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仏領インドシナの一大”反植民地主義勢力”だったベトナム・カトリック教会

 去年から仏領インドシナ時代ベトナム抗仏運動史をあれこれ投稿しました中に、「カトリック教徒」で元フエ宮廷政府高官の抗仏志士、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が度々登場したと思います。
 ベトナムを占領し植民地にして搾取したのはカトリック国(フランス)のカトリック教徒(フランス人)だった訳ですが、早い段階からこれに抵抗し、独立闘争を闘った一大勢力に、実はベトナムのカトリック教会があったことは、日本では殆ど知られていませんね。

 出洋愛国運動東遊(ドン・ズー)運動』の留学生にカトリック子弟が多かったことも、優秀な学生の選抜、渡航費用の寄付集め等、堅固な組織的支援があったことが大きかったのかと思います。

 独立運動家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』には、抗仏党の旗揚げ時に国内外で思いがけずカトリック教徒の同国人から沢山の支援を受けたことや、そして、鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)氏『ベトナム義烈史』にも、抗仏闘争で多くのカトリック教徒志士達が命を落としたと書いています。

 「…しかし四月、畿外候(=クオンデ候のこと)を迎えてクアン・ナムで開く予定の秘密会までには、まだ十分日にちがあるので、その間に北部の訪問を兼ね、クワン・ビン以北のカトリック教徒の入党勧誘運動に出掛けた。 
 …主なる人士は、通(トン、Thông)氏、伝(チュエン、Truyền)氏など、私達は、出会ってすぐに意気投合し、従来のカトリック信徒らと我等の間にあった偏見など雲散霧消した。
 これは、誠に呉広(ゴ・クアン、Ngô Quảng)氏のお蔭だ。元クアン・ガイ省軍副司令官の呉広氏は、抗仏蜂起を起こしたが敗走し、氏名を変えてカトリック信者の間に紛れていた。この彼が私を引き廻してくれたお蔭で、道にも迷わず思うままに事が運んだ。出洋後も、行く先々でカトリック教徒の人々は、本当によく私を助けてくれた。」
          
『潘佩伝』と『自判』より  

 時は丁度1904年、世界が日露戦争の勝敗に注目していた頃。前年から本格的に抗仏活動に身を投じた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、クアン・ナムの『南盛山荘』に阮誠(グエン・タイン)氏を訪ね、王都フエでクオン・デ候と面会を果たした頃です。
 ここの、「…四月、畿外候(=クオンデ候のこと)を迎えてクアン・ナムで開く予定の秘密会」というのが、『南盛山荘』でのベトナム光復会(=維新会)結成会議のことでして、クオン・デ候も、自伝中にこの結成時の初代メンバーにカトリック(耶蘇教)信者がいた事に言及しています。

 「…結成時の初代会員は、陳廷朴(チャン・ディン・ファック)、 阮有俳(グエン・フウ・バイ)、阮述(グエン・トァット)、阮讜(グエン・タン)、陶進(ダオ・ティン)、范訊(ファム・タン)、耶程賢(ドック・バン・ヒエン、(=耶蘇教信者))。皆官長職に在っても、心は愛国忠君精神に溢れた者達ばかりです。そして、 会の会主には私が就任しました。」
         『クオン・デ 革命の生涯』より

 扶桑の国・日本を目指して1905年1月に出国した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、道中でカトリック村に身を隠した時のことをこう記しています。

 「夜9時頃、船は玉山(ゴック・ソン)に着いた。商人に変装した我々を尋ねる西洋人はいなかった。暫く歩き、ある村の入り口に着くと、曾抜虎(タン・バッ・ホー)氏は、十字架の首飾りを取り出し、これを首にかけろと言う。ここの村民は皆カトリック信者だから、これを首にかければ万事上手く行くという。
 ある家に入って行くと、主の老漁夫は曾氏とは旧知の仲のようで、食事の時に我々が十字を切って祈り捧げると、主は大変喜んだ。
 夜12時半頃に、主が雇ってくれた小舟に乗ること約2時間、支那側の防城県に上陸した。」
         
