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エンタメ異人伝 Vol.1 株式会社日本ファルコム 創業会長 加藤正幸氏

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 
そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。
 
記念すべき第1回目は、日本のパソコンゲームの黎明期から現在に至るビデオゲームのパイオニア的存在である、株式会社日本ファルコム 創業会長 加藤正幸氏です。コンピューターを愛し、サラリーマン時代を経て、ソフト販売のショップを開店、ソフト開発を行い、日本におけるパソコンゲームの市場を開拓してきました。今まであまり語られることのなかった加藤氏の半生を追いしました。

取材に応える加藤正幸氏

 ■サラリーマンを経て起業 その背景とは
黒川:加藤会長は日本のゲームの歴史を作ってきた方の1人です。そのあたりのお話しや今にいたるご苦労などをお聞きしたいのですが、最初はパソコンショップから始められたのですよね?

加藤:ショップをやりたいという夢はありましたが、お金がまったくなかったんですよ。僕はその前の10数年間、自動車会社で大型汎用コンピューターのSEをやっていまして、あの頃のSEは10年以上経験のある人間じゃないと出来ないという時代でした。それで、僕が退社したときに「こんな仕事をやりませんか」というお話をいただきまして、その仕事で得たお金でショップを開いたんです。

黒川:もともとはプログラムやシステム作りなどをされていたのですか?

加藤:そうです。かなり原始的でしたが、その頃からオンラインを導入していたんですよ。テレックス(※1)はご存知ですか? テレックスって50ボーなんですよ。50ボーとは50bpsのことです。もう、めちゃくちゃ遅い(笑)。回線に信号がきているかどうかクリスタルイヤホン(※2)を使って音で確認するとか、そういう時代です。

(※1)電動機械式タイプライターで、有線無線通信回線を通じて印字電文の電信電気通信)に用いられた機材。
(※2)鉱石ラジオやゲルマニュームラジオに使われていたイヤホン。無電源で使用できるのが特徴。

黒川:今から45年前くらい前の話ですよね?

加藤:そうそう。ただ、自動車会社っていうのは当時すでにテレックス網を世界に張り巡らしていたので、まずはそのテレックス網を使って国内オーダーエントリーみたいなものをやろうとしたんですよね。各営業所や販売店やモータープールなどに、いつ、どこに、どういう車がいくかなどの配車計画などから始めました。多分、僕は日本でそういうオンライン的なことをやった草分けだと思います。

黒川:時代を先駆けていたのですね。

起業に大きな影響を与えたタイ駐在員時代

加藤正幸氏

加藤:辞める3、4年くらい前は駐在員としてタイのバンコクにいました。何もないところに人を集めて部署を作ってね。新聞広告で技術者を募集して面接したんです。それが起業にはとても役に立ちました。

黒川:会社を辞めて起業しようと思う、きっかけのようなものがあったのでしょうか?

加藤:タイではかなり自分の裁量権が広かったのですが、戻ってきたらそうではなくなったわけです。まず、そのカルチャーショックはありました。それから、僕は入社以来コンピューター部門一筋でやってきたのですが、ちょうどその頃に経理部門に配置転換になったんですね。自分は経理でも同じような仕事をやるんだろうと思っていて、さほど抵抗はなかったのですが、そのことを知った同僚や後輩が5人くらい僕のところに来て「加藤さん辞めるんでしょ?」、「だったら一緒にやりたいんだけど」みたいなことを言ってきたんです。これが、きっかけといえばきっかけかなあ。

黒川:その方たちと独立して起業されたわけですか。

加藤:いや、最初は「え?」となりました。「いや、そう言ってくれるのはありがたいけれど、ちょっと待って」と。でも、いろいろ言われているうちにその気になってね。「やっぱり、辞めようかな」となったわけです。でも僕は慎重なので、会社を辞める前に、まずはみんなの仕事を見つけることから始めました。もっとも、一緒にやろうと言ってきた人たちも、いざとなったら上司に1人1人懐柔説得されていって最後には1人か2人しか残らなかったんですけどね(笑)。 黒川:なるほど、そうだったのですか。   

写真)1981年創業当時のファルコムショップ内の風景

■日本のビデオゲーム産業の夜明け前・・・・・・

加藤:それで、最初の話に戻りますが、ショップをやりたいけれど店を開く資金がないわけですよ。そんなとき、僕がバンコクにいたことを知っている人が、タイの交通局絡みの仕事を持ってきてくれたんです。タイの東北地方の交通経済シミュレーションモデルを作るので、そのプログラムをやってほしいと。しかも、報酬は1人月120万です。

黒川:当時としてはすごい金額じゃないですか!?

