ベトナム抗仏独立運動家とジャン=ジャック・ルソーの『民主主義』
仏領インドシナ時代の代表的なベトナム志士で、日本で最も知られているのが『東遊(ドン・ズー)運動』の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)です。
彼は1925年に上海で逮捕、祖国へ送還され、自宅軟禁の中で自伝書『自判』を漢語で書き遺しました。
その書中に、1911年の中国で辛亥革命(=武漢光復)成功を見たべトナム革命家達が、それまでベトナム抗仏党が執って来た立場を『君主主義』から『民主主義』へ変更し、新しい組織『ベトナム光復会』を立ち上げた詳細があります。⇩
「壬子(1912)年春、一月頃。孫中山(=孫文)先生が中華臨時大統領に選出された。私の旧友である胡漢民(こ・かんみん)氏が広東都督、上海都督は陳其美(ちん・きび)氏という私の最も懇意な友人が就任した。(中略)
この時、支那各地から続々と集まって来た我が党人は約100人、香港から畿外候(きがいこう=クオン・デ候のこと)、タイから牧老バン(マイ・ラオ・バン)翁もやって来た。(中略)
この場に於いて、順守すべき方向性とポリシー、主義を明確にした。何故かと云えば、日本政府に学生が解散させられてよりこれまで、公憲会は完全消滅、そして国内の悲報が怒涛の如く漏れ聞こえ、党の痕跡は離散、維新会規則の冊子も失った。党務を回復させるには、新たに整理整頓が不可欠だ。」
ファン・ボイ・チャウ著『自判』より
民主革命≪辛亥革命≫が成功し、その中華民国臨時革命政府幹部に就任したのは、日本で懇意にしていた中華革命党の友人ばかり。これを見届けたベトナム志士らは当然湧き立ちました。広東沙河の劉永福(りゅう・えいふく)将軍邸に集まって大会議を開催し、その会議冒頭の議題に挙がったのが、これ以後『君主主義』を執るか『民主主義』を執るか、でした。
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、この時の彼個人の意見を『自判』に述懐しています。⇩
「日本に滞在してから、外国の革命原因や東西政体の優劣について研究をし、ルソーの理論性の精髄を認めて居ったことに加え、中華人同志らと長い期間接したためか、君主主義はとうに戸棚にしまい込んでいた。
祖国を出国したばかりの頃は、声を大にして民主主義を掲げることは無理な話だったから、君主主義の旗を掲げて周囲の人間に合わせていた。依然として封建風土が変わらない間は、手段を無暗に変更すべきではない。だが、今は世界に大きな変動あり、局面は大きく変わったのだ。だからこの時、私は初めて公けの場に於いて、我が党の君主主義を民主主義へ変更させることを議題に載せた。」
ファン・ボイ・チャウ著『自判』より
ここから解るように、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自身は国許に居た頃から既に『民主主義』に興味を持っていた様です。彼と同じ中部地方出身の同志も、この会議で真っ先に『民主主義』転向に賛成しました。
反対に、頑なに『君主主義』保持を支持したのは南部出身の同志たちでして、この歴史的背景は、日本の幕末の尊皇攘夷潘対開国倒幕潘の分裂にも能く似ています。
それはさて置き、えーと、さてここで基本的な問題、『民主主義』についてです。。😅😅😅(笑)。。。
優秀な儒者で科挙合格者だった潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、日本滞在時に沢山の漢訳書籍を読み研究してました。☞(ベトナム独立革命家とソヴィエト(Совет)ロシア労農政府との出会い)
その彼が、ベトナム革命党を『民主主義』へ転向する時に念頭に置いてたのがこの⇒「外国の革命原因や、東西政体の優劣について研究をし、ルソーの理論性の精髄を認めて居ったこと」、
ということは、、、18世紀のフランス人政治哲学者、「ジャン=ジャック・ルソーの理論性の精髄」を調べれば、当時のベトナム志士たちの念頭にあった『民主主義の正体』が解るかなぁ。。。とボンヤリ考えて居た時、、なんと、YOU TUBEのおススメに、元明石市市長の泉房穂(いずみ ふさほ)氏の2月3日の動画「【特集】泉房穂のもう一人の師匠〈ジャン=ジャック・ルソー〉」が出て来ました。おお!!なんとタイムリーなんだ!😊と、早速拝見した内容とは。。。。⇩
「今回は、『民主主義とルソー』に関してであります。…自分達の社会は自分達が作っているのだから、自分達で変えていいんだということを、もう当たり前のように言われた方でして、…まあ『社会契約論』とも言われますけど、それが今の日本もそうですが、それが今の民主主義国家のベースを作っている価値判断、考え方です。…当たり前のように思いますが、実はそんなに当たり前でもなくてですね、どっかの誰かがやっているみたいな話が続いて、…当たり前のように言われている民主主義ですけど、実はそんなに当たり前でもないように思います。…
