沈黙した恋人よ
パチッ……
フルフェイスのヘルメットに虫かなにかが当たった。
風を切る音、バイクのエンジン音、岩に砕ける波の音。どれもがとても気持ちよくて好きな音だったはずなのに。
僕はひとり、君の分だけ軽くなってバランスが取りにくくなったバイクを傾けながら海岸線を走っていた。
1年前の夏が始まる頃、せっかちな夏が梅雨の隙間に熱帯夜を連れてきた夜。僕は彼女と都会の暑さから逃れるように路地裏の通い慣れたバーにいた。
あの頃にはもうふたりの間にこれといって会話はなかった。
一緒にいることが当たり前になってしまって、愛し方を忘れていたんだと思う。
カウンターの隣に座ったカップルを見て何故か居心地が悪くなって僕たちは店を出た。
僕たちは何も言わず、近くの公園のベンチに座った。ふたりの間には不自然な距離があった。
1時間ほど経っただろうか。彼女がふいに口を開いた。
「ねぇ。行きたいところがあるんだけど」
その言葉が何を意味するのか、僕にはすぐにわかった。
「うん、ちょっとまってて」
僕は5分ほど歩いた駅前の駐輪場に停めてあったバイクを押して戻ってきた。
ヘルメットを彼女に渡して僕はバイクにまたがってエンジンをかけた。背中に彼女の温かい重さを感じた。
「いいよ?」
彼女の声を聞いたが、すこし躊躇った。このツーリングの行先がつらいものだったから。
それでも僕は小さく息を吸って僕の腰を抱えてる彼女の手に右手を重ねて呟いた。
「じゃあ、行くよ」
出会った頃からこうやってバイクを走り出していた。
ずいぶんと走った。車も人もいない明け方の国道を何本も走り抜けて海岸沿いに出た。
風が少し強い海岸線を走りながら、向こうに見える水平線は少し明るくなり始めている。
『私ね、君の背中で聞くエンジン音が好きなんだ』
付き合ったばかりの頃、彼女はそう言っていた。僕の背中ではしゃぐ彼女ももういなくなってしまった。
空が白み始めて水平線に朝日が顔を出した頃、思い出の岬に着いた。
まだ仕事をしている真っ白な灯台の下にバイクを止めて僕たちは岬の先まで歩いていった。
彼女は黙って海の向こうを指さした。そこには何も無かったけれど、僕はまた出会った頃を思い出した。
『かもめ!かもめがいるよ!』
初めてのデートでこの場所に来た時に彼女は番のかもめを指さしてそう笑った。
あの頃と同じように、しかし何も言わずに何も無い空を指さす彼女をみて僕は胸が締め付けられた。
彼女が指さしたまま僕の方をみた。その頬は朝日を反射して少し光っていた。
潤んだその目は僕に何かを伝えようとしていた。でも僕にはわからなかった。
僕はなにか言おうとして口を開いた。だけどその口からは何も出てこなかった。
彼女も腕を下ろして目元を拭った。そして何か言いかけて、やめた。
まだ夏が始まる前の朝、あの岬を最後に僕と彼女は同じバイクに乗ることはなくなった。
黙っていたら夏が終わってしまった。僕はちゃんと君を愛していたのだろうか。
教えてよ、
沈黙した恋人よ。
〈完〉
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