加藤:なんでも有名な大企業の仕事で、その下請けがありまして、その下請けのまた下請けみたいな。孫の孫だから曾孫受けですよね。それでもその金額なので、元はいったいいくらもらっているんだろうと思いましたね。

黒川:確かにそれは思いますよね。

加藤:それで「じゃあ、やります」となったわけですが、交通局みたいなお役所の仕事はに行かなければならないのですが、僕自身起業したばかりで行けないので、大阪の知人にやってほしいと頼みにいきました。帰りに大阪の空港でスペースシャトル着陸(注3)のテレビ中継を観たことをよく覚えています。その仕事を1年か2年くらいやりまして、得た資金を元手にして立川にショップを開いたんです。 

(注3:スペースシャトル・コロンビア号1981年4月14日に地球帰還)

黒川:立川という場所に何かこだわりがあったのですか? 普通は秋葉原を選びそうな気がしますが。

■ファルコムショップ開店秘話

加藤:いや、日野に住んでいて単に近かったというだけです。僕は横着なので、あんまり都心には行きたくない(笑)。でも、取材のたびに必ず聞かれましたよ、「なんで立川なんですか?」って。今の近藤(季洋)社長は「僕はゴミゴミしたところはあまり好きじゃないですから、ちょうどいいです」みたいなことを言ってくれましたけどね。

黒川:近藤さんはそういうタイプかもしれませんね。(笑)ところで、なぜ「ショップ」だったのでしょうか?

加藤:僕はもともとAppleIIに衝撃を受けて、それをネタにして独立しようみたいな気持ちがありました。バンコクにいたときにホテルでやっていた展示会で初めて見て、ちょっとビックリしちゃいまして。これからの世の中、AppleIIみたいなパーソナルユースの小型機の時代なんじゃないかと思ったわけです。

■Apple IIの衝撃

黒川:Apple IIのどこに衝撃を覚えられましたか?

加藤:そもそも僕が東京にいたときに使っていたのは大型汎用コンピューターで、レンタル料が1カ月5千万円くらいしたのですが、大昔の機械ですから大げさな割にたいしたことはできなくて色すら出せなかったんです。ところが、Apple IIは色が出せる(笑)。

黒川:当時はそんなことが驚きだったのですね。

加藤:そんなところで「え~?」みたいなね。それにディスプレイ。あの頃はディスプレイも非常に高価だったわけです。64文字くらいしか画面に映せないのに、僕の知る限りで80万円とか90万円とかしました。ところが、Apple IIはいろいろな映像を描き出せる。本体の作りも非常に簡単で、今までは基礎工事とかやって設置していたのにApple IIは、カバーがマジックテープのようなものでくっ付いていてネジも使ってないし、パカって開けると中身が見える。とにかくビックリしちゃって、「自分たちは今まで長年何をやっていたんだろう」みたいな気分になりましたね。

黒川:まさに時代が変わるみたいな感じですか。

加藤:そう感じましたね。「これでいいの? アースはいらないの?」ってね(笑)。値段にもちょっとビックリして。こんな値段で買えるのかと。もちろん、サラリーマンにとっては高額でしたが、大型汎用コンピューターに比べたらゴミみたいな値段ですよ。端末1台の価格にもまったく及ばないっていう。その頃はタイプライターみたいにガシャガシャ打つ端末1台だけでも180万円とかするわけですから。

黒川:だいたい、いくらぐらいで買われたのですか?

加藤:海外の駐在員は給料も少し多めだったんです。だから、僕はApple IIを買うためにコツコツ貯金していたんですよね。それで、日本に帰ってすぐに秋葉原のツクモ電気へ行って買いました。フロッピードライブもあわせて買ったのですが、今ならフロッピーディスクのリーダーって1000円くらいでしょ? それが当時は20万円くらいしました(笑)。本体と両方で60万円くらいだったと思います。

黒川:大変な金額ですね。今の価値なら180万円くらいですよね?

