見出し画像

虚構の生

筆者解説(筆者プロフィールはこちら):
本稿は、連日話題となっている「人の生きる意味と価値」について私の考えを書いたものだ。私は、人の生きる意味や価値は他者から評価されるようなものではないと考えている。ましてや、職業のような、人間という一生物が作った虚構の世界での役割で評価するなど、もっての外である。我々は一体いつ、荒野で生き延びんとする猛々しいただの獣から、幻覚という鳥籠で飼われる軟弱な鳥になったのだろうか。

本編:

「己が今やっていることが世の中の人のためになっていると感じれないのだ。もう我には生きることの意味がわからぬ。かといって今我が官職を辞めるとなると、職ももたぬ日陰者となる。そうなれば我は一家や社会に顔向けのできない人間になってしまう。人はきっと我を阿呆呼ばわりするであろう。嗚呼、他人の役に立てず、その存在の価値を認められぬ人間など、もはや生きる意味があろうか。」

 そう神妙な面持ちで俯きながら話す学友のスッと通った鼻筋とそこから出る筋から伸びる二本の漆黒の眉とその下で力ない瞬きにつられてパサパサと揺れる長いまつ毛とを、外道から来た女史はぼんやりとした顔で眺めていた。一刻前から頬杖をついているからか、女史の曇天の内心とは裏腹に右側の頬がうっすらと桃色に染まって火照っている。彼女の頭を支えんと、ピンと垂直にたてられた右の上腕と、その上で握り込まれた拳には薄青い血管が浮き出ていて、若さ故にその中を湧き上がるような勢いで血潮が流れていた。

 他人のために何かをするのでなければ、自身の生存に意味が持てぬのか。人間社会というくだらない虚構に踊らされ、何かしらの歯車を演じなければ気が済まない、自動車の部品と同等のカラクリに成り下がったかつての学友に軽蔑の眼差しを向けている己を自覚しながら、女史は苛立ちを表に出さぬよう、代わりに頬杖の拳を爪が食い込むほど握りながら返事をする。

「ふん。己の生の意味を、官職如き行為の中に見出す人間がこの世にあってはたまらぬ。貴様も我にも、生に意味など持ち合わせておらんのだ。人間ごとき下劣極まりない獣が作った“社会”などという概念の中での“生”などに意味を持たせる必要はない。 
 かつて我々は己らが存在さえ証明できない低脳であることを認めねばならなかった。古代希臘のソクラテスがそうしたように、我々も稚児の時代よりそう習わされてきたのだ。であるが故に、この虚構において役を演じることで己が生きる意味をこじ付け、己が存在を世界に示したいという欲求を、人間という卑しい獣は持つのである。しかしだ、そのような欲求に安易に身を任せるほど阿呆な行為はないと我は思うのだ。貴様の思案は我々が身を置く紛い物によって創り出された幻でしかないことに気づかねばならん。元来、人間をはじめとする獣は他者に依って生の許可を得るような生き物であってはならんのだ。
 全く、中途半端に知性などというものを持つから、人間はこうなのだ。何かあれば、己や他者の“生きる意味“だの“社会での価値“だのを問いただし、己がいかに生きることを許されるべき存在であるかを、会ったこともない神のようなものに認めてもらおうとするのだ。かのジャン=ジャック・ルソーに我は心底同意するぞ。貴奴は文明や教育などは人間を互いに争わせる火種にしかならんと切り捨て、人類を原始に還さんと訴えたのだ。誠もって、これ以上の正論など有りはせん。
 とにかくだ、現世というのは貴様が気を揉むほどに高尚ではないということだ。そして貴様や我という存在自体も、貴様が思う以上に下等なものであるのだ。」

 女史は、そう話しながら、熱くなる右頬と血の滲みそうなほど爪が食い込んだ拳を解放するために頬杖を離した。今度は己が演説に合わせて、手持ち無沙汰になった右手の指先で目の前の手垢に汚れた薄茶色の机を弾いてみたところ、話終わる頃には、苛立ちを隠すことなど忘れていた。冷え切っていた左頬まで熱くなってきたのを感じた女史は、急に学友の前で熱り立ってしまった己のバツの悪さを感じながら、机の上に残った赤インクの後を爪で擦った。昨晩仕上げた原稿の半乾きのインクがついたのであろう。今や完全に乾いてしまったインクは、女史の爪にほんのりと赤い欠片を残しただけであった。

 「貴様のいうことには一理も二理もあるかも知らん。だが、所詮貴様のいう虚構にしか生きられない己らは、他者に己の生の尺度を託さねばならないのだ。貴様の好む偉大な西洋の哲学者がその理想郷とやらを実現しきれなかった故、我らはこうするしかないのだろうが。大体貴様こそどうなのだ。表では雄弁のひけらかすままに生きているように見えるが、腹の中ではどうせ我と同じことを考えているのだろうが。」

 落ちぶれた学友は、女史の苛立ちを感じ取り、己を守らんと噛み付いてくる。だがその抵抗は虚しく、女史の身体をすり抜けた。我は他者に生の意味を教えてもらおうなど思わぬ。ましてや、我の存在の価値を評価してもらおうなど、反吐さえ出る。

 生きることに意味も価値もない。獣は、目の前に与えられたものをただ気の赴くままに貪り喰えば良いのだ。一体これ以上の何を考えようというのだ。
 下賤な我々にそのような知恵がないということを、いつになれば哀れな人類は気づくのだ。

 外道から来た女史はため息をつくと、
 「有無。」
 という短い唸り声のような返事だけを絞り出し、薄汚い机の赤インクと自分の右手のひらに食い込んだ紅色の爪痕を交互に見つめていた。そうして部屋は、一匹の獣と、獣という事実から必死に逃げようとする、やはり一匹の獣の吐息で満たされた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?