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*22 パンと歴史とリンツァートルテ

 今週から出勤時間が一時間遅らされた都合で目を覚ますのもそれ成り遅らせた。先週迄はっくに始業していた時間を越えてアラームが鳴る。薄暗い外で鳥がチュンチュン鳴いているのが開け放された窓から耳に届くのは先週との違いである。抑々そもそも窓の外が真ッ暗ではなく薄暗い程度である事も異なる。高々一時間の違いでこうも様子が変わるものかと新鮮であった。外へ出ると夜というより朝という感じが肌に伝わってきたのは大変興味深かった。具体的に言えば三時半と四時半の違いであったが、其々それぞれの時間に夜だ朝だと漢字が振られているわけでも、ましてや天地に鉛筆で区画線を引けるわけでもあるまいに、不思議と朝という感じのする空気の中に自転車を漕いだ。
 
 出勤時間が遅らされると同僚は皆決まって、長く眠れるじゃないかと羨ましがるような事を言う。本心か否かはさて置き、その理屈を意解はしても事解に至る事の無い私の脳は、起きるのが一時間遅れるという事はすなわち一時間長く起きていられるという風に、これ迄平均を採って来た睡眠時間を基準に時間を調整する様に解釈するから、実際生活への影響は無いに等しかった。
 
 
 それでもいざ工房へ足を踏み入れると何となく調子リズムが合わない。これもまた不思議であるが、見知れた筈の情景に疎外感に似た感さえ見出された。其々それぞれにおはようと声を掛ける。文字通り出遅れた様な心持にもなった。
 
 先週迄は出勤してからずペストリーの仕上げに取り掛かっていたが、今週から其処は正式加入したエヴァの持ち場となった。そうして私はクロワッサン生地の折り込み作業から仕事を開始するという段取りに変わった。要するにペストリーの仕上げをしていた時間の分、遅く出勤したという事であるから辻褄は合っていた。
 
 
 遅く出勤したからには退勤も同じだけ遅れるというのは、私の睡眠時間における理論と同じで当然である。それでも生地の折り込みを開始する時間が先週と今週で揃っている以上、理屈の上では最後に随分時間を持て余しそうだという懸念が私と見習い生のマリオの間に浮かんだ。おまけにトミーも加わって三人体制でペストリーの製造にあたるとなると愈々いよいよ早い。数週間前に私が喉から手が出る程欲していた時間と人員が一遍に押し寄せて、それはそれでまた難しそうだと有難い半分、なかなか思う様にはいかないものだと、マリオと逐一笑った。笑う余裕が生まれている以上、素直に喜ぶべきである。
 
 然しそんな懸念は月曜に浮かんで火曜には消えた。何だんだしていると時間的過不足も心配していた程ではなく丁度いい具合に仕事は終わった。大工として働いていた頃、県代表として技能五輪に出場する事が決まった私は大凡おおよそ三カ月の間、仕事をせずに技能五輪に向けた練習のみ朝から晩までさせられていた事があった。全く孤独の中で只管ひたすら励んでいたからか、制限時間内に組み上げるのは理論上不可能だと苛立って、それをせめて冗談めかして上司に伝えたところ、派手に叱られて己の軽はずみな発言に対する後悔の涙粒るいりゅうを垂らした事があった。上司は私に「頭で先ばっかり考えて限界を定めるのは御前の悪い所だ」というような事を言った。状況は異なれど今週の私はそれを思い出した。
 
 
 木曜日、トミーは休み、マリオは職業学校に通う都合で、九時を越えた製パン部門には私一人が残って作業をしていた。すべき作業を着々片付けている間、ぽつぽつと製菓のシルビアが手持ち無沙汰げに話し掛けて来ていたから、私の方でも「嗚呼あああと一日働いたら長い週末だ」と嬉々たる咆哮ほうこうを一つ上げた。彼女は長い週末どころか二週間の有給休暇に入ると言って、嬉々とするよりかえってもう仕事は沢山だとでも言いたげにふうと一つ息をついた。
 
 日本に帰ってからの事は考えてあるの、という彼女の質問には答えたが、「何よりもずドイツから一切の忘れなくちゃんと引越すのが先だ」と言って通信や電気の契約云々うんぬんについて少し口にした。ちょうどその前日に通信会社から着信があった私は、電話口に出られなかったにしてもそれを機に契約が今月一杯迄である事を思い出して、それで頭にそれらの事が終始浮かんでいたのである。この辺りの管理は俄然杜撰ずさんな私である。
 
 その日家に帰るとウェブサイトを開きつつ通信会社に折り返しの電話を掛けた。何でもプラン変更を勧める電話であったらしかったが、此方で確認したかった事は何とか無事に明快にした。こうした作業は何時までも苦手である。苦手ではあるが、だからと言って避けて通られない、してや海外生活である。苦手なこれらを片付けるたび、手を打って解決を祝し己を鼓舞する私は、まさか海外生活の先輩として人に助言の出来る程立派でも喇叭でも無かった。