 『自判』より

 日本に到着し、横浜に居た清国の梁啓超(りょう・けい・ちょう)を訪ねた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)達は、日本の要人大隈重信、犬養毅柏原文太郎を紹介されました。面会の結果、主目的だった武器購入は暫し延期とし、代わりにベトナム人学生の『東遊(ドン・ズー)運動』(=愛国出洋運動)を組織しました。(詳しくは先の記事仏印”平和”進駐の『第2次近衛内閣』総理大臣・近衛文麿のこと その①|何祐子|noteをご参照ください。)

 その運動のお蔭で、祖国を脱出して日本を目指して来る若者が日増しに増え、1908年頃の在東京のベトナム人留学生の数は200人以上になったと伝えられています。
 そして同年3月に、タイで用事を済ませて香港に寄った潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に、思いがけず嬉しい出来事がありました。
 
 「…国を出て香港に来ていた牧老蚌(マイ・ラオ・バン、Mai Lão Bạng)氏に偶然逢った。牧氏は、天主(カトリック)教会からの委任を受け、教徒代表として青年教学徒数十人を連れて来ていた。彼等を『維新会(=光復会)』に入会させる為だという。
 以前天主会の日本留学生は一人もいなかったが、牧氏の出洋以後、合計で何十名も日本へ留学し、その内の何名かは教師資格合格者だった。その中でも例えば黎金声(レ・キム・タイン)、劉燕丹(ルゥ・イエン・ドン)などは、最も将来を嘱望されていた若い教学徒だった。」             
『自判』より
 
 牧老蚌(マイ・ラオ・バン、Mai Lão Bạng)氏は、『聖人』称号を持つ当時ベトナムカトリック会の超大物でした。

 クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』の『第8章 8カ月の南坼滞在』の中に、苦力(くーりー=日雇い労働者のこと)に変装してサイゴン行船に潜り込んだクオン・デ候が、うっかり愛国詩歌を口ずさんでしまって、船夫のカトリック信者グループに正体がバレそうになる場面がありますが、
 「…その連中の兄貴分らしき男が私に、君は外国から密かに国に戻ってきた革命志士か、と問い詰めました。その彼は、牧老蛑 (マイ・ラオ・バン)の詩文を詠じて、「自分も愛国者なのだ」と言います。牧老蛑は南圻出身の宣教師で、日本や支那から革命鼓舞の詩歌を多く作り国内教徒たちへ送っていた人物です。私はそんな皆が考えているような人間ではない、と断固として否定すると、なんだつまらない、と言ってその場はそれきりになりました。」    『クオン・デ 革命の生涯』より
 
 この様に、ベトナムカトリック会では誰もが知る有名人の牧氏でしたが、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と香港で会ったときは、全ベトナムカトリック教会の密命を帯び、これから日本へ渡るところだったのです。

 因みに、劉燕丹(ルゥ・イエン・ドン)君は相当優秀な若者だったようで、日本で中国籍の李仲栢(り・ちゅう・はく)と名を変え清国官費留学生として勉強を続け、日本で帝国工科大学まで行き工科学士になったそうです。。。

 先を続けます。
 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、牧氏と教学徒数十名を連れて日本に再入国しました。

 「…カトリック教会への礼儀として、学院の全学生を集めて歓迎会を開いた。牧氏は、国内で実に情熱を以て革命活動を教徒らに説いて回り、彼の書いた『老蚌普勧書』は、ベトナムカトリック教会内で大きな反響を起こしていた。
 …この後、牧氏はタイへ渡ったが、フランス政府からの要求で4カ月拘禁された。拘禁が解かれて香港へ渡ると、再びフランスの要請を受けた香港政府に捕まり入獄すること3か月。そしてその後に広東に渡ったが、今度は、フランスと手を握った時の
広東都督竜済光(りゅう・さいこう)に私共々捕まり牢屋に入った。入獄期間は4年間にも及び、竜済光が死んではじめて解放され、やっとのことで上海に着くと、ここでまたしてもフランス密偵と英国の共謀により捕らえられて本国に送還され、10年も獄に繋がれてしまったのだった。」
           
