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近所の小説家

近所に小説家が住んでいるらしいという噂がクラスで回っていた。

おれは小説家になりたかったし、書きかけのミステリで行き詰まっていたから、ちょっと訪ねてみることにした。

文豪と呼ぶにふさわしいただならぬ雰囲気で実際より何倍も大きく見えてしまうようなおじさんが、大きな平屋の奥で磨り減った座布団を何枚か重ねて黙々と筆を滑らす姿を思い浮かべていたのだけれど、噂の家はおれの友だちが住んでいるのと似たような一軒家だった。

実際と同じくらいの大きさに見えるけれど、そこそこ大きなおじさんが迎え入れてくれた。夏だったがエアコンはついておらず、室内はかなりの湿気で臭いも嫌な感じがした。長居をするのは生存にとって危険だと感じた。

おじさんはずいぶん大きなコップにぬるい麦茶を注ぎ、煎餅を添えて出した。勢いを殺さず、叩くようにテーブルにコップを置いたので中身がこぼれたけれど、特にそれを拭こうともしなかった。

おれは出された茶と菓子には手をつけずに本題に入った。

「おじさんは、小説家なんですか」

「ああ」短い返事。重くも軽くもなく、低くも高くもない、威厳もミステリアスさもない返事だった。ちょうど、一昨年担任だった増田先生が質問された時の反応と同じような感じ。増田先生は学校の中では若い方の先生だけれど一番若いというわけでもなく、最近は歳を理由に外遊びの誘いを断ったりもしていた。しかし、その割にはよく動けた。嫌われてはいないが特段人気というわけでもない先生だ。普段目の前にいる時以外には絶対に思い出さない人なのに、なぜだかこの時思い出された。

「どんな本書いてるんですか?」

「本はね、出していないんだ」

「え、本を出していないのに小説家なんですか?」

「小説家かどうかは小説を書いているかどうかで決まるんだよ。本を出しているかどうかは関係ない」

「小説家志望ってことですか?」

「いいや、小説家だ」

おじさんは調子を変えずに応答した。おれはちょっと意地悪な気持ちも含んで質問したものだから、ちょっと期待はずれだと思った。

すごい小説家を訪ねてきたつもりだったのに、目の前にいる不清潔なおじさんは僕と変わらないレベルの小説家なのかもしれないと思うと、前よりも部屋の臭いが気になってきた。

「おれも小説を書きます」

「じゃあ君も小説家だ」おじさんは言った。おれはいよいよどうして来たのかわからなくなっていたけれど、おじさんがずっと視線をこちらに投げていたので帰るとも言いづらくなっていた。

「おれはまだ志望です。だれにも読まれてないし」

「読まれているかどうかは関係ないよ。小説に重要なのは、書かれているかだ」

「えっと……わかんないです」

コップの輪に鼻を入れるようにして顔を突っ込んでいると酸っぱい臭いが少し和らぐことに気がついたので、おれはコップを口に咥えっぱなしでちびちび麦茶を飲むようにした。それに集中していておじさんが何を言ったのかよく聞いていなかった。

おじさんは鼻で鋭くため息をつくと、さっきよりも大きな声で早口気味に喋り始めた。

「うーん。いいかい、小説家の唯一の条件は、小説を書いていること。そして、小説の唯一の条件は、書かれていることなんだ。これは理解できるね?」

おれは出された煎餅を噛んでいたので、意味のない音声だけで返事をした。煎餅は少し湿気っていた。

おじさんはおれの返事をどう受け取ったのかわからないけれど、さらに語気を強めて続けた。

「そうか。では小説に大切なことは何かわかるかい?」

そのときおれはちょうど煎餅を飲み込んでお茶のコップもテーブルに置いていたので、返事をしないわけにはいかなかった。

「……人気があるかどうか?」

「ちがう!おもしろいかどうかだ」

「あ、でも……おもしろかったら人気が出るんじゃないですか」

「たしかに人気のある作品はおもしろい可能性が高いだろう。しかし、人から読まれたならばおもしろいと思われるけれどたまたま読まれていない小説というものも無数にある。作家の死後屋根裏部屋で発掘された原稿が傑作だった事例が世界中にいくつあることか」