…戻りまして、民主主義論の社会契約論についてですが、これは私がいつも言っている社会は変えられる、社会の主人公は私たち、というのも正にルソーですね。…私たち自身が責任を負っている、その代わり私たち自身が変えることも出来るということが、まさに民主主義だと思います。そういう意味においては民主主義というのは有難い制度で、…
…あともう一個、ルソーに関して私がかなり拘っているのは、ルソーは基本的に直接民主主義者なんですね。…ロックというのは代議制議会を大事にする、…ルソーは出来る限り直接民主主義を大事にする考えです。」
なるほど、、『ルソー』『民主主義』『社会契約論』って、そんな感じだったのか。。。💦💦30年前学校授業中にあくびしてましたけど、今ベトナム志士のお蔭でまた一つ物知りに。。(笑)😅😅
以前投稿したように、ベトナム国土を襲い蹂躙してフランス植民地≪仏領インドシナ≫としたのは、当時西洋植民地主義を執ったフランス政体でしたが、実際に直接的にベトナム人民を管理し、逮捕し、処刑し、重税を課し、反フランス運動を弾圧したのは、西洋植民地主義の配下に下って植民地政府高官へ立身出世した同族のベトナム人たちです。
結局、「植民地政府高官へ立身出世したベトナム人」とは、元々大部分が旧君主である阮(グエン)朝の政府高官、或いは高官予備軍(科挙受験生)がその正体であり、厳しい科挙受験戦争を勝ち抜いた政府高官とか予備軍の、風見鶏ぶりとか愛国心の無さとか同国人に対する無慈悲ぶりを厭というほど見たベトナム志士らが、日本退去後に『君主主義』に見切りをつけ、中国の地で『民主主義』へ転向したことは、辻褄があいます。
それは、何故か。
日露戦役の日本大勝利の報は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)達が明治末日本を目指したきっかけに過ぎず、根本には同じ東洋の君主国家が、天皇のもと挙国一致で維新事業を成し遂げたという成功例が、彼等にとっての最大の希望だったからです。。。。ですが、ここで再度泉房穂(いずみ ふさほ)氏の動画に戻ってみます。⇩
「…日本だってそれこそ歴史を紐解けば、武士と武士が喧嘩して、勝った負けたをやっている訳で、民衆が皆で起ち上って社会を作り変えたことは残念ながら無い日本ですから、日本からすると、これまで一度も民衆自身が、社会を作ったことがあるのか、ないのか、という議論になろうかと思いますから、…
…社会の主人公は私たち、これがルソーですね。…ロックというのは代議制、議会を大事にする、つまり民衆が選んだその議員の判断を尊重する、これがロックです。ルソーはそうではなくて、選挙の時にいい事だけいう議員を尊重しすぎると本質を見失うという風に、ルソーは出来る限り直接民主主義を大事にする考えです。…
…どうしても日本の場合は話し合い中心的な文化が長く続いて来ましたから、できるだけトラブルの無い方が良いと言われがちで、…ルソー自身は初めから対立するのが当然だと考えていて、…個々の議員が選ばれて、議員が集まって議会ですが、議会の携わる意志が全体意思と仮定すると、ルソーは、それは本来の一般意思、適正な判断からズレるんだと、多数派形成した意志が本当にあっているかどうかは疑問なしとしない、とルソーは当時から言っていて、…日本の場合にはどうしても話し合いが好きなので、話し合って解決しようとするのですが、話し合って解決するとも限らない場合がありますから、その時どうするかのテーマです。」
戦後の日本政界は戦争利権者でスタートして、その2世、3世議員による政治。令和はとうとう4世議員が、神輿に乗る足元も危なっかしい様な頼りなく心細い面々ばかり。。。(笑)
ルソーに言わせれば、日本の『民主主義』は看板だけで、実態は『民主主義』でも何でも無いのか。。(笑)
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)達ベトナム志士は、日本で中華革命党の孫文や黄興、陳其美らと親交を深め、宮崎滔天(みやざき とうてん)に、”もっと世界へ目を向けろ!”とアドバイスを受けたり、社会活動家の大杉栄(おおすぎ さかえ)や堺利彦(さかい としひこ)らと共に会派を結成したりしてました。
日本渡航以前から、国許に在って『民主主義』に興味を持ち、海外出洋後には『ジャン=ジャック・ルソーの理論性の精髄』を研究していた彼等にとっては、明治期日本の『民主主義』程度は、”いやはや、、理想に程遠く、想像より数段遅れてるゾ、、、”と感じたのが本音じゃなかったかな、と思います。
だから、日本退去処分を不服とし、時の外務大臣小村寿太郎に弾劾書を送りつけたり、その後中国でベトナム革命党の看板を素早く『民主主義』に付け替えた経緯も、スッキリ説明が付くような気がします。。。
ファン・ボイ・チャウがまだ生きていれば、
『日本は”看板”民主主義国家なり。その政治実態は、明治時代よりこの方封建制の悪しき旧弊が跋扈する魔窟界なり…』
なんて、書いてたかも知れません。。。😅😅