苗字変更〜そして、新たに父とも出会う〜(自己紹介9)
「義樹君、こんにちは」
なんの変哲もない普通の会話でした。
急に母が家に連れてきた男性。母はこの男性の事を「先生」と呼んでいました。当時、母が働いていた接骨院の施術担当だから先生。
僕が小学5年生の時の事でした。
当時の僕は、この人が後の父親になるなんて思ってもいませんでした。
なんとなく葛藤した記憶があります。この出来事がきっかけで、だいぶ忘れかけていた前の父の事を思い出すのでした。
この頃の僕は相当冷めた小学生でした。学校も先生も嫌いでした。苗字が変わったことで腫れものに触れるような気の遣い方を受けました。
家には知らない男性がいる。
大人になるって退屈なんだなぁと思いました。だって、葛藤しているのに楽しそうに振舞っている自分がいるんですから。
今年の3月で30歳。これまでの人生に弾みをつけるために、ハードモードだったこれまでの人生を振り返っていきます。
過去記事はコチラから!
小学校4年生は僕にとって失敗の年でした。Nさんや助けてあげることができなかったいじめ女子生徒には、本当に申し訳ない事をしたと思っています。
そんな僕は、原因を考えるのでした。
そして辿り着いた解答が
「友達を作らない」
でした(笑)
今思い返すと意味が分かりません(笑)
気持ち的に、相当こたえてたんだと思います。いじめを受けないようにするための結論が友達を作らないなんてむちゃくちゃです(笑)
でも当時は、本気でそんな事を思っていました。
僕が通っていた小学校は幸いにも「毎年クラス替え」があります。
マンモス校だからですかね?学年が上がるごとにクラスが解体されて、新しい生徒と新たなクラスを形成する事になるのです。
4年4組という地獄のクラスが終わり、僕は5年1組に配属されることになりました。4年4組は学級崩壊寸前だったと前の記事で書きました。そのため、5年次にはきれいに生徒がバラバラにされたのでしょう。
5年1組には、4年4組の生徒がほとんどいませんでした。
クラス替えの恩恵はまだ続きます。この5年1組には、今までの小学校生活で僕と仲良くしてくれた友人も全然いませんでした。
今考えれば寂しい話です。
でも当時の僕は、
これで平和に独りで過ごせる。
なんて思っていました。
それくらい独りになりたかったのでしょう。この頃からちょっと中二病っぽい雰囲気も入っていたかもしれません(笑)
ただ、現実はそんなに甘くありません。
そう。
この5年1組も余裕で学級崩壊寸前のクラスになるのでした(笑)
そして僕はここから今までのいじめとは違う、非常に陰湿ないじめを受けることになり、なんなら担任の先生ともバトルを繰り広げる事になります(笑)
僕は5年生で苗字が変わりました。松澤という名字から小栗という母方の名字を名乗るようになります。多分ですが、離婚の話がまとまったのは4年生の終盤。Nさん偽装ラブレター事件の後くらいだったと思います。
5年生で苗字が変わったのは単純にキリがよかったから。だったと思います。
僕は苗字が変わる事をそんなに大事だと思っていませんでした。結構甘く見積もっていたと思います。
現代では、苗字が変わることってそんなに珍しくないというか、受け入れる側もある程度受け入れ体制が整っていますよね?