加藤:それで、ウチに持って帰ってきたわけですけど、家でも会社と同とことをやっていたらちょっとアホくさいなと思いまして、自宅ではエンターテイメントっぽいものだけやろうと。当時、長男が5歳だったので、その子に遊ばせるためのゲームを作っていました。

黒川:どんなゲームを作られていたのですか?

加藤:普通のシューティングゲームみたいなものが多かったですね。雑誌などに載っているプログラムを打ち込んで自分なりに改造したりしてね。でも、子供にやらせたら弾がすぐになくなるとか、こっちから敵が来ないようにしてとか、いろいろ注文が出てくるわけです。それを徹夜で直して、みたいなことを毎日やっていました。それがまた楽しかったんですよ。まあ、オタクだったんですね。

黒川:それはすごいですね。

加藤:当時はコンピューターの技術者がまだまだ少なかったですし、そういう人たちを集められれば事業としてどんどん拡大していくのではないかと思ったわけです。ただ、僕みたいな経営の素人では人を集められない。それで、お店を作ってそこに来る人たちの中から人材を集めて、仲間にしていったらと考えたんですよ。当時、パソコンはまだ難しかったり面倒臭かったりしたので、普通の電気屋さんや量販店ではほとんど扱っていませんでしたからね。

黒川:なるほど、そういうことだったのですね。

■同人サロンのようだったファルコムショップ

加藤:同じような専門店がポツポツ出てきていましたがサロン風にして、そこに集まってくる人たちを相手にしていくみたいなやり方をするところは多かったです。そうしたショップに来る人たちはみんな知的好奇心に飢えていて、僕みたいな技術的なことを10何年やってきた人間と話ができる機会は貴重だったんです。大学の先生から相談を受けたりもしました。上智大学の考古学の先生が来て、「エプソンのラップトップパソコンを大学の大型機に繋げたいんだけど、そういうプログラムを作ってくれないか」とか。

黒川:それもお仕事の一環ですか?

加藤:いやいや、単に面白そうだったので引き受けました。大学の先生はお金がないですからね。「おお、これから大学の大型機を自分でも使えるぜ」みたいなことは思いました(笑)。今から考えたらウソみたいな話ですが、あの頃はセキュリティの概念なんてほとんどなかったですし。

黒川:危ない話ですよね。起業時のショップはどのようなものだったのですか?

加藤:アップルの代理店などもしていました。アップルのゲームソフトを扱っているところが日本にほとんどなかったので、それを輸入して売ったりしていましたね。そういうわけでアップルのゲームをたくさん仕入れましたが、雑誌に広告を1ページ出すとそれでもうトントンでした。昔の雑誌の広告はすごく高かったんですよね。

黒川:当時、コンピューター雑誌にゲームの広告を載せると現金封筒が大量に届いてかなり儲かったといいますが。

加藤:それはもうちょっと後の話ですね。その頃はまだそんなに売れていませんでした。それに、アップルのゲームってすごく高かったんですよ。ビニール袋にフロッピーとペラの説明書が1枚入っているだけのものが当時8500円とかね。

黒川:それだけで8500円? ヒドイですね(笑)。

加藤:だから、米軍基地のアメリカ人の若い人たちとか、大学病院の先生とか、新興宗教の僧侶の方とか、そういうお金を持っている方たちがお得意さんでしたね。

黒川:別のインタビュー記事で読ませていただいたのですが、お店はけっこうヒマだったそうですね。

加藤:ヒマといっても高価な機械ですからね。1日1台売れれば御の字だったんですよ。

黒川:アップルの代理店になるのは大変じゃなかったですか?

加藤:いやいや、それが全然大変じゃなかった。東大の赤門のちょっと前あたりに「ESDラボラトリ」(※4)というApple IIを扱っている会社がありまして、そこに「ウチにもちょっと卸してくれ」と頼んだのですが、そうしたらウチの名前が知らない間にアップルのほうにも行っていて、いつの間にか代理店リストに載っていたという(笑)。

(※4)日本初のApple II販売代理店

黒川:では、なし崩し的にという感じですか?