 『自判』より

 祖国解放の為に牧老蚌(マイ・ラオ・バン、Mai Lão Bạng)氏が辿った苦行とも云える逆境と苦難に満ちた人生。真に、不撓不屈の固いキリスト教信仰の人生だという気がします。。。

 この⇧、『牧老蚌(マイ・ラオ・バン)上海捕縛事件』は、クオン・デ候自伝「クオン・デ 革命の生涯」の第13章「フランス密偵 潘伯玉(ファン・バ・ゴック)のこと」の中に詳しく書かれています。

 『ベトナム越南義烈史』の著者、鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)氏も、東遊(ドン・ズー)留学生で、カトリック教徒でもありました。著書の中に、同じカトリック教徒、黎磬(レ・カイン)君のことが書き遺されています。

 「君が4年生の時、私は3年生だった。ふたりは親しかった。君はため息をついてよく言ったものだ、
 ”主イエスとその弟子たちは、その血で世人の垢(つみ)を洗った。いま祖国の同胞がこんな厄難にあるときに、我等は救済に身を捨てず、国が滅びるのを座視している。宣教とは、いったい何を教えることなのか。”
 …君の肝胆肺腑からの言、私は今でも片時も忘れていない。」

 彼らがキリスト教学から悟ったことは、「愛国の熱血と宗教への情熱」。それが矛盾なく心に漲れば、己を捨て救国活動に身を投じるは必然だったのでしょう。。。

 以上、仏領インドシナの一大反フランス植民地主義勢力だった、ベトナム・カトリック教会による反仏運動の記述を纏めてみました。

 先の記事、ベトナム独立運動家の考えた-キリスト教信奉者の侵略・暴力・搾取」で、「何故に、天主(=イエス・キリスト)の使命を奉じて来た筈のフランス(西洋)人が、他民族の地を侵略し、悪虐な施政を施し、他国人を苛むのか?」という潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の素朴な疑問を取り上げましたが。。。
 真摯に信仰に向き合い、日々天主の言葉を学び実践したベトナム・カトリックの人々は、実は最も早い段階で、「他者を暴力と権力で支配する勢力」とは「単にカトリックを名乗る」輩であり、「偽物」だと看破した故に、厳しくこれを弾劾、抵抗したのかも知れませんね。。。

 先の記事、「仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(3)に書きましたが、クオン・デ候の盟友・抗仏志士の一人、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏は、1955年に『ベトナム共和国』初代大統領に就任しました。
 日本は敗戦、クオンデ候も既に世を去り、抗仏同志達の多くが戦死・亡命・失脚した中で、未だフランスと北ベトナムが睨み合う不安定なベトナムに、亡命先のアメリカから戻ったのです。私は、これは本当に凄い勇気だと思います。
 そしてやはり、大統領就任数年後、凶弾に倒れました。「カトリック優遇・仏教徒弾圧のアメリカ傀儡政権、悪の親玉」と世界的大プロパガンダが吹き荒れて、軍事クーデターで殺されました。

 日本軍の『明(マ)号作戦』の時は、カトリックも、高台(カオ・ダイ)ホア・ハオ(仏教)も愛国団も大越同盟も含む国内の愛国・宗教・政治組織が一致団結して大成功したのです。そして、1945年3月に保大(バオ・ダイ)帝の『独立宣言』によって国民念願の独立を勝ち取ったばかり。
 そのたった10数年後に、大統領になった呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が、祖国再生の命運を賭けたあの時あの状況に、深い理由もなく単なる身内贔屓でカトリックを優遇し、それだけでは事足りずに仏教徒を弾圧して、突然変異の如くに『大悪党・独裁者・悪の権化』へ変身!?など、普通では考え難い話です。
 しかし、これは冗談でも何でもなく実際に1960年代の全世界で大宣伝されたこと。
 正に、”真実は小説より奇なり” 。。。😵‍💫😵‍💫 

 
 
 
 
 
  

 

 

 

 
 
 


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