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ベトナム史の中の黒旗軍・劉永福(りゅう・えい・ふく)将軍のこと

 ベトナム史を取り上げるのなら、取敢えずは黒旗軍の劉永福将軍を取り上げておかないとなぁ。。。と思っていました。この方は、ベトナム史に結構頻繁に登場するのです。私にとって劉永福将軍は、「ベトナム史準レギュラーメンバー」認定です。😅

 ネット情報を見ますと、「劉永福は、広西チワン自治区出身。若い時天地会に参加、洪秀全の台北天国の乱、ベトナムハノイ戦、台湾抗日戦など、数々の先頭に参加した軍隊を率いた将軍」と、簡単に纏めるとこんな感じの人物と紹介されています。

 ベトナム史の大ベストセラー陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏著『越南史略』(ベトナム語の歴史本『越南史略』|何祐子|note) 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|noteには、ちょくちょく登場場面があります。一番初めの登場は、やはり『太平天国の乱』でして、ベトナム史側からは、こんな風に表現されています。
 「道光29年(→清国第8代皇帝道光帝のこと)の1849年、我が国は嗣徳(トゥ・ドック)2年の時、広西省で、洪秀全(こう・しゅう・ぜん)という名の人物が、楊秀清、蕭朝貢、李秀成らと共に「太平天国」を名乗って南京と長江南部地域の各省を占領した。幸運だったのは、その時清国には曽国藩、左宗棠、李鴻章がいてこれらを懸命に攻めて、外国の加勢もあり、我が国の嗣徳16年になって清国は太平将軍を捕らえることが出来た。」

 こういう感じで、『太平天国』は完全に『賊扱い』です。。。
 その理由は、ベトナム側ではこの後が大変だったからみたいです。
 「洪秀全の残党の呉鯤(ご・こん)は、ベトナムへ逃げ込んで来て、軍隊が各省で強盗を働いた。ベトナム官軍はこれを中々制圧できなかった。」
 この頃の北部国境付近は、常に匪賊に山賊、そして外国軍の敗残兵が逃げ込んで来ては居座ってしまい、荒らし廻られて大変だった模様です。

 「1868年、嗣徳21年、呉鯤軍にカオバン省城を占領された為、フエ朝廷は清国へ使者を送り、討幕軍の派遣を求めた。」
 
そうして、清国から派遣されて来た軍隊とベトナム軍は共に呉鯤軍を攻めますが、なんと負けてしまいます。。。これは大変と、再度、広西省提督、馮子材軍と武仲平(ブ・チョン・ビン)提督率いるベトナム軍で、2国混成討幕軍を組織し、この2国協力軍で力を合わせて攻める事約2年。1870年末、北寧(バク・ニン)省城を取り囲んだ呉鯤軍との激戦の末、やっと呉鯤を撃ち殺して敵軍を潰滅することが出来たそうです。しかしですね、まだ終わりません。
 「呉鯤が死んでも、徒党はまだ残っていた。それが、黄旗軍の黄崇英、黒旗軍の劉永福、白旗軍の盤文二と梁文利。ベトナム東北部トェンクアン-タイグエン辺で未だ狼藉を働いていた。」
 ええと、黒旗軍の劉永福の『越南史略』初登場はこんな感じです。💦💦
いづれにしても、ベトナム朝廷政府はこの頃本当に大変だったと思います。丁度フランスから攻撃を受けている真っ最中ですから。北部国境でこんなにも外賊が出没していたら、越清協力軍を以てしても攻めるにも攻めきれない背景があったのですね。 
 
 劉永福将軍、このようにベトナム史初登場は、「北部を荒らしまわる太平天国軍残党中の一党のリーダー」でした。けれど次はベトナム軍の助っ人として登場します。
 「山西(ソン・タイ)地方に兵営していたベトナム官軍は、黒旗軍、劉永福の助太刀を得た。ベトナム皇帝は、劉永福を提督に奉じ、黒旗軍はベトナム軍と共にフランス軍と戦った。」
 この時の大戦相手が、印度支那駐在フランソワ・ガルニエ大尉でした。
 「北京政府は急いで安南の救援に赴かせ、(中略)黒旗軍に河内(ハノイ)駐在の西洋軍を攻撃させた。ガルニエは進んで其の軍勢を激檄したが、伏兵の手にかかって1873年12月21日に戦死した。」T.E エンニス著『印度支那』より
 
 そして、この次の登場も『助っ人』です。
 「…一個の仕事師たる劉永福は安南王廷に傭われ(ベトナム史には清国に雇われたと書かれています)、黒旗軍を後盾として白人の勢力を悉く南圻(ナム・キ)から駆逐した。」
 「フランスは1882年1月17日に至ってはじめて軍事行動の準備を完了し、司令官リヴィエールは(中略)6百名の歩兵を与えられ、河内(ハノイ)から「土匪」を掃討するべく命令を下した。(中略)暫くして黒旗軍はレミントン銃で武装して再び勢を盛り返し、リヴィエールの部隊を攻め囲んだ。1883年5月19日、リヴィエールは山西(ソン・タイ)で敵の攻団戦を突破しようとして、3人の士官及び26名の兵士と共に戦死した。」