加藤:そうです。向こうのいろいろな印刷物とか見ていたら、「あらっ、ウチが出ているぞ?」みたいな。そういう適当な時代だったんですよね。今でも覚えていますけど、ESDラボラトリは水島さんという東京大学の教授が作った会社で。東大の理化学機械みたいなのがあるでしょう? それにコンピューターを繋いで何かやるとか、そういったシステム作りを全部Apple IIでやっていたらしいんですよね。そういうことをやるところって、当時はまだほとんどなかったんですよ。会社も研究所というか大学のゼミの集まりみたいな感じでした。入口で靴を脱いで、みんな裸足で仕事をしているみたいなね。

黒川:いい時代だったんですね

写真)1987年 ファルコムマガジン 表紙のイラストは加藤会長自らの手に依るもの

■アップルのドラスティックな施策とショップ転換期

加藤:ただ、アップルは仁義を守るっていう会社ではないんですよね。ある日突然、バンって(販売権を)そこから全部取り上げちゃって。確か、東レが権利を取ったんだったかな? ああ、アメリカの会社っていうのは、こういうドラスティックなことをやるんだなと実感したのを覚えています。

黒川:コンピューターに興味がある人たちが集まるようなサロンになっていたということでしたが、そこからじょじょに商業的なゲームを作ろうとなっていったわけですか?

加藤:先ほど言われたようにヒマだったのですが、何10万円っていうマシンが売れる瞬間を逃したらアウトですから店を空けるわけにはいかなかったんですよ。店を離れられないので、その間に売っているアップルのゲームを遊び倒したわけです。

黒川:なるほど、ずっとプレイしていたわけですね。

加藤:それがやっぱり基礎になったといいますかね。そうして、いろいろなゲームをやったり見たりしていたら、「これだったらウチでもできるんじゃないか」となりまして。店に来ているお客さんに「やってみない?」と(笑)。日頃から彼らが作成したものや打ち込んだものを見てあげたり、直したりしていましたからね。その中にわりと優秀なお客さんがいて、「待てよ、これは商品になるんじゃないか?」というものもありましたから。

黒川:それが『ドラゴンスレイヤー』シリーズの木屋善夫さんだったりしたわけですか? 

加藤:そうそう。もっとも最初の頃は売り物になるかわからないようなもので、とりあえずやってみるみたいな感じでした。報酬もお金じゃなくて大型テレビとかね。

黒川:ゲームをお出しになって、これはいけそうだなと思われたのはいつ頃ですか?

加藤:最初からいけそうかなとは思っていました。やっていることは非常にこぢんまりとしていましたけどね。ただ、最初にソフトを出したときのことは今でも忘れられません。この話はよくするんですけど、当時はそういうゲーム専門の卸店というものはないですから秋葉原に技術書などを卸している本屋さんに頼んでいたんです。それが元になって後にI/Oさんとかがやり始めるわけですけど、最初はそういうところが卸しをやっていたんですよ。昔風の本が山積みになっていてクレーンとかがあってね。社長が作業しながら出てきて、「ああ、これ。じゃあ置いといて、後で注文出すから」みたいな感じで。

黒川:牧歌的な時代ですね。

加藤:それで誠光堂さんっていう本屋さんがあったのですが、そこから最初の注文が来たのが700何本かな? 今ならどうということはない数ですが、当時の僕らは「ええっ、そんなに?」、「作れないよ~」となりましてね(笑)。だって、コピーから箱詰めまで全部自分たちでやっていましたから。来ているお客さんたちにも手伝ってもらったりしました。

黒川:1本1本すべて手作業だから大変ですよね。

写真)1981年 開業当時 のファルコムショップ内の風景 写真左は加藤氏

加藤:ジョセフ・ルドンさんっていうフランス人のゲームコレクターの方がいるじゃないですか。彼がテレビに出演していたとき、ウチのソフト『GALACTIC WARS 』が出てきたんですよ。「おお、懐かしい」と思って見ていたら現在の値段が40万円って。確かに世に出たのは約700本だけですから希少価値はありますよね。でも、観たときは「ええー、ちょっと待って!」、「まだ、裏に残ってないか?」となりました(笑)。

1987年頃「ウルティマ」開発者リチャード・ギャリオット氏と来店のおり、エプロンをつけての記念写真

■ゲーム・パッケージ開発秘話

黒川:いや~すごいですね、それは。

加藤:そのゲームはすごく思い出深い作品なんですよ。当時のパッケージはチープなものがほとんどだったのですが、ウチはきれいな箱に入れてイラストを貼ってね。そういうことを始めたのは、かなり早いほうだったと思います。でも、お金がないから兄の描いたイラストをタダで使わせてもらって。実は、ウチの兄はイラストレーターなんですよ。

黒川:そうなんですか?

