのかも知らない。兎に角雪が舞ったり気温が氷点下になったりした。それはどことなく近年猛威をふるった流行病がすっかり無かったものとされているこの町で、人々の忘れた頃になって突如潜在的な威力を再び暴発させる日が来るのではないかという懸念をまぶたの裏に重ねさせるようであった。く言う私もほとんど流行病の存在を忘れて気楽に生きていた人間である。そんな私が今年の戦闘服として最後に調ととのえた靴が手元に届き、それを卸した丁度その日に冬に戻ったんだから実に私らしかった。昨年こそマイスター試験合格祝いも兼ねて値の張る革靴を戦闘服として奮発して買ったが、今年一年の展望を見据えた時、随時私には瞬発力が必要になりそうだと考えた私は安価なカンフーシューズを新調した。それを卸した傍から気温も下がって雪も舞ったもんだから薄いキャンバス生地を擦り抜けた冷気が大変寒かったが、同時に足に伝わるその寒さや足裏と地面との近さが宮大工時代の足袋たびを彷彿とさせて、どこまでも軽やかに動けそうで寒さの割に案外心はぬくかった。

カイザーゼンメル
レバーケーゼゼンメル

 一週間前に焼いたカイザーゼンメルは美味く焼けた。見た目は決して美しいと言い難かったが、味や食感については矢張り手で折ったカイザーよりも良かった。これは手で何重にも重ね折りするよりも、ただ一度押し型で形を付ける方がクラム※1に影響が出ないのでもっともなのである。味は良かったが形や高さがどうしても満足に至らなかった。まあこれ以上は家庭用オーブンと言う設備に責任を押し付けたい所ではあるが、それでももう少し良くなるんじゃないかと思ってしまうからきりが無い。

バゲット
バゲットサンド

 バゲットも良く焼けた。オーブンのサイズに限度があるから正式にはバゲットと名付けられない長さだとは心得ているがまあ勝手に焼いている分には咎められる事もあるまい。然しこれも満足に至ったかと言えばそうでは無かった。いや何もこのレシピに不満があったというわけではないが、比較的短時間で焼けるバゲットのレシピであったから、次は長時間発酵を試したくなったというだけの話である。そうしたらもっと良くなるんじゃないかと、そういう意味合いで満足に至らなかったというだけである。
 
 だから私は早速水曜日にポーリッ※2シュを仕込み、木曜日に生地を作るとそれを土曜日迄四十二時間冷蔵庫で寝かせるレシピを試した。気の遠くなるような数字であるが、四十二時間も手を動かし続けるというわけじゃないんだから数字に圧倒されずによく考えたら案外単簡な作り方である。まあそうして生地を寝かせてる間にこの一週間でも振り返る事にする。


 月曜日から私は不断にも増して何故だか眠たかった。仕事中に大欠伸あくびを掻いたアンドレに眠たいのかと聞くと良く眠られなかったと言ったから、仕事の始まる月曜日が眠たいのは普通だと、一般人と違って休日と平日の生活時間が著しく異なるパン職人ならではの相槌を打ったが、事自分自身の眠さに関して私の体感で言えばこの月曜日は異常であった。
 
 元より私は欠伸の常習犯であった。以前の職場にいた頃から、仕事中に欠伸を掻くと同僚から「随分疲れているな」と言われる事があったが、私としては疲れている積も睡魔にかれている積も無かった。もっと言えばくしゃみや咳払いと殆ど同じ類の一日常的生理現象の様に考えていたから、人が欠伸をしたからと言って態々わざわざ指を差して注目するのは大袈裟じゃないかとも思っていた。ところが不図思い返すと確かに周りで欠伸を私ほど頻りに掻いている者は以前の職場でも今の職場でも思い浮かばなかった。何れにしても日頃から人よりく欠伸を掻く私であったが、この月曜日はその一発ずつが妙に重たかった。
 
