*20 トライ&エラー
一日のファッシングで三月は幕を開けた。それに伴うように以前魔法使いの如く現れたフェアリーも早朝四時半頃になって出勤してきた。彼女の正規雇用も三月一日から始まったらしかった。奇しくもファッシングではあったものの三角帽子にステッキの仮装は無く只仕事用バンダナを頭に巻き作業服の出立で現れた。
そんな月の始まりを祝うかの如く手向けられた晴天には雲一つ浮かばなかった。何処までも青かった。いつまでも眩しかった。出勤する真夜中には未だ寒さが目立つが、朝になって仕事を終え職場を出たその先には春の匂いが立ち込めていた。
先週予期せぬ事態が起こったお陰で私の足元に転がって来た仕込みの仕事は今週更に本格化した。私は木曜日を除いた毎日を誰よりも早く出勤し、先週習った通りにブロート生地を仕込んだ。仕込み作業に抜擢されていながら、あくまでも手に怪我を負ったシェフの補助という役回りの側面を感じずにはいられなかった先週と違い、今週に入ると私をシェフが補助するようなある種正しい構図に入れ替わった。それどころか彼は私が出勤すると簡単な指示をするなり、そのまま事務所に引き籠ってしまうようになったから実質私は一人で生地の仕込みを進めた。
そして私はしっかりと失敗もした。月曜日にはとあるブロート生地にサワードウを入れるのをすっかり忘れてしまっていた。機械で捏ねられている生地を途中で確認すると、正しく仕込んだ積が本来の感触よりもずっと硬かった。私は水を注いでまた機械を走らせた。そして暫くしてまた生地を触った。硬かったのでまた水を足した。それを幾度か繰り返したが永遠に硬かったので、それまでの慎重さを擲ってこれでもかと水を足した。それで漸くまともな硬さに到達したので同僚のルーカスが成形に移り、私は次の生地の仕込みに移ったのだが、どうにも不可思かったので私は頭の中で仕込み作業を振り返った。
この生地に関して言えば私がする作業は殆ど無いに等しい。何故なら前日、月曜日で言えば先週の土曜日の内にある程度材料を量っておくからである。計量された材料の入ったボウルをミキサーの中に引っ繰り返して、そこに酵母と水を足して機械を回すのが当日の作業であった。そうと頭では理解していながら、果たして何が間違っていたんだか勘付くまでに少し時間を要したのがまだその作業に不慣れな証拠である。結局私がサワードウを入れ忘れた事に気付いたのはルーカスが成形を終えた生地を型に入れ、さて発酵させようかという時であった。私は直ぐにしまったと言って彼にも事情を説明し、折角成形を済ませたばかりの生地をもう一度機械の中に放り込んだ。時間は掛かれどまだ取り返しの付く内に気付いて良かったと心底で溜め息をついた。
翌日の火曜日は同じ轍は踏むもんかと頭の内でサワードウの事ばかり考えていた。すると今度はまた別のブロートの仕込みに際して失敗が起こった。出勤して直ぐに仕込む二つの生地の内、ロッゲンミッシュブロートの時である。Weizenvorteigを投入すべき所をWeizensauerを入れてしまったのである。パンの製法に疎い読者にはさっぱり何の事だか分からないだろうが、要するに入れるべき材料を間違えたのである。これらの二つはどちらも似たような大きく白いバケツの様な入物に入れられているのであるが、私はすっかりWeizenvorteigと思って担ぎ上げたその入物にはWeizensaerが入っており、冷静状態であれば見間違える事などある筈のない二つを結局私はそれを投入している最中にシェフにおい間違っているぞと言われる迄気付かなかったのである。そこで私はしまったと材料を入れる手を止め、そして何故私がこんな失敗をしてしまったのか納得がいかなかった。それで私は入れてしまった間違った材料を可能な限り取り除いて正しい材料を入れ直した。シェフは大丈夫、大した事じゃないと言ってはくれていたが、私にとってはそんな単簡な失敗を起こしたという事実の方が衝撃的で仕方が無かった。大方頭の内でサワードウの事ばかり考えていたからうっかりしてしまっていたのだろうと一人でに反省をした。