加藤:カッパ・ブックスみたいなペーパーバックの挿絵や扉絵などを描いていたんですよ。それで、兄のところへ行くとアトリエに描いたものがダーっと山積みになっているわけです。その中から探してきたものを使っていました。「これ貰っていい?」とか言ってね。兄が描いた絵がパッケージですからね。今でもすごく思い入れがあります。ルドンさんに言っとかなきゃ、それは(笑)。

黒川:いろいろな工夫されていたわけですね。

加藤:今、起業する人たちみたいにお金を借りてドーンという方法ではないですからね。最初にも言いましたが、とにかく起業して「何か仕事ありませんか?」みたいなのを見ていると、ちょっと違和感があるんです。まず、仕事が先だろうと。

写真)1981年 開業当時のファルコムショップ内の風景 外国人のお客様も多かった

■自分はすこしづつしか進めない人間だから

黒川:まず何をやりたいか、何をやるかみたいなことですよね。

加藤:僕はたまたま、当時勤めていた自動車会社のトップの方たちと知り合いだったんです。そこの会長が銀行から来られた方だったのですが、ウチの親父が将棋指しで、その銀行の将棋の顧問をやっていたんですよ。社長は親父の幼なじみでね。そういった間柄でしたから、会社を辞めることになって挨拶にいったのですが、そのとき「何をやるんだ?」と聞かれまして、当時の僕は起業とかそういう感覚はなかったので「商売をやるんです」と言ったんですよ。「ああ、そうなんだ」、「お前にそんな気概があるとは思わなかった」みたいに言われましたね。その言葉どおり「商売をやる」という感覚で始めたので自然にこう、ちまちまと。まあ、仕事は好きですけどね。でも、そういうヤツは大成しないんですよ。

黒川:そんなことはないでしょう。

加藤 だって、そういうことが好きな人が会社を興してビッグカンパニーになったのは、コーエーテクモゲームスさんくらいでしょう。エニックスを創業した福嶋康博さんとか、スクウェア創業者の宮本雅史さんとかは違いますよね?

黒川:言われてみると確かにそうですね。他のこともしつつゲームもやって成功したという。

加藤:そうじゃないと思い切ったことはできないですから。何かこう、少しずつしか進めないんですよね。

■キャッシュフロー経営の原点は

黒川:加藤会長はいい意味ですごく身の丈に合われた経営をされてきたと僕は思っていますが、それはそういう起業時のお気持ちが常にあるからですか?

加藤:自動車会社時代、一緒にタイで仕事をした1つ下の後輩が、今、その自動車会社の会長なんですが、彼はずっと経理畑にいたので、辞めるときに「退社して会社を作るんだけど、会社経営で一番難しいことは何?」と聞いたんですよね。そうしたら「う~ん、資金繰りやね」って答えたんですよ。

黒川:それは大事なことですね。

加藤:じゃあ、資金繰りが必要ないやり方をすればいいんだなと。だから、僕は無いお金は使わない。入ってきたお金だけ使うみたいなね。僕は割とそういう言葉にとらわれるところがあるんです。ウチの親父は古い人で「どんなところでも入ったら10年は我慢しろ」と言っていたのですが、それを守って「あのー、12年いたからいいでしょ?」みたいなね(笑)。

黒川:ファミリーコンピュータなどの家庭用ゲーム機に参入するまでに時間があったように思いますが、パソコンへのこだわりのようなものがあったのでしょうか?

加藤:それは単純にパソコンが儲かったからです。量じゃなくて率ですよ。だいたいあの頃で、パソコンのほうが利益率は3倍か4倍。多いもので5倍くらいでしたからね。一方、当時のファミコンは非常に資金が必要で初期投資だけで5億くらいかかったらしいです。

黒川:そんなにですか!?