おじさんは変わらずおれの方に顔を向けてはいたが、なんとなく目が合っている気はしなかった。そして、もはやおれの返事も待っていなかった。

「人は本を開いた後は小説を読むかもしれないが、少なくとも本を手に取る時には小説の中身なんてどうだっていいんだ。どんな賞を取った作家だ、どこどこのタレントがオススメしていた、表紙のイラストがきれい、読むか読まないか決めるのは小説の中身じゃない、その周りにまとわりついている権威と広告なんだ」

おじさんは床についた足でも椅子につけたお尻でもなくテーブル立てた腕で体重を支えながら言った。上半身の揺れに合わせてテーブルも少し揺れた。

「じゃあ、私たち小説家にできることはただひとつ。そう、おもしろい作品を書くことだけだ。それが誰かに読まれるかどうかなんて我々の知ったことではない、我々が飢えようが病に伏そうがそれも関係ない。完結も未完結も関係ないんだ。カフカの長編はどれも完成していない、にもかかわらずあれは間違いなく傑作だ、おもしろい。太宰にしたって遺作こそがもっとも我々の想像力をかきたてワクワクさせるじゃないか。むしろ未完の小説こそがおもしろい小説の証なのかもしれない。完結した作品、少なくとも作者に完結したと思われた作品は、そこで、おもしろさの、成長を、とめるんだ!」

おじさんはほとんど空中のどこかに向かって喚き散らしていた様子だったけれど、最後の方だけおれの方をしっかり向いて息を吐ききった。おれは完全に固まってしまった。臭いだけでなく、音もわからなくなっていたかもしれない。おじさんの姿は見えていたけれど、見えていないような感じがした。

おじさんは息を整えると、まるで大きな声など一度も出していないとでもいうような態度で接してきた。

「あ、麦茶のおかわり、つぎますね」

口調は柔らかく、敬語だった。わざと穏やかに接していることはおれにもわかった。子供に理不尽な態度を取った者はすぐに不審者認定されてしまうことをおじさんも知っていたのかもしれない。

おれは別におじさんが急に興奮して小説へのこだわりを語り出したことを誰かに言いつけようなどと思っていなかったから、それを心配されているのが気に食わなかった。おれは学校でもチクらないやつとして有名なのだ。確かにすこしばかし恐怖体験というやつをしたが、それくらいのことでチクるもんか。

おれはお茶を断って、席を立つ。部屋の外へ出る扉のところで、立ち止まっておじさんの方に顔だけ向けた。ここからなら、万一おじさんが機嫌を損ねてまた興奮して襲って来ても逃げ切れると思った。

「でも、読んでもらった方が小説もうれしいんじゃないかな」

おじさんは一瞬だけ唇を強く結んだけれど、すぐにやめて返答した。

「……そうかな。自分自身がおもしろければそれで満足だと思うんじゃないかな、小説は」

おれは顔を出口の方に戻して扉を開けた。

そういえば元々は行き詰まった小説の打開策を求めに来たことを思い出したけれど、同時に、当初期待していたのとはだいぶ違う小説家から答えは得られないだろうと思った。けれど、念のため、ということもあるなと考え直した。

「小説を書くコツとかってあるの?」

「ないね。書くか書かないかだ」

「なかなか書き進まないときとか、終盤で話がまとまらないときとかはどうするの?」

「悩んだらいいよ。あとは、終盤までいかないことだね。私は、生涯で未完の小説を一本だけ書くだろう」

いよいよ得るものはなかったのでおれは何に対してだかわからない礼だけ言って外に出た。


もしも今度は、あのおじさんが死んだという噂が回ってきたなら、こっそり屋根裏部屋を探しに行くつもりだ。


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