T.E エンニス著『印度支那」より

 劉永福将軍、、、やっぱり強いですね、またフランス人の士官を仕留めました。。。ここで、目をふと日本に向け、この時の「フランス軍が、ハノイ郊外で大敗した」ことを伝えた当時の日本国内のニュースを取り上げてみたいと思います。
 「1883年6月11日の『時事新報』は、第一面のトップに「5月11日以来…トンキンのハノイ(=紙橋(Cầu Giấy)の役)に於いて、仏兵、安南の黒旗兵と激戦して大敗を取り、首領リヴイール氏以下戦死する者数十名…」    『日本のなかのベトナム』より

 後藤均平先生は、ご著書「日本のなかのベトナム」で劉永福将軍をかなり詳しく取り上げています。
 「幕末以来、西洋の軍隊は、アジアで戦えば必ず勝って来た。(中略)新聞が連日ベトナム事件を流す中で、日本の社会に「ベトナム問題」が生まれた。」
 当時は、世間一般では殆ど関心の持たれていなかった安南状勢でしたが、劉永福の黒旗軍の勝利のお蔭で、福地源一郎や福沢諭吉などの並々ならぬ論客がベトナム情勢について新聞社説を書くなど、「6月中旬以後の各社の新聞は、黒旗軍関係の記事を連日提供」して、俄然庶民の注目を集めたことがあったそうです。⇩
 「黒旗軍とは、長髪賊(太平天国軍)の残党で、ベトナムに流れ込んだ無頼の集団、大将をロウビンフー(=劉永福)という。手勢は常備5千、戦闘になると合算2万を超える。根拠地を紅河の上流、雲南国境に近いラオカイの町に置き、ベトナム政府に頼まれて、義によってフランス軍と対戦している。ロウビンフーは残忍酷薄で軍律は厳しい、云々。」
 ↑ 現地からの外国報道機関から入って来る黒旗軍の情報は、初めこんな感じの取り上げ方だったみたいです。そしてその後、1930年代に本人の口述による自伝が出版されて、広西区の貧農出身で、漢人ではない(=チワン族)ことや、太平天国運動解体後の北ベトナムでの戦闘の事など、本人の人物像と生涯が日本にも伝わったそうです。

 劉永福将軍の黒旗軍は、1895年(明治28年)の日清戦争後にも、日本の新聞を賑します。台北に於ける抗日闘争です。この時の在台黒旗軍の中には、一兵卒として、後の1904年に潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の日本行の道先案内人となった曾抜虎(タン・バッ・ホー)が居ました。(このことはここに→https://note.com/gayuko_lion123/n/n40c06115a097書きましたので宜しければお読みになって下さい。)

 話が反れますが、元のベトナム山西(ソン・タイ)地方の軍務宰相、阮善述(グエン・ティエン・トァット)氏は、1885年フランス軍との戦いに破れ国外に脱出し、広州に留まっていました。此の話は、ベトナム義人の間では良く知られていたようでして、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も、クオン・デ殿下も、祖国を出奔し日本へ渡る途中で広州に寄って、阮述公と劉永福に挨拶に訪ねています。
 「私はその時、前の協督大臣阮公述(阮善(天)述)が、、国難によって広東に走り、今は羊城(=広州府)沙河劉祠に住むと聞き、公は私に対しては父の同輩であり、且つ旧勤皇家であるから、これに挨拶しなければならないと、ついに広東に至って公に見まえた」   『獄中記』より
 久方の面会を大層喜んだ阮述公は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)を劉永福に引き合わせます。この時の印象を潘佩珠は、「すでに年寄っておりました。しかし往事を顧み、フランスのことを談ずるに及んでは、つくえを拍って叫び、おもむろに当年ハノイ紙橋の役に、賊を斬って旗を掲げたその雄魂を忍ばせるものがありました。」と書き残しています。

 その翌年に、クオン・デ殿下が日本へ渡る時に広州に寄った時は、
 「数日後、潘周禎(ファン・チュ・チン)と共に広州へ行き傘述(=阮述氏のこと)を訪ねました。(中略)支那の黒旗軍劉永福の自宅祠堂に寓居していました。傘老父は、歳はとってもまだまだ壮健、その激烈な忠心は健在」と、劉永福邸でのフエ朝廷旧臣との再会を述懐しています。

 以上、ベトナム史の中に現れる黒旗軍、劉永福将軍を纏めて取り上げてみました。
 前述の後藤均平先生の「日本のなかのベトナム」に掲載されてました劉永福の写真が一番上の写真なんですが、『広西チワン族の少数民族ご出身で、長髪賊』の劉永福将軍ですので、後ろに「長い髪」がついているようです。ネット検索しますと何故か後ろの長髪が消えている写真しか見当たらないんですけど、やっぱり長髪がある方が自然かなぁ。。まあ、どっちでもいいですかね。髪があるバージョンと髪が無いバージョンに何か意味があるのかな、ちょっと分かりません。。。


 
 

 

 

  

 
 
 
 
 

 


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