加藤:ファミコンカセットは生産に何カ月もかかるから、見込みで何本作るか決めなければいけないわけです。ああ、こういう商売はちょっと僕には向かないなと。さっきの話ではないですが、ある金しか使わないという主義ですから。いろいろ調べる中で、なんとなく足が遠のいちゃいましてね。誰の許可もいらないというのもパソコンゲームは自分向きでした。モノを作るのに、誰の許しを得る必要も頭を下げる必要もないというね。


写真)1990年ごろ 社内風景

■長く愛されるキャラクターを創りたい

黒川:なるほど、分かるような気がします。

加藤:僕はサラリーマンを10何年もやっていたので。ちょっとサラリーマン商売なところがありました。ショップ時代も同じで、こっちが先生でしたから。昔の家電店がよくやっていた「えばり売り」みたいなものですね。

黒川:「えばり売り」とは何でしょう?

加藤:店員さんがえばっていると、その店員の技量みたいなものをお客さんが信用するわけですよ。知っている人がこう言っているんだから間違いないと。それに近い感じだったかなと。

写真)1990年頃シカゴCESにて

黒川:御社の作品は続編が多いですが、それも会長の慎重さゆえですか?

加藤:僕にはミッキーマウスみたいなキャラクターを作りたいっていう夢があるんです。それで、まだまだ目が出ないときにサンリオのキャラクター制作担当の方を紹介していただいて……今考えると馬鹿みたいですけど「キャラクターを作るコツは何ですか?」と聞いたわけです。そのときにその方に言われた言葉がもう一生の宝物みたいになっていて、それを今もかたくなに守っています。

黒川:なんとおっしゃられたのか、教えてもらえますか?

加藤:それはね、「やっている方が飽きないことですよ」と。「あっ、なるほど~」となりましたね。ゲームもそうなんですけど、作っている方は新しいものをやりたがるんです。でも、シリーズものがないところって大成していないですよね。やっぱり、自分たちが育ててきたタイトルは大事しないと。音楽もそうじゃないですか。本当に流行った曲は何十年経っても色あせないですよね。

黒川:確かにそうですね。自分たちも飽きないようにしたいし、ユーザーにも飽きないものを提供したいと。

加藤:いや、作っている方は絶対飽きちゃいます。ただ、これはどこもやっていることですが、そうなったら作り手を変えればいいんですよ。

■ファルコムサウンド三原則は変わらない

黒川:御社の音楽三原則について聞かせて下さい。「一度聴いたら忘れられない、思わず口ずさんでしまうメロディ」、「ここぞというところに、グッとくるサビ」「起承転結が感じられる構成」。これもやはり、会長の音楽はそうありたいという考えの現れですか?

加藤:30年以上前に考えたものなので非常に古臭い感じもしますが、これはもう永遠に変えなくても大丈夫なんじゃないかなと思っています。メロディがないものでもいいものはたくさんありますが、やはり僕たちが曲を判断するときメロディが一番分かりやすいわけです。もちろん、メロディなしでもぶったまげるぐらいかっこいいものであれば、それは別ですけどね。

黒川:当初からゲーム音楽も音楽だからスタンダードにしたいというお考えがあったのですよね。

加藤:それはもう『サナドゥ』からですね。それまでのゲーム音楽には起承転結のあるものがなかったんです。だから、僕は『ザナドゥ』で「起承転結のある、ちゃんとした曲を作ろうぜ」となったんです。ゲームから離れても「ああ、曲なんだな」となるものを作りたいと。ところが、当時は誰も曲を作れなかったんです。それで、ゲーム雑誌の『ログイン』などで音楽関係の記事を書いていたライターさん……今でもフェイスブックで繋がっていますけど、その方に作ってもらうことになって。いろいろ話をしたてみたら彼が帰国子女で中近東にいたというので、「そうなんだ。それでいいよ、それでいこう!」と。『ザナドゥ』の曲ってそういう感じでしょう?

黒川:そういう経緯だったのですか。

写真)世界的に著名なキーボディスト 難波弘之さんとスタジオでのサウンド制作中のヒトコマ 1989年頃キングレコード録音スタジオにて

加藤:1』は1曲だけだったので、その曲を早くしたり遅くしたりして使いました。僕は当時『太陽にほえろ』方式って言っていましたね。

黒川:確かに、あのドラマの音楽も同じメロディのものが、ゆっくりになったりすごく早くなったりしますね。そうか、そういう方式なんですね。
加藤 だから、すごく印象的なんです。ゲームは映画などと比較しても、その音に接している時間が圧倒的に長いですから。

■新海誠さんなど、有能なファルコム・チルドレンを多数輩出してきた理由

黒川:確かにそうですよね。それにしても、会長のところからは多くの才能がファルコム・チルドレンとして旅立たれていますね。

加藤:たった50人くらいしかいないのにね。有名人がいっぱいでてくる(笑)。

黒川:すごいですよね。サウンドでいえば古代祐三さんもそうですし。

加藤:古代くんはウチのご近所さんで、今でもハンバーガーショップとかで会うことがあります。とても礼儀正しく、わざわざこっちに来て「ああ、こんにちは」って。

黒川:アニメーション作家の新海誠さんもそうですよね。どんな方でしたか?