19年前は残念ながら、苗字の変更は斬新だったようです(笑)
クラスの人たちから陰でめちゃくちゃこそこそ言われました。当時の僕が神経質になりすぎていて、そう聞こえていた可能性も捨てきれませんが「お父さんいないんだって」という声がひそひそ聞こえてくるのです。
僕は完全にふさぎ込んでいました。話題に出すのは止めてほしい。静かに暮らしたい。もう関わりたくない。そんな事を思っていたと思います。
4年生の事件のトラウマと、自分の立ち回りの下手さに打ちひしがれていた時でした。そこへきて苗字の変更によるひそひそ話。完全にキャパオーバーです。
5年生になった当初は、人と話したくなくてずっと1人で考え事をしていました。というのも、このキャパオーバーな状態に追い打ちをかけるがごとく、もう1つの大きな議題が僕の頭の中を支配していたのです。
それが4年生の終わりごろ、急に現れたある男性。のちに僕の育ての父になる人の登場です。
「義樹君、こんにちは」
多分最初の言葉はこんな感じでした。この記事で初めて飛び出た、まともで普通の言葉ですね(笑)
この男性は、当時母が働いていた接骨院の先生でした。
そんな男性が、いきなり祖父母の家に遊びに来たのです。
この時の僕の心境を正直にお話しすると
「いや、離婚成立したばっかなのに早くね?(笑)」です(笑)
小学5年生です。まだまだ子供といえど、さすがに恋愛的なそれだということくらい分かります(笑)
この時、僕と母の間にはかなり温度差があったと思います。母の方が、これまでの人生ではなく、これからの人生を考えるのが早かった。それに対して僕は、とてもじゃないけどそんな前向きな気分になれていません。だって学校では、苗字が変わった事についてこそこそこ言われているわけですから(笑)
自分の見積もりが甘かったせいで勝手に傷ついてるだけなんですけどね。それでも、9歳の頃から感じている自分の家の環境が同級生と違うという強烈な劣等感を都度都度ぶり返すようなその行為には結構やられていました。
小学5年生は孤独でした。家族で言えば、母とは温度差があります。2つ下の妹と7つ下の弟は、家に現れたこの男性に対する順応が早かった。弟は分かりますが、妹は生みの父、つまり松澤時代の事をほとんど覚えていないみたいです。後で聞いて衝撃でした。結構ハードな出来事だったと思うのですが(笑)
もともと楽観的な性格でしたし、まだ小さかったこともあってそこまで記憶に刻まれずに済んだのかもしれません。それかもしかしたら、辛すぎて自動的に記憶を抹消したのかも。そう考えると妹はラッキーですね(笑)
僕は、この男性の登場に対して少しだけ罪悪感めいたものを抱いていました。父の事を忘れて、家族になっていいものだろうか?そんな事を考えていました。
母に対しても初めて不信感を抱きました。
そんな簡単に人って変われるんだ?みたいな感情を持っていたと思います。僕は、小3の頃家で見た、母に抱きつく父の孤独な背中を思い出していました。
この後、この男性が家に来る頻度が上がります。その間に旅行に行ったり・ご飯を食べにいったりしました。
そうした遊びの期間を経て、この男性は僕達家族のために家を借りて、一緒に住み始めます。これが5年生の終わりごろ。気づいたら同棲していました(笑)
「新しい家で、一緒に住んでもいい?」母にこう言われた時、僕は「うん」と答えました。この時の「うん」には若干あきらめのニュアンスも入っていたと思います。
僕は「ここで僕が駄々をこねて、何か大きな変化があるのか?」と思っていました。なんか、すごーく冷めた小学生だったんですよね(笑)
ただ不思議なことに、家族の前では割と明るく振舞っていました。学校ではボーっと考え事をしていたのですが、家族の前では割と能天気な感じで振る舞えていたんです。
僕は、大人になるってこんな感じかなぁと思っていました(笑)
つまらない、ませた、嫌なタイプのガキですね(笑)
ちなみに、中学3年生の時に苗字が小栗から橘に変わります(笑)
ここについては後ほど話しますね(笑)
話を戻します。
僕は、苗字が変わった事による周囲の反応・新たな登場人物・陰口・家族との温度差について毎日毎日考えていました。
家族とは何か?とか、自分はどんな人間なのか?とか、劣等感を抱かずに済む方法は?とか、なんとなく哲学チックな問答を小学生の足りない頭で考えます。当然、足りない頭なので答えはでません(笑)
周囲からは辛気臭い奴だなぁという印象を持たれていたと思います。
5年生になって初めて明確に女子から嫌悪感をあらわにされるようになりました。まぁ、今思えば当然ですね。当時の僕には「劣等感を抱かないようにするためには何をすればいいか考えている」なんて説明するスキルはありませんでした。
傍から見れば悲劇ムーブ全開の男の子です(笑)
周囲の人間は僕の事を苗字の変わった暗い奴と思っていたことでしょう。
触れていい場所が分からないと、周囲は気を遣います。
その気を遣うというストレスが嫌悪感となって僕に還ってきているわけです。
まさに悪循環ですね(笑)
これが1学期。
前回の記事と比べると、アクションが薄いので一見地味に見えるのですが、ある意味一番辛かったかもしれません。経験するすべてが新しい体験でした。
だがしかし!
僕はここから変わります。
「お前には何も期待していない」こんな心にもない発言をしてきた担任に対し徹底対抗するのです(笑)
僕をあざ笑うような生徒全員にも大きな声で謝罪をさせます。
5年生の2学期・3学期は激しい傷を負いながらも僕と僕の環境をバカにしたすべての者に、自分の力・存在を示すためありとあらゆる手を尽くし反逆していきます。
ここから、暴君義樹君が発動します(笑)
はぁ~、しんどい(笑)
今思うとこの辺りから僕、かなりイタイんですよね(笑)
思い出したら別の意味で悲しくなってきました(笑)
ということで、続きはまた明日にします(笑)
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