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ベトナム独立運動家と宮崎滔天(みやざき とうてん)

 ネットで調べますと、宮崎滔天(みやざき とうてん)氏は『明治大正期の社会運動家』とか『大陸浪人』とありますが、私は数年前にベトナム皇子クオン・デ候の自伝(1957年サイゴンで出版)の翻訳を始めて、参考にした仏印史関連書籍の中でちらほらとこの宮崎滔天氏のお名前をお見掛けしました。

 先の記事「ベトナム革命家と孫文(そん・ぶん)」で、日本に滞在中だったベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ氏が、犬養毅氏から中国革命党の孫文(そん・ぶん)を紹介されて横浜の『致和(ちわ)堂』で面会したことを書きましたが、もう一人、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ自伝書『自判』には、その孫文から紹介された日本人の宮崎滔天(みやざき とうてん)氏が登場します。

 「戊申の年(1908)10月、ベトナム人留学生の日本退去が完了し公憲会も消滅した。もう日本は頼りにならず、我らベトナムと同病相憐の中国革命の動きを注視して行く外なくなった。
 孫文氏のお蔭で、日本の浪人、宮崎滔天(Cung-Kỳ Thao-Thiên、クンキー・タオティエン) 氏に知己を得た。滔天氏は、世界革命の志を立てていた。初対面の時、滔天氏は私にこう言った。

 ”ベトナム一国だけの力では、到底フランスを追い払うは無理だ。だから近隣諸国の力を借りようというは至極当然、しかしどうして日本が貴国を扶けることがあろうか? 日本の政治家は、野心豊富で義侠心に乏しい。貴殿は貴国の青年へ英語、ロシア語、ドイツ語などを習得させ、世界の人士との交流を増やすことを奨励したまえ。人道を重視し、弾圧を嫌う人士。広い世界には、そんな人々も決して少なくない筈だ。正にその様な人々だけが、貴方たちベトナム人を扶けることが出来る。”

 その時の私は滔天氏の話に半信半疑だったが、それは実のある話だったことが後に証明された。彼の言葉を思い出した私は、この頃から世界との連携を模索するようになった。しかし問題は、世界周遊には資金が全く足りないこと。それに外国の文字、会話に耳も目も暗ければ、どうして西洋へ扉を開けようか?
 …取敢えずは先に全アジアの志士と連携を深め、植民地にされた亡国のアジア諸国民族が団結し一つになれば、同時革命の時期もやって来よう。」
      
 ファン・ボイ・チャウ著『自判』より 

 「日本の政治家は、野心豊富で義侠心に乏しい。」。。。
 
こんな昔から全然変わってないとは…。😅😅或る意味、なんか凄い。(笑)
 
そういえば第2次近衛文麿内閣の時の外務大臣、松岡洋右氏も、今考えるに実に興味深い「政党解消運動」なるものをやってました。。。(⇒仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(1)|何祐子|note

 話を戻しますと、先の記事「ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(3)」で、ベトナム人留学生の梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)君が物乞いをしながら徒歩で東京まで行き、「中国革命党の報道機関『民報報館』の扉を叩いて管理者の「章大夫(章炳麟、しょう・へいりん)氏や張継(ちょう・けい)氏」と知己を得たことを書きました。
 中国革命党の要人は、ベトナム革命の若者へ大いに同情を寄せ数名を東京に引き取って振武学校で学ばせるなど、親身になって面倒を見てくれました。その縁があり、ベトナム革命党人は、日本に於いて中国革命党やアジア各国の革命運動家達との交流を広げるきっかけが出来ました。
 そして、その頃祖国から送金がストップし、資金不足が続いていた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、思いがけず静岡の医師、浅羽左喜太郎翁から届いた援助金を元手に、直ちに彼等との同盟会結成に動いたのです。

 「…資金を得たので、早速、中国革命党と日本平民党に働きかけた。中国革命党の章炳麟氏、張継氏、景梅九氏は快諾。その次は、インドのダイ氏、フィリピンの恒氏、朝鮮の趙素昂(ちょう・そこう)氏とその他10名程。そして、日本社会党所属の大杉栄氏、堺利彦氏、宮崎滔天氏ら約10人強の参加に、彼等から多くの寄付も拝受して、1908年「東亜同盟会」を結成した
 ベトナム革命党からは私、潘是漢(=潘佩珠)と鄧子敏(ダン・トゥ・マン)、阮瓊林(グエン・クイン・ラム)等々、、」
             『自判』より

 こうして多国籍の同志で集まり結成した「東亜同盟会」でしたが、5カ月後に日本政府の命で解散となりました。しかし、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)はこれ以外にも、ベトナムと国境を接する広東、広西、雲南の留学生に働きかけ、「滇桂越(てん・けい・えつ)連盟会」という会も結成した、と書いてます。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自身正直に白状していますが、救国一心で国内各地に同志を探し求め、党代表として日本に渡った時は『打倒フランス』、ただそれだけでした。しかし、武器買い付け成らず、東遊(ドン・ヅ―)運動も潰され留学生は解散、資金も底を着き、万事窮すだった彼の頭に蘇ったのが、宮崎滔天氏の言葉でした。
 言葉の意味を深く受け止めた潘佩珠と、クオン・デ候を筆頭とする若いベトナム革命党員は、その後にフランス、ドイツ、タイ、中国、ソ連、アメリカなどの世界各地に散らばって盛んに活動を始めたことを思えば、宮崎滔天氏は実は、ベトナム革命運動史に少なくない影響を与えた日本人の一人だと定義できるのではないかと私は密かに考えています。。。😅😊😊

 一番上⇧に書きました様に、翻訳作業中に読んだ関連資料の中に、特に1937年支那事変勃発以後、何度も努力が払われた和平工作で中国側が宮崎滔天氏、或いは御長男の宮崎龍介を日本側の代理人に指定する場面が何回もあったように思います。
 私は20代から長いことべトナムで暮らしたせいでしょうか、この理由は何となく判るのです。日本人は、「政治(或いは経営)」と「人情」を切り離すことを「立派な事」と分類しますけど、大陸の彼らは単純に「信用できない人」とは「約束しない」です。(笑)
 しかし、案外この単純な理屈が海外、特に東南アジア駐在日本人の方は見抜けない。現地に馴染めずに結局そのまま帰国した人が私の周囲には多かったです。
 一個人の小さな失敗の積み重ねが、最期大きな国益の損失に膨れ上がる。怖いですね。。😢😢

 

 

 

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