加藤:彼は現社長の近藤の先輩なんですよね。近藤が入社した頃のゲーム会社は、ちゃんとした大学を出た人が入ろうとすると親がみんな反対したんですよ。だから、近藤が入社希望で関西の方から来たとき、彼(新海氏)にどうやって親を口説けばいいのか教えてやれと言ったんです。そうしたら「分かりました」と言って、じゃあ一緒にメシ食って来いって。

黒川:ハハハハハ、面白いですね。

加藤:新海君は文学部の出で、確か一般職みたいな形で入ったんです。僕はデザインをやるとき、常に誰か1人くらい自分の側に置いて一緒にやるんですけど彼もそういう役割でした。『ブランディッシュ』のロゴを作る仕事をやったのはよく覚えていますね。最終的には上手くいかなかっですけど、墨で英字を書こうみたいな話になりまして紙をいっぱい置いて2人で座ってああだこうだと。

黒川:当時はまだ絵を描けなかったのですか?

加藤:今みたいなキャラクターだとかそういうものは描けなかったので、背景画を描かせたりしていました。だから、彼のああいう美しい背景のルーツは『イース』ですよ。あれはCGじゃないですから。

黒川:そういう過去もあったのですか。

加藤:不思議にキャラクターの上手い人はデッサンがおかしかったりするんですよね。でも、デッサンが上手くても魅力的な絵が描けないっていう人も多くて、なかなか難しいですよねこの世界は。

黒川:分かります。そういうところはありますよね。

加藤:音楽もそうですよね。ある程度自分たちでやっていると、基本的な音楽理論みたいなことを身につけるべきじゃないかという話が出てくるわけですよ。そんなことやっても意味はないと僕は思っていたのですが、みんなが言うんだったらとアレンジをやってもらっていた芸大出の先生に頼んで毎週来てレクチャーしてもらったんです。絶対みんなすぐに閉口するぞって思っていましたが案の定でした。

黒川:音楽理論と作曲は別物であると。

写真)作曲家、ピアニストとして有名な羽田健太郎氏(故人)とスタジオで音源制作中のヒトコマ 1988年頃キングレコード録音スタジオにて

加藤:そもそも音楽理論なんて、そんな簡単なものじゃないですから。これはこれでまた別の難しさがあるんです。そこへ突っ込んでいっちゃうと。でも、芸大に行っても曲が書けない、絵が描けないという人もたくさんいますからね。「僕らは素人だからいい曲が書けるんだぜ」と思っていればいいんですよ。

黒川:説得力のあるお言葉ですよね。

■永遠のアマチュア宣言

加藤:僕らは「永遠のアマチュア」でいいんです。僕も経営者としてはアマチュアです。70歳にもなってアマチュアってどうなのと言われそうですけどね(笑)。

黒川:Apple IIから始まったこの45年くらいを会長はどのように見ておられますか?

加藤:コンピューター的観点から言うと基本的にやっていることはあまり変わっていない気がするんですよね。ストアードプログラム方式(※5)ってコンピューターが出てきたときから変わっていないじゃないですか。これでどこが発展したんだと。

(※5)メモリに記憶させた命令(プログラム)を呼び出して実行する方式のこと。

黒川:言われてみれば大して変わっていませんね。

加藤:もともと僕がコンピューターをやりたいと思ったのは中学生くらいのときに、安部公房さんの『第四間氷河期』を読んだからなんです。第四氷河期が来るので、それに適応するために人間を改造して水の中でも生きられるようにしようみたいな話なのですが、その中に出てくるんですよ。アニメとかによくありますけど、頭に電極を刺すと脳内の映像が映るみたいなものが。それを読んで「コンピューターってすごいんだな」となったわけです。

黒川:なるほど、コンピューターに対してものすごくイメージが膨らんだわけですね。

加藤:ところが、今でも基本的にインプットはキーボードで、新しく出てきたものはたかだかマウスくらいでしょ? これもコンピューターが出てきた頃からほとんど変わっていないですよね。

■50年やっても1年目の才能に負けることもある

黒川:スマートフォン向けのゲームについてはどのようにお考えですか? 