しかし水曜日には一日中仕込みを担当した。ブロート生地だけでなくゼンメルもプレッツェルの生地も仕込んだ。その振る舞いたるや我ながら落ち着いたものであった。そして今後、急に仕込みを任されても動じずにいられるであろう自信の様な物が備わったように思われた。
それから金曜日はオーブンの前に立った。何週間か前にオーブンでパンの窯出しをする機会があったが、この日は前回同様に窯出しをした後もずっとオーブンの仕事をした。これは他でもなく私が自ら志願し、そして得た機会であった。
大型のブロートを一通り窯出しすると、発酵の済んだ小型のパンを片端からオーブンの中に入れていく。カイザーゼンメルやフォルコーンゼンメルといった幾種類かの小型パン、それからクロワッサンなどのペストリー類もオーブンに入れては出した。それに続いてプレッツェルなどラオゲ液を使ったパンも焼いた。この辺りまでは怒涛であった。休む間も無い程に頭で順番を考え、目で様子を見極め、そして手で一つゝゝ焼き上がったパンを乗せた天板を取り出しては、焼かれるのを今か今かと待つ天板をオーブンの中に滑らせた。
作業としては難しい事のない、いわば慣れてしまえば目を瞑っていても出来そうな作業であるが、初めからスマートに熟す事など不可能である。私は時間と発酵と焼成に追われながら汗をだらだらと流し、そして疑問があればアンドレにすかさず声を上げて質問した。一度彼に「Hast du Zeit?」と問うて「für dich immer」と返された時は、それが彼の冗談だと分かりつつも土壇場壇と気を走らせていた私は安心感を覚えずにはいられなかった。
一通り小型のパンを焼き上げると、息付く間もなくバゲットなど小麦粉やスペルト小麦を使ったブロート類六種の焼成に取り掛かった。表面に切り込みを入れるもの、穴をあけるもの、閉じ目を上にして焼くもの下にして焼くものを順番にオーブンへ放り込み、それから焼き時間はどれくらいだとまた少し離れた所のアンドレに向かって声を張る。以前の職場でもオーブンを担当していたが、当時のオーブンは遥かに機械化の進んだ型であった為にこうして手動で蒸気を入れる事も時間を設定する事も極めて稀であった。その程度の差異など大した事ないじゃないかと言う猛者もいるだろうが、少なくとも今の私にとってそれだけの差異も新鮮であり、感覚的に意識する事が違うのが脳味噌に明るい刺戟を与えた。
バゲットの類が焼けると今度は四角い型に入れられた二種類の全粒粉ブロートの発酵を待ち、そして窯に入れた。ここまで実際に自分の手で窯を動かすというのはベッカライ・クラインに来てから初めてであった。終始協力的であったアンドレも、今日は私がオーブンを担当したいと私が自ら申し出た時に少々驚いた様子をしていたが、かえってそのお陰でこれほど協力的だったのかもしれない。
今週また膨大な経験値を獲得した。曖昧模糊で空想的な経験値ではなく、肉眼で確認し指折り数えられる程はっきりとした輪郭を持つ経験値が、体の中に積み上がっていくのがわかった。こうして仕込みも焼成も一通り味わって迎える来週は有給休暇である。私は六年ぶりにとある知人に連絡を取り、是非久しぶりに会いませんかと打診した。彼がオーストリアに住んでいる事も私はそれで初めて知った。彼はすぐに一晩都合を付けてくれた。思わぬ形で来週、私はウィーンへ出向く事になった。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
この度も「ドイツパン修行録」ならびに「頬杖ラヂオ」への訪問、ありがとうございました。もしよろしければサポートもよろしくお願い致します。 引き続きドイツパンに真摯に向き合って修行の道を精進して参りますので、何卒応援の程よろしくお願い申し上げます。また来てください!