 通信会社のみならず幾つかの事柄を明快にした今週の私は、何とか荷を軽くした状態で玄関を出る事が出来た。幸いにも空は突き抜けた。
 
 鼻息を荒げ前傾姿勢で臨んだエジプトの旅とは異なり、リンツへは心の安寧を求めて逗留とうりゅうする心積もりでいた。これまで駆け上がって来た階段と、この先に更に傾斜を増しながら続く階段との境目の踊り場にリンツを選んだ。ウィーンを筆頭にオーストリアという国は何処をとっても私に癒しを与える。私にとって未開のリンツも大凡おおよそ例外に無いだろうと思った。
 
 安寧を求める中にも大なる目的が二つあった。一つはオリジナルレシピのリンツァートルテを食べる事、一つはパンの博物館を訪れる事であった。金曜の昼に仕事を終え、その夕方には借室を出てリンツへ向かった私は、案の定、それも一時間以上ものドイツ電鉄の遅延を食らった末に、すっかり夜の九時頃になってそれでも無事リンツへ着いた。その晩は駅で簡単に腹を膨らませると真っ直ぐホテルへ入った。
 
 
 翌朝は早く目が覚めた。シャワーを浴び荷物をまとめると、朝の八時前には街へ出た。“リンツ最古のパk.u.k. Hofbäckereiン屋”で朝食を取る積でいたのである。

 大変古めかしく、同時に気品漂う“リンツ最古のパン屋k.u.k. Hofbäckerei”に着き店内に入ると、歴史を感じる絵画や新聞などの装飾が所狭しあしらわれていて帝国の面影らしき趣が心地良かった。

 朝食のパンは美味かった。大変質素な面様おもようをしながら贅沢を秘めた朝食に付いていた蜂蜜が、野生らしいあおい香を口の中に膨らまして取り分け美味かった。

 それから少し街をぶらついた後、バスに乗ってリンツの外れにある“パンの博PANEUM物館”へ向かった。今旅の一つ大きな目的である。楽しみな気持ちが強かった分、万が一期待を下回ってしまう危険性もあったから、バスに揺られていた四十分の間は余り妄想を膨らませない様に気を付けた。

 端的に申せば、私は八年の歳月をかけて、到頭欧州ヨーロッパにおいて最も素晴らしい博物館を見付けた、と言い表せよう、展示のどれ一つ取ってもまるで私を退屈させないどころか、かえって展示の規模において物足りなさを感じる程に、私の好奇心を次々に満たした。此処にはパンと歴史の全てが、パンと文化の全てが、そしてパンと人間の全てが集約されている、まさに私が知りたがっていた彼是あれこれが一堂に会し私を待ち受けてくれた。この興奮たるや、態々わざわざ退館する際、受付員に「全く素晴らしい博物館でした」と再三褒め千切ちぎらざるを得なかったほどである。

 帰り掛けに私は物販品の内から一冊の本を買った。“六千年のパン6000 Jahre Brot”と題された一冊は、私が八年前から頭に思い描き、事ある毎に書店で探していたまさに理想の一冊であった。遂に手に入った喜びのかたわらで、何故この本が一般の世に広く流通していないんだかはなはだ疑問であった。

 大を付けても足りないほどの満足感を胸に市街へ戻って来た私は、昼に軽食を挟んだ後、二つ目の目的であるリンツァー・トルテを食べる為に“オリジナルレシピのあKonditorei Jindrakるカフェ”へ入った。抑々そもそもリンツァー・トルテを食べた経験の無かった私は、正直に申してこれは殆ど食わず嫌いの類であった。見た目や情報のみから、苦手だ屹度きっとと判定を下して此処迄ここまで来ていた。身近にリンツァー・トルテを見た覚えも無いが、それも私が注意していなかった事によるものであろう。

 そうした下馬評は一口目から引ッ繰り返された。私がこれまで想像していた味わいや食感がたちまち塗り替えられた。二口三口と食べ進める。何時までも美味しかった。世界最古のレシピであるというのと、隣国ドイツのケーキが軒並み大味である事から、同様に大味の田舎ケーキの美味さであると思っていたのもまるで覆された。リンツァー・トルテは確かに懐古的レトロな様相である。田舎の香りもした。それでも確かに気品があった。中世欧州貴族の装いが目に浮かんだ。何とも不思議であった。不思議でありまた当然の様でもあった。
 
 
 二つの目的を果たした私は、もうそれ以上リンツを満喫しようと躍起にならなかった。抑々そもそもが慰安の逗留の心積りであるから、というのもあったが、“パンの博PANEUM物館”で買った本への関心に頭が支配されていたのが主たる理由であった。
 
 私は三時頃に一度ホテルに戻ると、少し休憩をしてそれから本だけを抱えてまた外へ出た。天気には終始恵まれた。本を抱えた私はホテルの近くに建つ大聖堂まで来ると、ベンチに腰掛けて本を広げた。日光の下で読書をするのは私の密やかなる趣味でもあった。腕をじりじりと焼きながらページめくる。まだ最初の数頁とは言え、頁を捲る行為がそのまま歴史を捲っている様で愉快であった。時間がゆっくり流れていく。


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


 

〇リンツ最古のパン屋:k.u.k. Hofbäckerei〇
〇パンの博物館:PANEUM〇
〇オリジナル・リンツァートルテのあるカフェ:Konditorei Jindrak〇



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