 今週は土曜日に休みが設けられていたから、月曜日から金曜日まで働いたのであるが、月曜日の眠気は火曜になっても水曜になっても止まなかった。そうして確かによく眠れていない感覚もあった。眠っても夜中に目が覚めて、まず真っ先に遅刻をしてしまったんじゃないかと慌てて時間を確認すると、大体眠ってから三時間と経たないところであった。それから眠ってまた一時間毎に目が覚めるのを繰り返して、と言うのが今週は随分目立った気がした。

 かと言って仕事に集中を欠いたというわけでも無かった。却って余計な事をおもんぱかる癖をさぼった頭の御陰か、思考がすっきりと働いた。一度ルーカスから「おい君、あのパンの来週分が足りていないじゃないか。何故昨日のうちに確認しておかなかったんだ」と凄い剣幕で言い寄られた時も、一大事がる彼の前で大変冷静に状況を分析したなり、ああでこうでこうしたらこの問題は解決だ、問題ないと言って飄々と彼を説得しなだめた。これまでの私であれば納得いかずに不満として胸の内に蓄えていたであろう事柄についても、頭は血を昇らせるのも面倒になったと見えてことごとくまあしょうがないと大きく受け容れた。昔から完璧主義の性質を他人から見破られていて、ここ数年でようやく自分でも気付くに至った私であるが、私が理不尽に腹を立てるのも緊急事態に慌てふためくのも、畢竟この完璧主義の側面が引き起こしていたものと見えて、思い通りに行かない事や無茶な要求も完璧に熟そうとせずに、まあしょうがないと言うとなんともするすると行くんだと学んだような気がした。
 
 とは言え元来が完璧主義者なんだからその欲望も何処かに吐き出さなければ体に毒だと頭は思ったのだろう、翌日に休みを控えた金曜日の掃除の際、生地を捏ねるミキサー二台を必要以上に細部までぴかぴかに磨き上げた。そうしてそれを見習い生のマリオに見せ「たまにはこうして隅々綺麗にする必要がある」と達成感みなぎる顔で言うと、彼はミキサーを覗き込んで「鏡みたいだ」とにやにやしていた。私もまた充足感を心に蓄え、それで工房を後にした。
 
 
 今週は若チーフのマリアがあれこれと試作をしたいと言うのを手伝う場面も多かった。クロワッサンにキイチゴのプディングを入れたいというのに始まって、チェルシー※3バンズの派生としてチェリーとモーンケシの実の組み合わせやキイチゴとレモンの組み合わせなども作った。パン職人ではない彼女と一緒に作りながら時折意見を求められ、私なりの見解を拙く述べたりしていたが、或る時その脇でアンドレがマリアからの質問を受けてぺらぺらと自分の考えを説明しているのを見て、嫉妬に似た、或いは屈辱に似た、言語なのか知識なのか兎に角アンドレに対する圧倒的な敗北感を感じた。パン職人歴も私よりずっと長いドイツ人を比較対象にする事自体烏滸おこがましいのは重々承知であるが、比較している自覚無く悔しがったりする私であるから、その蛆々うじうじした対抗心もその日は意図的にまあしょうがないで投げやった。
 
 
 奏功そうこうしている間にバゲットは発酵を済ましオーブンの中で綺麗に焼き上がった。大変満足な焼き上がりである。どれほどの満足であるかと言えば、過去に何度も焼いたバゲットに感じた試しの無い満足度であった。実を言えば程度の差こそあれ先週末に焼いたバゲットにもこの時と同じ満足度は最低限あった。二つの異なるレシピで以て過去に無い或る一定の満足度を越えたという事実は、私のバゲットについての経験値が実になっている証拠とも言えた。地道な試行錯誤の経験を経て、こうして自信はまた培われたところを見ると、製パンについてのみ言えば完璧主義である必要があったというものである。


 


(※1)クラムKrume:パンの中の部分。外の皮の部分はクラスト。
(※2)ポーリッシュPoolish:小麦中種の一種。
(※3)チェルシーバンズ:イギリスのパン。シナモンの入った甘いパン。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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