加藤:新しいことが嫌いなわけじゃないです。できればやりたいけど、とりあえずできないからやらないといったところです。そういう新しいことはいつもやろうとするんですが、なかなか周りがついてきてくれないというか(笑)。僕自身は昔から新しいもの好きです。ツイッターもフェイスブックも社内で自分が最初に始めましたし、ホームページもそうです。

黒川:言われてみれば『戦国ソーサリアン』のダウンロード販売を20年以上も前に始められていますし、音源の自由化なども行われています。新しいことにいろいろチャレンジされているんですよね。

加藤:ただ、ひとつ言っておきたいのは、この仕事は経験が長いからできるわけじゃないということです。50年やっている人間がキャリア1、2年の者に負けたりするわけですから。そこは、僕もちゃんとわきまえています。絵の仕事が一番分かりやすいですよね。音楽もそうでしょう?


写真)アイドル 杉本理恵(※)さんと一緒に記念写真 1991年 キングレコード授賞式にて


※)1990年、『イースⅡI』のヒロイン・リリアのイメージガールを探す「ミス・リリ・コンテスト」でグランプリを獲得。1990年7月21日、キングレコードのファルコムレーベルよりミニアルバム『LILIA』をリリース。

■自分たちが教えられることはない

黒川:おっしゃるようにすごい新人が出てくるということがありますからね。

加藤:かなわない人たちがたくさんいますからね。だから、自分ができる範囲内で精一杯やっていくしかない。ウチでみんなによく言いっていることは「できないなら、やらなくていいよ」、「自分ができる範囲内でできることを精一杯やればいんだよ」です。

黒川:最後に、今の若い人もしくはクリエイターを目指す次世代の人へのメッセージをいただきたかったのですが、何かありますか?

加藤:う~ん、ないですね。自分たちが教えられるようなことはないもん(笑)。僕みたいなやり方をしたいのでしたら「無理をしないで手を抜くな」とか、そのくらいのアドバイスが関の山です。そのやり方がいいかどうかも分からないですし。無理をしないと飛躍はできないというのも事実ですからね。当たり前の話なんですよ。(ソフトバンクの)孫さんを見ろとね。あの人はいつも崖っぷちにいたから、あそこまで行けたんだろうと。だから、安全なところを歩いていたら、やっぱり大きく飛躍するってことは少ないわけです。見ているほうからすると自分みたいなのは面白くないと思いますよ。 

黒川:いや、そんなことはないと思いますよ。

加藤:だって、僕はよく『あしのたジョー』の話をするんだけど「あんなことはないからね。不可能を可能にするっていうけど、不可能って可能性がないっていうことでしょ? それが可能になるわけないだろう」みたいなことをいつも言っていますからね。宝くじも確率的に考えたら僕の感覚ではゼロですから、そんなの買うってありえないだろうみたいな話をよくします。「でも、当たる人もいるでしょう」って言うけど、隕石が降ってきて当たるヤツだっているだろうってね(笑)。

黒川:それはそうですけど、とことんシビアですね。

加藤:そう、ウチがやっている事業で赤字になっているものはほとんどないです。どんな小さなライブなんかでもすべて黒字なんですよ。そういうルールなんです。グッズ1個でもちゃんと計算書を出して赤字になったらもう2度とできないっていう仕組みですから。

黒川:それはすごいことだと思います。

加藤:そんなことやっていたら先に進まないよって言われると、まあその通りだろうとも思うんですけどね。

加藤氏と記念のツーショット


 
了)

黒川文雄【インタビュー取材】
くろかわ・ふみお 1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN Playart)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

写真撮影)北岡一浩
写真提供)日本ファルコム 加藤正幸様
出展元)ソニーマガジンズ エンタメステーション 
2017年収録出展

※御高覧ありがとうございました。以下の取材、編集後記のみ有料です。その当時の私の心境やこのインタビューに関する思い出などを綴っています。支援の一環としてお読みいただける方のみ支援をよろしくお願いします。

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